試合後の風呂は格別だ。なにより自分のFKが、それも思い描いた通りの軌道を辿って入ったゴールが決勝点となった試合の後なんかは、最高に気分がいい。いまだ覚めやらぬ興奮を湯の中に排出するように、昂っていた精神が緩和されてゆくのが感じられた。

 風呂場の真っ白な壁を眺めながら、数十分前、インターホンを押したと同時にドアが開いて、腹にずどんと衝撃が走ったことを思い出す。アメフトのタックルさながらの勢いで抱き付き「おかえり」を連呼するそのためだけに、"今から帰る"というLINEを既読にしてからずっとドアに張り付いて、覗き穴越しに正面の壁を眺めていたというのだから馬鹿としか言いようがない。
 じゃあその馬鹿をイラつくほど愛しく思う俺はなんだ。先輩の誘いを断ってまで直帰したのはなぜだ。救いようがない大馬鹿は俺のほうじゃねえか。自問自答すること自体が馬鹿らしくなって、首を振りながら湯船から飛び出した。

 頭にかけたタオルからは洗いたての、花畑みたいな香りがした。バスマットは常に乾いていて、床には髪の毛一本見当たらない。洗面台の鏡は昼夜を問わずピカピカと明かりを反射しているし、歯ブラシは毛先が広がる前にいつの間にか新しいものに変えられている。苦手だったはずの家事も最近はそれなりの主婦らしくこなせるようになったそうだ。
 もはやこの家のあらゆるものがあいつの香りとぬくもりで満ち満ちている。

 タオルで髪を拭きながらリビングへ向かうと、先週買い換えたばかりの46インチ液晶テレビのまん前で正座しているなまえの背中が目に入った。
 テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見て下さい、などという子供向けアニメのテロップみたいな忠告をしなくてはいけない新妻と、そんな女を選んでしまった自分にほとほと呆れながらも、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すよりも先に、「クソタワケ女」と声をかけてしまう俺を見たら、チームメイトたちはどんな顔をするだろうか。笑われるのはまず間違いないと思うが。


「近すぎだバカ。もう少し離れて見ろ」

「あっちゅん、おそ~い」

「あ?」

「もう始まってるよぉ」


 先ほどまでの上機嫌が急降下しそうになるのをぐっと堪えて、促されるがままTV画面に視線を移す。それでは次のコーナーです、マンデー、フットボール。見覚えのある女子アナが、なにが楽しいのか不自然なほど白い歯をこれみよがしに見せ付けている。
 こいつがリモコン握り締めて食い入るように見ているのは、なんてことはない、毎週録画しているスポーツニュースだ。


「あっちゅん、出たよぉ、ほらぁ、……キャ~~~~ア!」

「~~うるっっせえ!」

「このFK! 見た? ボールが! ぐにゃんって!」

「見たもなにも俺が蹴ってんだぞタワケ」

「どうしてこんなにぐにゃんって曲がるのかなぁ~~すごいね~~不思議だね~ゴールに吸い込まれてったみたい~すっごーい」


 すごいすごいと手を叩き、手品を見せられた子供のようにはしゃぐなまえは心の底から楽しそうで、つられて俺の口元までもが緩みそうになった。
 お世辞にも語彙が豊富とは言い難いなまえは、とにかくことあるごとに「すごい」を連呼する。あっちゅんすごい。すごいね。
 これくらい当たり前だ、俺はプロのサッカー選手なんだぞ。近頃はそう返すのもなんだか野暮な気がして適当にあしらっているのだが、納得のいくプレーが出来た試合の後すぐにでもこの間抜け面が見たくなるのには、やはりなにかしら理由があるのかもしれない。


「そう! ここ! ゴール決めたあとのガッツポーズ! んもぉ~すっっごいかっこよかった~~! ねぇねぇこれ私に向かってやってくれた? もしかして? ひゃ~」

「いやお前じゃねえし」

「じゃあ誰?」

「……ちっ」


 確かにこのスタジアムではメインスタンドの中央後方あたりに関係者席があり、そこになまえがいることはチケットを渡した俺が知らぬはずがないのだが、特に意識してパフォーマンスをしたつもりはなかったし、しかし無意識のうちに、自分でも意図せずその方向を向いていた可能性が百パーセントなかったかと問われれば、真っ向から否定するのも躊躇われる。……。
 なんにせよ、それを改めて指摘されると照れるというよりも癪だ。俺が悶々と思考をたどっている最中、当の本人は液晶画面に映るクラブの先輩に黄色い声を上げ始め、もはや先ほどの話など欠片も気に留めていないのだから、やるせないのを通り越し脱力してしまうのだった。


「中村さんだ! うわあすごいねぇ~、かっこいいねぇ~。この一点目で流れ変わったもんねぇ」

「フン」

 なまえが握り締めていたリモコンをぶんどって電源ボタンを押す。先輩のドヤ顔が暗闇に飲み込まれていくのを確認してから、リモコンをソファに放り投げた。


「あっ! ちょっともぉ~~なんで消しちゃうのさ~……んぅっ」


 やかましく動く唇を自分のかさついたそれでもって塞ぐと、なまえはバサバサの睫毛で縁取った目を一瞬見開いたあと、緩やかに瞼を閉じた。首に腕を絡ませ、くてんと身体ごと寄越しやがる。
 どんな時でも、こうするとなまえはサーカスの猿が餌をもらったみたいに大人しくなるのだ。たとえ北半球が壊滅し本日をもって地球は滅亡します、と宣告されたってキスひとつで落ち着きを取り戻すのではないかと、俺は勝手にそう思っている。


「ガタガタうっせーんだよ……どうせ録画してんだろが」

「だってぇ、あっちゅんのかっこいいガッツポーズがリプレイされたかもしんないじゃん?」

「……今お前の目の前にいんのは誰だよ」


 人差し指で額を軽く小突いてやると、こちらを見上げるなまえの瞳は真冬の星空を思わせるまばゆい輝きが散りばめられていたものだから、俺は己の軽はずみな発言を少しだけ悔いた。


「んふっ……君下敦選手~~そしてわたしの旦那様~~~すごいFKでクラブを勝利へ導いた君下敦選手~~わ~~パチパチパチ~~~。ヒーローインタビューで眉間にシワ寄せてた君下選手~~~そしてわたしの旦那様~~オー君下あ~つ~し~~~オー君下あ~つ~し~~~」


 しばし無言でなまえによるオー君下敦・独唱(手拍子つき)の様子を見守りながら、今朝家を出る前にも聞かされた同じフレーズを思い返す。
 試合の朝はいつも決まって、なまえはやけに早起きをする。低血圧で、朝は俺よりも布団との別れを惜しみやがるくせに、眠い目をこすり普段より二品多い朝食を用意して、俺のチャントを目覚まし代わりに歌うのだ。馬鹿でかい声で響くそれは眩暈がするほど下手くそだが、聞くと身体の隅々に奇妙な勇気と自信が沸いてくる。
 それと同時に、スタジアムで祈りを捧げる修道女みたいなポーズのままチャントを口ずさむなまえの姿が目に浮かんで、俺はどうしようもなく心揺さぶられてしまうのだった。

 何度目かの君下コールが終わると流石にくたびれたようで、俺の腹に頬を押し当て、おそらくなまえが持ちうる限りの力で抱きしめられた。しかし実際のところそれは片腕でほどけてしまう程度の力である。
 小さな旋毛を眺めながら、規則正しいリズムで頭を撫でてやると、この腕の中にいる生物は猫とか犬とかそういう類の小動物ではないかと思われた。
 見下ろすとそこにはちゃんと人間らしい造形の、尻尾も猫耳も犬の髭も生えていない、ただ心地よさそうな微笑を浮かべ、目を伏せる女の姿があった。


「おい、なまえ

「うん~?」

「寝んなよ」

「寝るかも~」

「……ったく」


 眠気のせいかぐにゃぐにゃになって持ちづらさこの上ないなまえの身体を横抱きにする。持ち上げた瞬間小さな悲鳴が上がったが、向かった先が寝室だと悟るとぱぁっと表情が華やぎ、上機嫌で俺のチャントを口ずさみながら手足を暴れさせ始めた。さっきまでうつらうつらしていたくせに調子がいいやつだ。


「重てえな」

「えぇ~うそぉ~~」

「腕がちぎれるぜ」

「じゃあもっともっと鍛えないとね~」


 「わたしが手伝ってあげようか、筋トレ」だなんて戯言を弄しながら、アスリートの大胸筋をぺちぺち叩きやがるような生意気な女は、思い切りよくベッドに放ってしまおう。
 弧を描き、漫画のように跳ね返ってから着地した身体の上に跨ると途端に静かになった。空気は読めないわりにこういう雰囲気を察する勘だけは鋭い。


「髪、乾かさなくていーの?」

 いまだ水滴がしたたる前髪をひと束掴んで、思わせぶりに目配せしている。わかっているくせに聞きやがるのだ。


「ほっといても汗かきゃ直乾く」

「きゃー」


 手足をばたつかせてきゃーきゃー騒ぐサーカスの猿に、俺がしてやれることはひとつだ。





当たり前のようにプロになって結婚までしててごめんなさい(2014.12/21)


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