まさか自分が、手料理を作って恋人を待つような健気な真似をする日が来るとは思わなかった。
頬杖ついてほほ笑みを浮かべ「美味しい?」なんて聞いたりして。
銃兎が、こと空腹の銃兎が食べている姿はちょっぴり野生的だ。
箸の使い方や所作は綺麗なのに、食べ盛りの中学生みたいに絶え間なく大きな口が動いて、豪快に喉仏を上下させるその様子を見ていると、わけもなく――いや、わけならあるけど、とにかく無性にドキドキしてくる。
きっと私は物欲しそうな顔をしていたことだろう。熱い視線を送っていたことだろう。なのになのに、銃兎ときたら、食べ終えた食器をキッチンに運ぶと、そそくさとスーツを着直して玄関に向かうではないか!
「ご馳走様でした。とても美味しかったですよ」
「もう行っちゃうの?!」
「えぇ」
「〜〜っ食い逃げじゃん! 通報するよ?!」
「おやおや、人聞きが悪いですねぇ」
「おまわりさぁ〜〜ん!」
「あーハイストップストップストップ。……あらかじめ言ったでしょう。今日は夕食をご一緒するくらいしか時間が取れないですって」
「銃兎ぉ!? 大人ふたりが"食事する"ってどんな意味かわかってる?!」
「はぁ……」
この声は本気でわかってない声だ――なら教えてやるしかない!
「それってつまり、セックス、だよ!? 食事しかできないって、つまり、セックスだけしたいですって意味なの! わかるぅ?!」
ネクタイを掴んで詰め寄ると、銃兎は一瞬だけ目を見開いた。
「……それはそれは。期待させたようですみません」
銃兎はニヤリと嫌味にほほ笑み、私の肩にぽんと手を乗せると、こめかみにふれるだけのキスをくれた。きっと、さっきまで食べていたてりやき風味のキスだっただろう。
「行っちゃうの? ほんとのほんとに? 私がこんなにカワイく行かないでってお願いしてるのに?」
「すみませんが今夜は外せない用があるんです。埋め合わせは必ずしま……おい、やめろ」
靴を履く銃兎の肩を揺さぶるが、てこでも動かない雰囲気があった。
「ねぇ想像してみて、このまま銃兎が出ていったら、私は寂しくて寂しくて皿を洗いながらシクシク泣くわけ。シーンとした部屋に私の啜り泣きだけが響くの……どう? ぎゅっと抱きしめたくならない?」
「ふふ、この期に及んで泣き落としが通じるとでも?」
「じゃ、これならどう?」
「ん? ――アァア゛? てめぇ……っ!」
トップスを捲り上げて胸を見せた。我ながら必死だ。けれど必死に食い下がった甲斐があり、銃兎の顔はたちまち歪み、さきほどまでの余裕の表情は見る影もない。眉間の皺のせいで眼鏡がずれ落ちそうだった。
そのまま後ずさって部屋に戻っていくと、銃兎はわざわざ靴を脱いで追いかけてきた。ものすごい形相だ。舌打ちの音がここまで聞こえてくる。
「こわーい」
「クソッ……待ちなさい」
ドスドスと地鳴りのような足音を響かせながら追ってくる銃兎をベッドのほうに誘導すると、狙い通りふかふかの布団に押し倒してくれた。
「っ……!」
いや、押し倒すなんて甘いものじゃなかった。うつ伏せにさせられて身動きが取れないし、頬をシーツに押しつけられ、両手は背中で括られて、なんというか「犯人確保〜!」な感じなのだ。少し痛いし、お尻にはなにか硬いものがあたっている。恋人とのじゃれあいにしてはだいぶ手荒だ。
「ハァ……まったく。どういうおつもりですか」
「怒った?」
「えぇ、とても……」
無理やり首を捻らせて銃兎の顔を見る。
そう、この目だ、このギラギラした目で見られたかったんだ。そのためなら私は手段を選ばない、どんな愚行だってする。
「アハハ! なんかお尻にかたいのあたってるよお」
「やれやれ……お仕置きが必要みたいですねぇ」
「あ〜っははは! お仕置き! してぇ〜!」
けらけらと笑っていると、銃兎は長い溜息をつき、私の体を解放した。そうしてごろんと転がされ、仰向けにさせられた。
「細身のスーツが窮屈になっちゃったね」
「うるせえ。誰が窮屈にさせたと思ってんだ」
「んふふ、私のせい〜?」
「あなた以外に誰がいますか」
「このまま外に出たら公然わいせつでしょっぴかれない?」
「そうかもしれませんね」
「あはは」
「あまり困らせないでください、私だってつらいんだ……」
「そっちこそ、あまり寂しがらせないでください」
「……寂しかったんですか?」
「もちろん。そうは見えなかった?」
「えぇ……。あなたはいつも、私がいなくても楽しそうにしているようですから……」
なんで、どうして、どうやって、そばにいないときの私の様子がわかるんだろう。まるで実際に見聞きしたみたいな言い方だ――もしかしてまた盗聴してる?
「私のこと盗聴してるの?」
「…………してないですよ?」
「してるんだ。まぁいいけどさあ〜」
「いえ、……ホラ、なんでしたか、あの〜、SNSで見たんです。先日もご友人となにやら高そうなお茶を飲んでいたでしょう」
なにやら高そうなお茶って。アフタヌーンティーね。はいはい。
「仕事が一段落ついたら、あなたとの時間を作るつもりです……ですから、自分の体をエサにして釣るのはやめてください……」
そう言うと銃兎は、深呼吸を数回繰り返してから、乱れていた私の服を整えてくれた。「男の体は時に己の意思に反した動きを見せるんです」とかなんとかぶつぶつ小言を漏らしながら。
「私がエサってことは、銃兎は釣られちゃった魚だねぇ」
「えぇ、そうです。陸にあげられて息も絶え絶えですよ」
「あはは」
「……弱いんです……私も男ですから」
「ふぅん」
「とくに今夜みたいに……疲れてる夜は……」
「さわりたい?」
「…………」
「…………」
「……さ……ゎり……ぃ…………」
それは消え入るような声だったけれど、私の耳にはしっかり届いた。両手を広げて受け止める準備をする。
「ほら、おいでぇ〜?」
「…………」
銃兎はしばらく難しい顔をしていたが、やがて儀式めいた所作で眼鏡を外し、すっと懐に仕舞うと私の胸に顔を埋めた。銃兎の頭を抱えこんで、ぎゅっと抱きしめてから頭を撫でる。その間、銃兎は舌打ちをしながらも首を左右に振って、なにか恨み言を呟いていた。
「よしよし、銃兎ちゃん、いいこいいこ」
「……あなた、楽しんでるでしょう」
「あはは〜バレた〜?」
「バレバレですよ……」
ちらりと見えた表情は赤ちゃんみたいに無防備で可愛かった。いつものぴしっとした七三スーツもかっこいいけれど、こんなふうに安心しきったオフモードの姿を知っているのは、この世で私だけ。そう思うと謎の優越感が湧いてくる。
「クソっ……もう行かないと……」
「うんうん。あとでいっぱいよしよししてあげるからねっ」
「またここに戻ってきていいんですか?」
「うん。戻ってきてほしい」
「朝になるかもしれませんよ?」
「いいの。ずっと待ってるから」
「夜更かしはお肌に悪いからしない主義じゃないんですか」
「今夜はいいの、とくべつに……」
私を抱きしめる銃兎の腕の力強さから、銃兎もまた私と同じように、名残惜しんでくれているとわかって少しほっとした。
銃兎が帰ってくるまで、夜食でも用意して待っていよう。銃兎が面白いと言っていた、あの刑事ものの映画でも見ながら。
(2022年10月20日 Twitter)
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