すぐ脇を快速列車が駆け抜けていくこのアパートでは、地震でもないのに乱暴な揺れと轟音に見舞われるのが常だった。入居当初は耳障りな騒がしさに苛立ちを覚えたものの、今ではすっかり日常茶飯事な事象として捉えられたようで、窓を開けて眠っていても気付かないほどだから人間の環境適応能力というやつはなかなかに侮れない。
今夜はそれとはまた別の、電車の通過音に比べれば実に可愛らしいほんの些細な物音が、わたしを眠りの国から連れ去った。
それはいつも、使い込んだスーツケースを開ける音から始まる。ビニールカバーに包まれた燕尾服。肌に悪そうな化粧品ばかり詰まったポーチは一番手前に詰められたはずだ。目を開けなくても手順を追えるようになったのはいつ頃からだったか。
「……要ちゃん、もう行くの」
目を擦りながら声をかける。驚いたのか一瞬手元の動きが停止したのが分かった。
「あぁ。寝ててよかったのに」
「……」
よもや、無言で出発するつもりじゃないだろう。目を覚ましたとき、抜け殻の部屋に取り残されるわたしの身にもなってほしい。寂しさは決まって静寂を連れてやってくるのだ。
時計を横目で確認すると、短針は四と五の間にぶら下がっていた。朝一番の便を取ったと言っていたが、さすがに早すぎやしないだろうか。窓枠が切り取る闇は濃く、朝焼けは遠い。
「帰りは」
「再来週火曜」
「何時」
「到着は昼。けど一旦スタジオ寄って様子見て来っから夕方になるんじゃねぇかな」
「……ふぅん」
土産はなにがいい。腕時計に目をやりながら聞かれても答える気にはなれないし、さして欲しいものも思い浮かばなかったから、考えるふりをして口を閉ざした。
緩慢に上体を起こし、彼が脱ぎ捨てたスウェットを被る。温かな毛布に別れを告げるときがやってきたのだ。
ガラスの靴に足をはめ込むみたいなもったいぶった調子で床に親指を触れさせると、つま先からフローリングの冷やかさが浸透して、最後には不快な痺れが抜けていった。
だからあれほどカーペットを敷こうと言ったのに。頑固な彼はわたしが選んだカーテンもシーツもバスタオルですら女くさいと突っぱねてしまった。もう何年も前の喧嘩を思い出してイラつく自分が惨めで、ひどく哀れな女のように思えた。彼との生活は終始わたしばかりが損をしている。
ひどい猫背を自覚しながらキッチンへ向かう。背中に感じる大きな影に気づかないふりをして蛇口を捻り、グラスに冷水が満ちてゆく様子を眺めた。なぁ、と声をかけられたところで水を止め、ようやくグラスに口をつける。
とりわけ話したくはなかったし、話すべき事柄も見当たらなかったから呼吸も忘れて水を飲み続けた。
「なんだ、拗ねてんのか」
「……」
「帰国したら一番になまえの元に帰ってきてよねっ! えっ、スタジオに寄ってくる? 要ちゃんのバカッ! もう知らないっ! ……って顔してんな」
夜のしじまに彼の素っ頓狂な裏声が鳴り響いて、思わず飲んでいた水を噴き出してしまった。顎についた水滴を手の甲でぬぐいながら首を振る。
どれほどわたしが怒りを露にしようとも、彼はあらゆる手段を行使して、全力でわたしを笑わせにかかるのだ。破顔してしまったら最後、彼のペースに持っていかれて二度とイニシアチブを取ることは叶わない。
言葉のキャッチボールひとつとってみても、がっちり身体を固定されて、手も足も彼の意のままに動かされている気分になる。会話の最中ですら主導権を握りたがるのがリーダーである彼らの性なのかもしれない。
「連れていきてぇな」
不意に呟かれた言葉が、あまりにも真摯な震えに満ちていたものだから、鳥肌と一緒になにか冷たいものが駆け上がってきた。
彼がどんな表情で、いかなる心地で、こんなにも性に合わないひたむきな声音を発しているのか、知りたい反面恐ろしくて振り返ることができない。息を殺して固まっていると、後ろから大きな手が伸びてきて、そこにある存在を確かめるような手つきで抱きしめられた。
「お前をおにぎりみてぇに、こうしてこうして、両手でぎゅーっと小さく握りつぶして、胸ポケットに忍ばせて踊ってやるよ」
彼はわたしを背後から抱きしめたまま、おにぎりを握るときのジェスチャーでもって優しく語りかける。彼の作るおにぎりはさぞ大きいのだろう。両手で持ってもはみ出してしまう昔ながらの塩むすびを食べてみたいと思った。
「握りつぶしちゃうんだ」
「おう。でも愛する者のキスで元通りだぜ」
こんな歯の浮くような台詞を真顔で言って、額にキスまでしてしまう。それでも気障ったらしさを感じさせないのは彼だからこそなのだろう。
性急に腕を引かれて、強引に向かい合わせにさせられた。その反動でグラスが倒れ、割れはせずともこの時間にはふさわしくない音が響き渡る。
唇を奪われるとはまさにこのことで、上唇をなぞってから舌を絡め合わせ、散々弄んでもまだ足りないとばかりに下唇を食む。ジャングルの奥地に住む子供が無心で甘いフルーツにかぶりつくみたいな懸命さを感じた。わたしの唇からは一体どんな果汁が染み出しているのだろうか。
唇を離されてからも、酸欠を起こしたようにぼんやりしているわたしの身体を正面から抱えなおすと、彼は手と手を組み合わせ、肩甲骨の辺りに右手を引っ掛けて、まるでこれからワルツでも踊るような体勢にさせられた。
「踊ろうぜ」
「む、無理だよ、わたしは――」
「アァ? 俺を誰だと思ってやがる」
お前は今、日本一のリーダーに抱かれてんだぜ。そんな台詞を耳元で囁かれたら、抵抗する気力はまるでなくなってしまった。
こうしてホールドを組むと、なんだかわたしまでもが特別なダンサーのひとりになったような気分になる。事実彼は天才ダンサーと謳われ、リードが上手いひとだから、もしかしたらわたしも彼に身を委ねればそれなりに踊れるのかもしれない。
「クイック、クイック、スロー、……そうだ、いい子だ」
なにがクイックでスローなのかもわからないのに、自分の意思とは無関係な働きによって華麗なステップが踏まれる。両手足が自分のものでなくなったような、彼とふれる部分から神経ごと繋がってしまったかのような、奇妙な錯覚を覚える。
ほんとうにこのまま体の一部が吸収されて、彼の血肉として再生されたなら。そこから血や神経を交換し合って、痛みも快感も共有できたなら。度重なる別れも再会も、自己卑下に伴って訪れる息苦しいほどの寂しさや不安からも、逃れることができたのだろうか。
操り人形のように正しく美しく支配される身体に反して、心のほうは浮上したり地に落ちたり見苦しく舞い続ける。
「なかなか筋がいいじゃねぇか。どうだ、俺とカップル組むか」
「そうね」
「俺と組めばブラックプールも夢じゃねぇぞ」
ここは夢の大舞台とは程遠いキッチンの片隅で、ドレスは着古された男物のスウェットだし、足元には昨日切ったねぎのかけらが落ちている。けれど、彼の腕の中にいる、この瞬間だけは、間違いなくわたしは世界一幸福な女になれるのだ。
キッチンの狭く薄汚れた窓から、三日月になり損なった不恰好な月が覗いている。わたしには丁度良いスポットライトだ。
凡人をも輝かせる男であってくれ(2014.12/24)
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