この土地を囲む壁が巨人からの防守を目的としたものならば、彼の周囲を覆う見えない壁は、いったいどんな目的があってそこに存在しているのだろう。どんな大儀があるというのだろう。
彼の瞳を覗きこんだところで、わたしにはなにひとつわからない。そこにはただ、薄い膜のような涙が張られているだけだ。
アルミン・アルレルトのように賢く聡明だったなら。あるいは、彼の相棒であるライナー・ブラウンのように、信頼と強い責任感を持ち得ていれば。わたしにも彼の城壁を通過できるなんらかの交通許可証が手に入ったのだろうか。
理解できないことが多すぎて、いっそ考えること自体を放棄してしまいたくなる。わからない。この世界はわからないことだらけだ。
「おい、なまえ! ぼうっとすんな!」
「……」
「――なまえ!」
「え? ……ギャアッ!」
強い衝撃と同時に、視界が反転した。落ちる、頭がそう理解したときにはもう、背中をしたたかに打ちつけていた。
「あ〜あ」
「痛った〜っ!」
「ほんとなまえは馬の扱いが下手だよな」
「下手なくせにぼうっとしやがるから落ちるんだ」
馬術はからっきしのわたしに根気よく付き合ってくれるのは彼らだけだ。今日は訓練が休みで、折角のいいお天気なのだし、皆思い思いに休日を楽しめばいいのに。わたしが馬に乗ると「危なっかしくて見てられない」とぼやきつつ、毎度こうして連れ立ってくれるのだ。
ほんとうにいい仲間を持ったなと思う。勇敢で、それでいて親切で。わたしにはもったいないくらい、素晴らしい仲間たちだ。
「オイ、早く追わないと馬が逃げちまうぜ」
「あぁッ! 待って!!」
手綱を放したが最後、わたしの愛馬は千載一遇のチャンスとばかりに草原を駆け抜けていった。馬の臀部を追うが、ぐんぐんと引き離されるばかりで一向に追いつく気配はない。背後から仲間たちの呆れと笑いがない混ぜになった声が投げかけられる。
馬の脚は速い。巨人から逃げる道具でもあるのだから当然だが、このままだと逃げられてしまう。
「なまえ」
「……ベ、ベルトルトッ!」
「乗って」
颯爽と馬に乗って現れた救世主ことベルトルトは、その大きな手のひらを差し出した。
考える暇もなく、わたしはそこに自分の手を重ねる。重ね、ぎゅっと握る。彼は実に紳士的な所作でわたしを引き上げる。馬を走らせる。驚きと動揺のあまり「ありがとう」すら失念してしまった。
だって、彼はたしかにやさしいけれど、率先して誰かに手を貸したりするようなひとじゃないはずだから。
「ベルトルト、あの、どうして」
「え?」
「……ありがとう」
どうして助けてくれたの。なんて質問はちょっと失礼だし、不自然だ。わたしは黙って彼の背中にしがみついた。
こんなふうに身体を密着させていても、わたしと彼との間には、やはり"なにか"が存在していた。もう一歩を踏みこませてくれない。踏みこんだところでそこから先は、まったく別の場所へと繋がっているような。そんな、見えないけれど堅牢な、魔法の城壁みたいなものが、彼の周囲をとりかこんでいる。
「どうしよう、追いつけないかも……。馬を逃したなんて知れたらどうなるか……」
「大丈夫だよ。この世界では、逃げられる範囲だって限られているさ」
「そうだね……」
わたしは彼の背中に顔を押しあて、肺いっぱいにその匂いを満たそうと試みる。土とお日様とすこしの汗が感じられた。
「ほら、いたよ」
「よかったぁ」
わたしの愛馬は壁の付近の草原で暢気に草を啄ばんでいた。無事見つかってよかった、という思いと、あわよくばもう少しだけ彼の背中を堪能したかったのに、という邪心が胸の内でせめぎあう。こんな浅ましい願望を抱いていると知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
「いい天気だし、歩いて帰ろうか」
たしかに今日は晴天で、風もなくとてもいいお天気だ。でもきっとこの提案は彼の気遣いだろう。帰路、「また落馬でもしたら大変だ」と思っているに違いない。悲しいかな、わたしもそう思う。
彼は馬の手綱を引きながら、わたしの半歩先を歩む。ときどきこちらを振り返ってはほほ笑みをくれる。彼のほほ笑みは、いつもどこか物悲しくて、見ようによっては泣き顔にも見える。
どれくらい歩いただろうか。彼が「休憩しようか」と声をかけてくれたのは、額にじわりと汗が滲んできた頃だった。草地にハンカチを広げて、そこに座るよう促してくれる。104期のなかで、こういう細やかな気遣いができる男の子は少ない。
「顔に泥がついているよ」
ごつごつとした手が伸びてきて、わたしの頬を包み、親指が肌を擦る。ふれられると頬だろうと背中だろうと、わたしは恥ずかしくて嬉しくて、たちまち赤面してしまう。いまにも脳細胞がひとつ残らず死滅してしまいそうだ。
早すぎる心臓の鼓動を隠すように、わたしはおおげさに笑ってみせる。
「きみは、とても楽しそうに笑うよね」
彼の物言いからは、皮肉やトゲのある含みは微塵も感じなかった。ただ、思ったことを口にだしただけ。すくなくともわたしには、そんなふうに聞こえる。
「ごめんね。暢気すぎだよね。調査兵団になったら、明日死ぬかもわからないのに」
「きみは調査兵団を目指すのかい?」
「うん、まだ考え中だけど。できればそうしたいな」
「そっか……すごいね」
ベルトルトは兵士としてはいささか穏やかすぎるくらいの、凪の海みたいな静けさで喋る。必要に迫られなければ大声を出さないし、他人との諍いや喧騒に加わることもしない。いつか彼の声を録音して、眠りにつくその瞬間まで、目を瞑って聞いていたいと思うのだけれど、実行に移す勇気も術もなかった。
「不思議だよね。壁の外を一歩出れば、そこは地獄なのに」
「そうだね。まるでここは平和だ」
「うん。嘘みたいに平和」
しみじみと「平和」を繰り返しながら、わたしたちは改めて周辺を見まわした。
鮮やかな花が咲き乱れ、蜜を求めてミツバチや蝶が空を飛び交う。控えめな鳥の囁き声が聞こえ、どこか遠くから川のせせらぎが届いてくる。まるで物語りの舞台になりそうなほどの、美しい草原だった。
絵に描いたような景色にふたり揃って見とれていると、青空を飛び回っていた蝶々が一頭、気まぐれに彼の薬指にとまった。
「この蝶は、海を渡るらしい」
「うみを?」
「あぁ。……子どものころ、図鑑で見たんだ。季節がめぐるごとに、大陸を移動するんだって」
「すごい」
すごい、と感嘆の声をもらしつつも、わたしの脳は彼の幼少期を想像することのみに意識を働かせていた。
外の世界が記されている書物なんてどこで手にしたんだろう。彼は自分の身の上について聞かれることをひどく嫌がるから、いつまでもわたしは憶測の範疇を超えられない。
「うみって、塩がとけた水でしょう」
「あぁ、そうだね。……そうらしいね。きみは、海を見てみたいと思う?」
「うん。いつか、この世界に巨人がいなくなったら、世界中のうみを見てみたいな」
「……」
なにかおかしなことを言ってしまったのだろうか。あまりに長い間黙りこんでいるものだから、わたしは恐ろしくなって、答えを探すつもりで彼を見つめる。彼はいつもと同じように、少し寂しげに、ほほ笑みに似た表情を作っているだけだった。
「きみは、どう思う? もし、僕が――」
「ベルトルト」
いつの間に忍び寄っていたんだろうか。振り向くと、馬を連れたライナーが渋い顔でこちらを見下ろしていた。彼の二つの深淵はわたしを通り越し、ベルトルトだけを映し出す。凍てついた、なにか咎めるような視線だった。
「なにしてんだ」
「なにって……休憩?」
「……」
「馬は見つけたんだろ? もう戻るぞ」
「あぁ……そうだね、行こう」
立ち上がるのと同時に、彼の小枝のような薬指で羽を休めていた蝶は離れていった。二人はなにやら深刻そうに話しこみながら、わたしの三歩先をいく。もう彼が振り返ることはないだろう。なんとなくそんな気がした。
絶望のうみにのまれながら、わたしはひっそり、見えない壁へと手を這わす。息が止まるほどの冷たさだった。
(20130719 UP)(2019.11/12 修正)
< BACK >