一日の終わりを知らせるチャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちで携帯を開く小気味いい音が響いた。
私もみんなと同じように、ポケットを手探りし、携帯を開いてセンター問い合わせをする。だらしなく机に頬をつけたまま、キャラクターが手紙を運んでくるアニメーションを眺めた。
――新着メール1件。さっと上体を起こし、親指に力をこめる。
差出人、夏油傑。件名、Re:Re:Re:Re:……。
眠れない夜の数だけ増えていくRe:の連なりにうれしさがこみあげてきた。
『今から会えないかな』
添付された写真には、浜辺で砂山を作る男の子の背中が映っている。撮ったのは夏油くんだろうか。写真のなかに彼の姿はなかった。
高校から彼らのいる駅までは、都心に比べれば幾分かは近いけれど、それでも電車で四十分はかかる。小走りで階段を降り、改札を抜けるとすぐ、夏油くんが見えた。
彼は私に気づくと、「やあ」と手を上げて、気さくに笑いかけてくれた。
「いきなり呼びつけて悪いね」
「暇だったから、いいの」
嘘だった。友達との約束を反故にし、塾をサボってまでこんな辺境の駅に、のこのことやって来た。彼に誘われれば、私はどこへだってついて行ってしまう気がする。よくない兆候だ。
「海までどのくらい?」
「けっこうかかるよ。三十分くらい……タクシー乗ろうか?」
私は少し考えて、正確にいうと考えるふりをしてから、首を振った。
一分一秒でも長い間、夏油くんと二人きりで過ごしたかった。そんな欲張りな思いが、私の歩幅を狭くする。私に合わせてくれる夏油くんの歩みも遅かった。
だいたい夏油くんは、点滅した信号を無理に渡ろうと駆け足になるような男の子ではない。夏油くんはいつだって、この年の男の子にしては不相応なほどの落ち着きとやさしさで満ちている。
私たちは海へ続く下り坂を、一歩ずつ、惜しむように踏みしめていく。
入道雲が浮かぶ青空と、どこからともなく聞こえてくる蝉の声により、それほど暑くはないはずなのに体感温度が上がってしまう。ときどき思い出したように吹く風は、ぬるくて、かすかに潮の香りがした。
「悟が……友人が、きみに会いたがっていてね」
「それって、前に話してくれた同じクラスの子?」
「そうだよ」
「どうして彼は……悟くんは、私に会いたがるの?」
「それは……」
夏油くんはいかにも困った様子で、目を逸らし、頭をかいている。
「私が、最近きみとしょっちゅうメールしてるから」
「メールしてるから?」
――だから? それが、見ず知らずの他校の女子と会いたい理由になるの?
そんなふうに問いかけるつもりで、夏油くんの正面に回りこみ、顔を見つめる。
彼の黒い瞳がうろたえて、右左に泳いでいた。
「……相手は誰だと、しつこく問い詰められてね。可愛い女の子だと白状したら、いたく興味を持たれてしまったよ」
「ふぅん」
私はなんでもないふりをして、横髪を耳にかけた。
可愛い女の子。可愛い女の子。可愛い女の子……。呪文のように、心のなかで唱えてみる。喜びはじわりじわりと染みわたり、胸の内に広がっていった。
「……悪い、電話だ。出てもいいかな」
もちろん。私は頷く。噂をすればなんとやらで、例の悟くんからだったらしい。
「もしもし。……あぁ、今向かってるさ。彼女なら……横にいるよ」
夏油くんが携帯を耳に当てたまま、私にくすぐったい視線をくれる。大げさに跳ねる心臓を抑えるのが大変だった。
通話を終えた夏油くんは「まったく、あいつは」なんてぼやきながらも楽しそうだった。その表情だけで、二人がとても親しい間柄であるとわかる。
「夏油くん、携帯変えたんだね。しかもスライド式じゃん」
「いいなぁ」と呟く私の目は、彼の携帯にぶら下がるストラップに釘付けになっていた。
彼がお土産だと言って私にくれたものとお揃いのストラップ。彼がそれを新品の携帯につけ替えてくれるところを想像して、あまりのうれしさに頭がおかしくなりそうだった。
「きみも同じのにしなよ。ボタンに慣れると使いやすいから」
「うーん、でもやっぱり、私は折りたたみがいいかな。誰からメールが来たのか、ドキドキしながら携帯を開く瞬間が好きなの」
「へぇ……」
「言っとくけど、夏油くんからのメールにはドキドキしないよ」
「傷つくなぁ」
――だって、夏油くんからのメールは、灯るライトの色が違う。通知音も違う。
どれも、夏油くんにだけ設定した特別なものだから、開くまでもなくわかってしまうんだ。
駅から海までは、けっこうな距離があったはずなのに、あっという間に海が見えてきた。夏油くんと二人きりの時間は、いつも一瞬にして過ぎてしまう。
海は凪いでいるようで、水面は穏やかだった。夕暮れ前の陽の光に照らされてきらめいている。
「遅っせぇ〜よ」
どうやら彼が、夏油くんのお友達の「悟くん」らしい。仏頂面でガードレールによりかかり、腕組みしている。
彼は私を値踏みするように、失礼な眼差しを向けるので、私も同じように彼を上から下まで見つめ返してあげた。
背は高くて、大人びた顔立ちだけれど、雰囲気やその佇まいからは、高校一年生の男子らしい傲慢さが漂っている。
夏油くんとは正反対の男の子だ。夏油くんが黒なら彼は白。夏油くんが猫なら彼は犬。そんなふうに、この二人は極端に違っている。違っているからこそ、彼らは馬が合うのかもしれない。
夏油くんが諭すように「悟」と呼びかけると、彼は渋々ながらも挨拶をした。
五条悟。大層な名前だ。彼が湯婆婆に名を奪われたら、どの漢字が残るだろう。
「私は――」
「あんたのことはもう知ってるよ」
そう言うと五条悟は、なれなれしく夏油くんの肩に腕を回し、訳知りげな笑みを浮かべた。
――あぁ、夏油くんは、彼にどんな話をしたんだろう。一言一句違うことなく教えてほしい。
「悟くんになにを話したの?」
「悟くんって! ヤメロよ」
五条くん。呼び直してみたが、彼はそれも気に入らないらしく首を振っている。
「気にしないで。大した話じゃないさ」
「夏油くんって、いっつも女の子の話してるんだ?」
「いや、普段は――」
「普段は?」
「……ついに郵政民営化が可決されたね、とか」
「嘘だぁ」
「そういやドラえもんの声変わったんだってな」
「なんか二人ともわざとらしくない?」
夏油くんが余所見をしたすきを狙って、不機嫌な表情の五条悟が近づいてきた。
そうして彼は、私の耳元で、
「お前、本気で傑が好きなわけ?」
と、ささやきかける。噂好きの女子みたいだ。
夏油くんを好きかどうかなんて、わかりきっている。夏油くんも同じ気持ちだと言われるまでもなくはっきりとわかる。
そんなふうに互いの好意が透けて見えるほどなのに、たしかな言葉は伝えあわず駆け引きに興じる、この曖昧な時期がいちばん楽しい。
早く付き合えと急かしてくる友達もいるし、私がそう望んだら、夏油くんは快く受け入れてくれると思う。
でも、あと少しだけ。あともう少しだけ、このもどかしさを味わいたかった。
それに、まだ一年の夏休みだって始まっていないんだ。来年も、再来年だって、まだたっぷりと猶予がある。大丈夫だ。焦る必要はない。
たとえ高校生活が終わろうと、それから先も、私たちの未来は続いていく。これからいくらだって、チャンスはあるんだ。
「どうかな」
「……ウッザ! 二人して似たようなこと言いやがって」
げぇ〜キッショ。五条悟はそんな暴言をはきながら、白目をむいて真後ろに倒れこんだ。ガードレールのすぐ下は海だ。
駆け寄って覗きこむも五条悟の姿は見えず、すでに飛沫があがったあとだった。
「おい、悟! 携帯は?」
「あ〜ッ! やっべ!」
ややあって、水中から顔を出した五条悟は、携帯を海産物みたいに掲げている。
夏油くんが歯を見せて笑ったところを初めて見たかもしれない。今にも五条悟を追いかけて、海に飛びこみそうな雰囲気だった。
私は一緒に笑いながら、携帯のカメラを起動させた。この夏、この瞬間を、長方形のなかに切り取って、永遠にするために。
(2022/02/13)2020.8/23発行の合同誌『却来する僕ら』に収録したお話です
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