※このお話は現代設定です
せっかく来たのだから、観光らしいことのひとつでもしようじゃないか。
たしかにそう言ったのは私だけど、なんていうかもう少し、気楽なアクティビティを想像していた。湖畔を散歩しながら写真を撮るとか、カフェでお茶するとか。
手漕ぎボートはかなり古くて、しかも想像以上の揺れだった。房太郎は猛烈な勢いでオールを操り、木々のざわめきが消えるほど陸から離れてもなお楽しそうに漕ぎ続けている。
「速い速い! ぜったいスピード違反だって!」
「ははは、60キロも出てねぇぜ」
「ねぇ、疲れない?! 私代るよ!」
「ぜ~んぜん。このまま津軽海峡横断しようか」
「どうやって湖から海に出るわけぇ?」
「さぁな。でもきっと、どっかの川から海に繋がってんじゃないかな。でなかったらハイジャックして車にこのボートを載せようぜ」
「ハイジャックじゃなくてヒッチハイクでしょ」
「似たようなもんさ」
ぜんぜん違うんだけど、まぁいいか。
ようやく初夏の気配を感じる山の風は、インドア派の私にとってはまだ少し寒い。わずかに身震いしたのを房太郎は見逃さず、上着を脱いで私の肩にかけてくれた。
ボートはちょうど、湖の真ん中くらいで止まった。ここならきっとスマホの電波も届かない。私たち二人きり、世界から取り残された感じの場所だった。澄み渡るエメラルドグリーンの湖に日光が反射して、それが房太郎の瞳にかすかに映る。宝石みたいな煌めきがきれいだった。
「ちょっと寒いよな。陸に戻ろうか」
「うんん、平気。てか今来たばっかりだよ」
「じゃ、ホテルに戻ったら風呂で温まろうな」
「な~んかやらしーんですけど」
「きみが望むなら、俺もいっしょに女湯に入ったっていいんだぜ」
冗談を言いながらも、私の肩をさする手つきからは、いたわりと愛情が伝わってくる。
第一印象では怖い人だと思ったけれど、あれは間違いだった。房太郎は愛情深い男だ。少しの変化にも気がついて、欲しいときに欲しい言葉をくれる。いつだって愛されていると感じる。
付き合って半年の記念日祝いも兼ねて、旅行に行こうと提案してくれたのは房太郎だった。
ここに来るまでの数週間、旅行雑誌を眺めながら二人であれこれ計画を立てるのは楽しい日々だった。それが明日で終わってしまうのが切なくて、気を紛らわそうと、私は写真を撮りまくった。いつかこの写真を見て、あの日は楽しかったよねって笑い合うために。
房太郎にカメラを向けたはずが、なにやら深刻そうな面持ちの知らない男の横顔が映りこんで、私は思わず息を呑んだ。
「……房太郎、どうかした?」
「うん……。なんかさ、初めて来る気がしねぇんだよなぁ、ここ」
「そんなに堂々と他の女と来たことをアピールしちゃう?」
「いや、ちげぇんだ。ただ、なんていうかさ――」
物思いに水底を見つめながら、房太郎はぽつりぽつりと語った。
以前からよく、おかしな夢を見るのだという。そこにいるのは自分によく似た男で、時代はずいぶん昔。彼はたいてい水の中にいて、底が見えないほど深くまで素潜りしていくのだという。
「そこで俺は人を殺しまくってんの。ぜんぜん躊躇わずに、仕事みてぇに淡々としてんだ」
「わお。……それって、シリアルキラーになる悪夢を見るってこと?」
「さあ、どうかな……まぁ、ただの夢なんだろうな。とにかく夢の中の俺は、人を水中に引き摺りこむんだ。そんで、動かなくなったところを、ゆっくり身ぐるみ剥がしてくのさ。妖怪みてぇに」
水面に映る房太郎の表情は、悲しそうにも見えたし、切なそうにも見えたし、なにも感じていないようにも見えた。つまり、彼がなにを考えているか確かなところ私には読めないのだった。
「だからこの場所にも、来たことがあるんじゃないかと思って……」
子供が手遊びするみたいに、房太郎が指で水面を撫でると、そこに映っていた彼の顔も、波打ち、乱れ、消えてしまった。
「私のこともそうする? この湖の底に沈める?」
「そうだな……まぁ、きみを溺れさせるのにこの深さはいらねぇかな。2センチありゃ十分さ」
「お~こわ。コップの水も油断できないじゃん。房太郎ってばスタンド使いみたい」
「すたんどって……なんだいそれ?」
「この前一緒にアニメ見たでしょ。覚えてない?」
「あぁ~アレねぇ。レンゴクさんかっこよかったよなぁ」
「違う違う! ほらぁ、脱獄するアニメの~」
「うんうん、そうだよねぇ。やっとシャバに出て雨に打たれるシーンは感動したなぁ」
「それはショーシャンクの空でしょ! もぉ~」
「悪いね、俺はシライシと違ってオタクジョークには乗れないよ」
房太郎だってときどきシライシとカイジのアニメを見ているくせに、私のことばかりオタク扱いする。口を尖らせるとそこに小鳥がとまったみたいなキスをされた。
「わかったわかった、今度シライシに漫画を貸してもらうよ」
「ほんとぉ?」
「ほんとほんと」
この人は、全部で131巻ある漫画だってことを知っているんだろうか。知らないんだろうなぁ。
そんなことを考えていたら自然と頬が緩んで、つられるようにして房太郎も笑った。
房太郎の濡れた手にふれて、指を絡ませる。たとえこの手が血に濡れていたとしても、私は絶対に離さないって、房太郎はわかっているのかな。勘のいい人なのに、肝心なことには疎いんだ。
「ねぇ、漕ぎ方を教えてよ。帰りは私が船長をするから」
「いいね。……船長さん、陸に戻るのは明日になりそうかい?」
「は~い、房太郎選手にいじわるポイント1点追加。……あれ、真っ直ぐ進まないんだけど、なんで?」
「右手に力が入ってるんだよ。ほら、こっちにおいで」
房太郎が両手を広げる。私はそこに、何の迷いもなく飛びこむと、彼をリクライニングつきチェアみたいにしてもたれかかる。
オールを持つ私の手を、房太郎の手が優しく包みこむと、ボートはゆっくりと進んでいった。
ちゃぷりちゃぷり、やさしげな波が打ち寄せて、私たちを運んでいく。
いっそ、もう二度と戻れないところまで行きたい。悪夢にも悪魔にも、天使にだって。誰にも捕まらない、遠くへ。
(2022.5/29にtwitterに公開した話です 2022.09/11サイト収録)
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