「なんですかその格好は」
インターフォンを鳴らした直後、薄着のまま飛び出してきた彼女を見て、つい口走ってしまった。
「まったく……不用心にもほどがあります。今しっかりドアスコープを見ましたか? モニターは確認しましたか? そんな薄着で、万が一私でなく不審者だったらどうするつもりで――」
だらしなく隙間が開いていたカーテンを閉め直し振り返ると、部屋の中央で立ち尽くす彼女がいた。
その不機嫌そうな顔を見るまで、自分が"日付が変わるまでに向かいます"という約束を反故にしたことにも気づかなかった。
己の身勝手さに目眩を覚えながら「すみません」と謝るが後の祭りで、彼女は目も合わせてくれず、それどころか私がこの場に存在していないように無視を決めこんでいる。
「…………」
「おい……」
「…………」
「勘弁してくれ、疲れてるんだ……」
疲労のせいか、今夜は言ってはいけない言葉ばかりが口をついて出る。来るのが間違いだったか。
「はぁ……」
ため息をつきながら、ソファに腰掛けてネクタイを緩める。
不穏な空気の代わりに一服でもしたいところだが、嫌煙者である彼女の家は禁煙なので、一本吸うにも許可を得てベランダに出る必要があった。しかし今はそんなことを申し出るような雰囲気ではない。
「もしも〜し」
意外にも、先に沈黙を破ったのは彼女のほうだった。
電話が鳴った様子はなかったので、もしかすると話しをしている"ふり"かもしれない。私の恋人は時折こういった芝居を打つ。それは大抵このような状況で、つまり、私へのあてつけにほかならない。
「……ん〜? 銃兎ならいないよ。なんかまた仕事とか言って、ほっとかれたの。……けど嘘かも。ほんとはよそに女がいるんじゃない? フジコちゃんみたいなセクシーな感じの女スパイ」
(フジコって誰だよ?)
そんな私の心の声が届いたらしく、彼女が顔を上げてこちらを見た。
「ルパン。……うそでしょ、知らないの?」
久々に目が合った気がする。信じられない、あなた正気なの――、と言っている目だった。
「……それで、銃兎もいないし〜、好きなようにして過ごしてたの。服も脱いじゃお〜」
彼女はわざわざ宣言をすると、元々薄着だった服をさらに脱ぎ、ついには下着姿になってしまった。
疲れているのに、いや、だからこそなのだろうか、下半身が反応しそうになって抑えこむのに苦労した。
――入間銃兎、落ち着け、落ち着くんだ、ここで勃起などしては彼女の思う壺だ、仕事のことを考えて気を紛らわせろ、ほら先月しょっぴいたヤクの売人のツラを思い出せ。ヤクの売人、中王区のクソ女、詐欺グループに加担していた同僚、生意気なヤクザども、それから。
「え、飲み会? 行きたい〜! 相手は? ……うんうんうん」
ただのハッタリだと頭ではわかってはいたが、止められなかった。
彼女の手首を掴んでスマホを確認する。やはり誰とも通話などしておらず、そこにはロック画面が、並んで微笑む私と彼女の写真が映し出されていた。その事実に少なからず安堵した私を見て、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべている。
「からかうのはやめてください。私が悪かったです……」
「悪かったってなにが? 入ってくるなり警官づらで説教したこと? 約束をすっぽかしたこと? 悪態ついたこと? あー、それとも私に向かって勘弁してくれってため息ついたこと?」
「……すべてです」
「よろしい」
彼女は大きく頷くと、私のネクタイを引っ張ってベッドに誘った。これではまるでリードを引かれる散歩中の犬のようだが、今夜は彼女というご主人様に従うよりほかないと心得ているので、黙ってついていくことにした。
女性との付き合いは妥協と忍耐の連続であると学んだのは彼女との交際を始めてからだ。
「ねぇ……、さっきは会いに来るんじゃなかったって後悔したでしょ」
「…………後悔なんて、していませんよ」
「うそ」
ほんの一瞬、彼女の顔が泣き顔に見えたのは気のせいだろうか。
「銃兎の考えてることなんて、すぐにわかっちゃうんだから……」
そうして彼女は俯いて私のスーツのボタンをいじった。
詫びるべきなのは私のほうなのに、なぜか彼女の声は申し訳なさげに謝罪めいている。
「私、今夜みたいにときどき……すねちゃうこともあるけど。でも、銃兎がここに来なきゃよかったなんて、絶対に思わせないくらい気持ちよくしてあげるから」
――だから、どんなに疲れてても会いにきて。お願い。愛想を尽かしたなんて言わないで。
切実な眼差しに射抜かれて呼吸を忘れそうになった。言葉を失っている場合ではない、言うべきだ、伝えるべきだ、こんなときにこそ。
「俺がわざわざ会いにくるのは、お前を抱くためだと思ってんのか」
「したくない?」
「そうじゃねぇだろ……おい、真面目に聞け」
もっと早く伝えるべきだった。たとえ彼女が、この枕元にあるうさぎのぬいぐるみの姿に変わったとしても、俺はお前に会いたくて、毎日夜が待ち遠しくて、いつだってニコチン切れなんか目じゃないくらいに欲しているのだと。愛しているのだと。
いくら言葉を尽くしても、この思いのすべてを伝えきれる自信がなく、もどかしさにいらだちが募っていく。
「ハァ…………」
「やだやだ、ため息とか禁止だから」
「すみません。今、自分の愚かさに呆れているところで……」
「愚かぁ? 銃兎が?」
「えぇ」
枕元に手を伸ばした彼女が、手探りでうさぎのぬいぐるみ(以前立ち寄ったゲームセンターで私が取ったものだ)を見つけ出し、私の鼻先に突きつけた。
彼女の声が1オクターブ高くなり、うさぎのアテレコモードになった。
「えぇ〜、こんなに賢くてかっこいいのに? 完璧ポリスのセクシーお兄さんなのに?」
「フフ……。なんですかそれ」
「銃兎のぬいぐるみフレンズでしょ。忘れたの?」
「忘れていませんよ。……こんばんは、うさぎさん」
「コンバンハ〜。銃兎くん、今日もかっこいいね。夜遅くまでパトロールご苦労さまっ」
「そんなふうに褒めてくださるのはうさぎさん、あなただけですよ」
「エッ私もそう思ってるよ?! 銃兎、かっこいいし、かわいいし……大好き。銃兎もそうでしょ?」
「えぇ、愛していますよ……」
「あはは。愛しています、だって。うさぎさん聞いた? 愛しています、愛しています……あはっ」
けたけた笑いながら愛していますを繰り返す彼女は心底楽しげで、つられてこちらも顔がほころぶ。
そうだ、この顔が見たかったんだ、疲弊した体を引きずってでも見たかったのは仏頂面でも下着姿でもなく、彼女の笑顔だった。
手袋を外して彼女の頬にふれると、今度は目を細めて満ち足りた笑みに変わった。そこかしこから温もりが伝わってくる。重なった手のひらから、繋がる目と目から、部屋に漂う空気から。その幸福が伝播して夜のしじまにとけていき、やがて胸の底にやさしく降り積もっていった。
(2022年9月22日 pixiv)
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