※浮気相手をうっかり死なせちゃって恋人の寂雷さんに死体遺棄してもらう話
薄れていた意識が徐々に晴れて視線が定まってくると、かわりに押しよせてきたのは絶望と焦りだった。
震える指で着信履歴から彼の名前を探す。行きずりの男とホテルに入り、シャンパンで薬を流しこんだところまでは覚えているが、そこから先の記憶が曖昧で、思い出そうとしても断片的に悪夢の映像がよぎるばかりだ。
彼を裏切る罪悪感がまるでなかったわけではない。けれど、止められなかった。
半年前から私の依存症は再発していて、彼が不在の夜は、名も知らぬ男と関係を持っては自己嫌悪に苛まれる日々が続いていた。
でも、まさか――まさかこんなことになるなんて、どうすれば、どうすればいいの。
ベッドに横たわる裸の男は口から泡を吹き、呼吸もせず瞬きもせず、ぴくりとも動かない。
ここで彼に助けを求めれば、きっと彼を失うだろう。そうだとしてもほかに頼るあてはなかった。呼び出し音を聞きながら、どうか出ないでと祈った。私のようなろくでなしの祈りなんて、神様には届くわけもないのに。
「……助けて、寂雷さん」
ホテルの部屋番号を伝えると、彼はすぐに駆けつけてくれて、
「どうしたんだい? 具合が悪いのかい?」
と、心配そうに私の顔を覗きこむ。
その瞬間、絶望のメーターは針が振り切れて動かなくなった。喉の奥がしめつけられ、ごめんなさいとただ一言発することさえできない。
「これは、いったい……」
バスローブを羽織っただけの私の姿と、ベッドで動かない裸の男を見比べて彼はなにもかも看破したようだった。
「……少し、準備をしてからまた戻るよ。君はここで待っていなさい」
彼はどこかに電話をかけながら部屋を出ると、宣言通りすぐに戻ってきた。
かなり大きめのスーツケースを携えている。それを床に広げると、バキボキと不穏な音をさせながら死体を押しこみ、ホテルの地下駐車場に停められていた車のトランクに詰めた。私はその様子を立ちつくして眺めていた。
「悪いがしばらくの間、君には目を閉じていてもらうよ」
知られるとよほどまずい場所なんだろうか。やさしい彼にしては有無を言わさぬ感じだった。折り重ねた布で私の目元を覆うと、後頭部で結び目を作った。そうして私を座席に座らせ、シートベルトも締めてくれた。さきほど死体にしたのと同じように私の体も寂雷さんの思うままに動かされている。
「寂雷さん、どこへ行くんですか? 寂雷さん、寂雷さん…………」
いくら呼べども返事はなかった。ブレーキを踏んだことを感じさせない彼の運転は恐ろしいほどに静かだ。
山道に入ったのか急カーブが続いていた。そうしてゆるやかに停止した車から、まずはスーツケースが運び出されたようだ。
そのあと寂雷さんは私を抱き上げて歩き始めた。足音の響きからして砂利道を越えて屋内に入ったようだった。
「立てるかい」
部屋の明るさに慣れてきた目で周囲を見まわしてみる。なにかの工場跡地のような作りだが、白すぎる壁と照明は、古い病院のようにも見えた。
私たちのほかには誰もいないみたいだった。私と、寂雷さんと、それから死体のほかには。
長い廊下を進んだ先に手術室らしき部屋があった。部屋の中央には手術台も置いてあるので、ほんとうに手術室なのだろうか。彼はスーツケースから出した死体をそこに置き、着々と準備を進めていく。死後硬直のせいか、寂雷さんが体中の骨を折ったせいか、死体は長方形になったまま戻らなかった。
「君はそこで見ていなさい」
寂雷さんは私を車椅子に座らせると、手際よく男を解体していった。
ただ座っているだけなのに、手錠をはめられたように体が動かず、眼球さえも彼の手の動きに釘づけで、数時間前まで交わっていた男が肉塊になっていく様子をひたすらに凝視し続けた。
寂雷さんの顔に血しぶきが飛び、床に滴る。骨が砕かれ肉が削がれ、あらゆる臓器が混ざりあい、バケツのなかに放りこまれていく。
きっとこれは彼なりの罰なのだろう。
寂雷さんを裏切った罰、男を見殺しにした罰、病院の薬を盗んで悪用した罰、私の悪い癖が治っていなかったのを隠していた罰――そのいずれか、あるいはすべてか。私にはわからない。もう、なにもわからない。
寂雷さんは普段病院で手術をする際と同様に、レコードで古い曲を流していた。彼のフェイバリットミュージック。そのクラシックなジャズは場違いなほどに美しいメロディで、否応なしにかつての思い出を甦らせる。
まだ付き合いたての頃、誰もいない階段の踊り場でキスをしたあの日。夜勤明けの首都高で浴びた朝日の眩しさ。彼と出会ってからの日々はおとぎ話のように輝かしくて、幸せだった。寂雷さんは私の弱さも醜さも、すべてを受けとめて、寄りかかることを許してくれたのに。なのに、私は。
なにもかもが、チェーンソーの音にかき消されていく。あの日々が、甘い夢のように、幻のように。
すべてを終えると寂雷さんは手袋を外しながら、哀れみと軽蔑が滲む瞳で私を見下ろした。
その目にわずかな怒りでも宿っていたなら、まだ可能性はあったかもしれない。けれど、いくら見つめても寂雷さんの瞳は暗く濁ったままだ。
頬の涙を拭ってくれる手つきだけが、いつも通りにやさしい。
でもそのやさしさは、これまで通りの愛ではない。それがわからないほど愚かにはなれなかった。
レコードが針飛びして同じフレーズを繰り返し再生している。これが悪夢の続きであればと、願わずにいられなかった。
(2022.09/11 ヒプノシスマイク夢小説本 個人誌「miss you」に収録予定)
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