あの男が初めて家を訪ねてきたのは、初雪が降った夜のことだった。
男は父に儲け話を持ちかけているのだという。
当初はにべもなく突き返されていたが、手土産を携えて足繁く通ううち、次第に父の信頼を得たらしい。
網元の娘として、私も番屋を出入りすることはある。
仕事を求めやってくる男たちは、様々な事情を抱えているが、それでもあの男のような漁夫はいない。ほかの男たちとは、明らかに違っている。
長い廊下の先に男が立っていると、それだけで心がざわめく。遠くて表情は窺い知れないが、それでも私は、ひと目であの男だとわかる。
真っ直ぐに伸びる艷やかな黒髪。長い手足に、背丈は鴨居ほどもある。底冷えした黒い瞳が恐ろしい。それでいて、どこか慈悲深ささえ感じる眼差しが、奇妙だった。
その見目のよさから、今や、姉と女中たちまでもが彼に惹きつけられている。
「あの人、今夜もいらっしゃるみたいね」
弾む姉の声に、私は眉をひそめる。
この辺りで鰊漁といえばまず父の名前が出るほど、うちの番屋は大きい。大方、あの男の狙いは父の財産や漁場を巡るものだろう。
素性も知れぬ、いかにも怪しい男だというのに、誰も彼もがあの男に骨抜きにされてしまっている。
「姉さんは人を見る目がないのよ」
「そうかしら」
――素敵じゃない。台所の窓ガラスにわずかに反射する、自身の顔を見つめながら、姉はどこか恍惚と呟いた。
「あの男……私は、怪しいと思うわ。どうして父様はあんな男を、相手にしてやるのかしら」
「それは――」
「俺のどこが怪しいって?」
声は真後ろ、旋毛に向かって投げかけられた。
「こんばんは。今日はお嬢さん方にも差し入れを持ってきたんだ。邪魔したかい?」
振り返ると、男が立っていた。
これほど間近にいたというのに、今まで気づかなかったのが不思議なほどだ。
彼の表情は柔らかく、いつにもまして目を細めて笑っている。
横にいた姉の顔が茹で上がる音がここまで聞こえてきた。きっと私の顔も、耳まで赤いのだろう。当然、姉とは違う理由だ。
「まぁ、こんなに沢山……」
「珍しいだろう。きっと気にいるよ」
男はその大きな両手に溢れかえるほどの、西洋の菓子を差し出した。どんな味なのか、想像がつかないものばかりだ。居残っていた女中たちまで集まってきて、男の周りには人だかりができた。
私はその輪からそっと抜け出すと、廊下を渡り、縁側に腰掛けた。
すでに日が沈んでおり、時折思い出したように吹く夜風が火照った頬を冷ましてくれる。
これからはあの男と顔を合わせないよう、気をつけなくてはならない、などと考えていたときだった。
廊下の先、薄暗がりの向こうから、ひたひたと湿った足音が聞こえてきた。足音は着実に私のもとに近づいてくる。不吉な予感がした。
この場から逃げたいのに、逃げられない。どういうわけか、足を縫いつけられたように、体が動かなかった。
「逃げることないだろう」
男は笑っていたが、先程台所で見せたような、朗らかさのあるそれとは異なる笑顔だった。嘲笑というべきか。
言葉を失う私の真横に、男は許可もなく乱暴に腰掛けると、長い髪を簾のように垂らして、半ば無理矢理に視線を絡ませた。
「きみの御父君とは良好な関係を築きたいと思っている」
「……そうですか」
「あぁ。だから、邪魔はしてほしくないんだよ」
「邪魔なんて――」
「しないと言い切れるか?」
語気の強さに圧倒されて、声が出せなかった。
「怖がらなくていい。脅しているわけじゃないさ。もちろん御父君のことも……悪いようにはしない」
一変して、今度は撫でるように優しい声音で囁いた。
「安心していい」
男の大きすぎる手が、こちらに伸びてくる。
顔の輪郭をふれるかふれないかの手つきでなぞられると、耳の上になにかが引っ掛けられるのが感触でわかった。
「これはきみだけにやる。お姉さん方には秘密だよ」
銀色の、細かな装飾が施された西洋風の簪だった。
私がなにも言えずにいると、男は立ちあがり、背を向けて廊下の先に向かっていく。
男の背中から目が離せなかった。視線を感じたのか、彼は一度こちらを振り返り、意味ありげな微笑を浮かべると、なにも言わずに再び踵を返した。
彼の姿がすっかり闇に溶けてしまうまで、私は息を殺し、暗がりを見つめ続けていた。
(2020.11.18)ツイッターから
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