※このお話は現代設定です
夏といえばホラーだなんて、一体いつ誰が決めたんだろう。幽霊は長い黒髪の女のひとだなんて。
同じ帰路でも夜になると目に映るものすべてがなんとなく不気味で、一泊二日の出張を二泊三日に伸ばせばよかったと、今さらながら後悔した。風で揺れる公園のブランコとか、電球が切れかけて点滅する街灯とか。大人になっても怖いものは怖い。
怯えながら帰宅し、脱力しつつ靴を脱いでいると、玄関の床に私以外の影が揺れているのが見えた。気のせいだろうと思ったが、それは確かに人型をしていて、背後からかすかな息遣いまで聞こえてくる。
きっと疲れているせいだ、さっきも帰り道で軽く目眩がしたし。そう思い直して深く息を吸う。そうして深呼吸の後ゆっくりと目を開けると、今度は長い黒髪がすだれのようにかかっていた。はらりひらりと髪の一本一本に意思があるように二の腕に巻きついてくる。
「おかえり」
長髪の幽霊は背後から私を抱きしめると、つむじ、頬、それから首筋へとキスを滑らせていく。
「驚かせないでよっ! ばかっ!」
「わりーわりー、んな怒んなって」
房太郎はいつも、全然まったくさっぱりちっとも悪いと思ってはなさそうな顔で詫びる。そんな顔をするくらいなら、謝らないほうがまだマシだというほどに悪びれない。
「もう……どうやって入ったの」
「入ってないさ。出ていかなかっただけだよ」
この男を招き入れたのは出張の前の晩だから、二日はここに入り浸っていたことになる。眠そうな目からして寝通していたのかもしれない。
「仕事行かなくていいの?」
「いいのいいの。きみも休まねぇと、病気するぜ」
「……あんたって普段なにしてるわけ?」
「海賊」
「出た、海賊。見つけた宝は私にも分けてよね」
こんなふうに茶化しても、房太郎はなに食わぬ顔で、
「宝ならもうここにあるよ」
と言い、その長すぎる両手で私を包みこんでしまうのだった。
房太郎の素性について、私はなにも知らなかった。直接問いただしたところで、彼は教えてくれそうにないし、彼の持ち物や生活リズムからは到底推測できそうにないので、最近はほんとうに海賊なんじゃないかとさえ思う。
なにしろ、出会いからして異常だった。私らしくなかった。会ったばかりの、それも、こんないかにも怪しい男について行くなんて普段なら絶対にしないのに。
あの夜から、房太郎は思い出したように現れては、私を世界一大切な女だと言わんばかりのふるまいで愛を囁き、そしてまたふらりといなくなる。数日だったり数週間だったり、ときには数ヶ月は顔を見せない。あまり気にしてはいないが、半年あらわれなかったときはさすがに心配した。
いつどこでなにをしているのかわからないけれど、戻ってくるならそれでいいかと、最近はなかば諦めにも似た気持ちで彼を迎え入れている。
ぐしゃぐしゃに潰れてしまった紙袋を房太郎の胸に押しつけて、スーツを脱ぎながらリビングに向かう。
「なんだいこれ?」
「お土産」
「わざわざ俺のために買ってきたってことは、近々会ってくれるつもりだったんだよな。嬉しいよ」
「あんたのためなんて言ってないけど」
「でもこれ俺の好物だぜ?」
「あっそ、よかったね」
房太郎は「好きだよ」と、たった一枚のティッシュペーパーよりも軽い調子で愛の言葉を囁くと、私の頬にふれるだけのキスをくれた。
私たちはかなりの身長差があるから、キスをするとき、房太郎は折り畳みの財布みたいに腰をかがめなくちゃいけない。そのまま体の半分から真っ二つにぽきんと折れてしまえばいいのにと思う。房太郎なら体が折れたくらいじゃそう簡単には死なないだろうし。
「今日は疲れたからもう帰ってくれる?」
「つめてぇな。どうせ明日休みだろ」
「休みだけどやることがあるの……っていうか、なんで私のスケジュール知ってるわけ?」
睨み付けるも、房太郎は悪びれる様子もなく肩を竦めている。あぁもう。
「とにかく、私はお風呂入るから……」
「おっ、いいね」
「いいね、じゃないの! あんたはついてこないで! 帰って帰って」
「一人で平気か? この家、出るみてえだぜ」
「……は?」
「俺もさ、最初は気のせいかと思ったよ。けどなんてぇの、気配、ってのかな。とにかく、この家には俺以外のなにかがいるんだ」
黒々と光る瞳を真っ直ぐに見つめるも、そこには困惑する私の顔が映りこむのみで、彼がなにを考えているのかは読み取れなかった。
まさか、ほんとうに幽霊がいるわけない。考えたくない。でも、そうでないとすれば、私がその手の怪談話を苦手としている事実を、よりによってこの男に知られているということになる。
房太郎に弱みを見せるのは危険だ。なにに利用されるかわからない。ホラーが苦手だと言った覚えはないけれど、もしかすると私の何気ない習慣や挙動から、なにかを悟ったのだろうか。この人はおそろしく勘がいいから。
どうしてこんなことになったんだろう。
バスルームの半透明な扉の前に、大きすぎる人影が揺れている。
「あはは。きみってやっぱり怖がりなんだな」
ドアの隙間から、房太郎の手が伸びてくるのが見えて、すかさず閉めた。
「いてっ」
「入ってこないで! こっち見ないで!」
ドアの向こうで揺れる人影が遠ざかった瞬間、思わず声をあげていた。
「行かないで!」
「どっちだよ」
私はよほど、切迫した表情をしていたのだろうか。
バスルームから顔だけ出して様子を窺うと、房太郎は私を見て「わかった」と一言告げ、薄く目を閉じ、両手を上げて降参のポーズをとった。そのまま後ろを向き、微動だにしない。どうやら私が出てくるまでそばにいてくれるつもりみたいだ。
いつもいつも、彼に踊らされてばかりだけれど、たまにこういう律儀な優しさをみせてくれるからずるい。もしかすると、こんなふうにふとした優しさにほだされることさえも、房太郎にとっては狙い通りで、私はあの男の掌で思いのままに転がるダイスなのかもしれないけれど。
「ぼ〜たろ〜?」
「いるよ。髪洗ってやろうか?」
「いいの。そこで待ってて」
「へいへい」
しばらく顔を見ないと思ったら、忘れた頃に帰ってきては餌をねだる野良猫のような男も、今だけは私の、私だけの、心強い番犬だった。
(2021.09.02)ツイッターから
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