この緩やかな坂を上りきった先に見える灯りのどれかひとつにあいつがいる。
今頃慌ただしく飯の支度でもしているのだろうか。あるいは、暢気にちゃぷちゃぷアヒルを浮かべて早めの風呂に入っているかもしれない。
宵闇が迫る秋空に、ぽつりぽつりとバースデーケーキーの蝋燭みたいな灯りが浮かび上がってゆくのを眺めつつ、脚に込める力を増加させる。肌を削ぎ取らんばかりに吹き荒さぶ風の勢いはペダルを踏むごとに強まっていった。
いつものコースならこの坂を直進しさらに海岸沿いへと進むのだが、わずかに逡巡した末、愛車は過剰なブレーキ音を夜のしじまに轟かせ急停止した。どういうわけか今夜はやつの様子が無性に気になった。
駐輪場とも呼び難い、電柱とコンクリート塀の間にチェレステを停め、二段飛びで階段を駆け上がる。高層階ではないからエレベーターを使うよりも早いのだ。
呼吸を整えてからチャイムを鳴らす。二度目、三度目。もしかして留守なのだろうかと覗き穴に顔を近づけたところで待ち構えていたかのようにドアが開き、したたかに額が打ち付けられた。
「ぃっ、てェ〜〜!」
「あれぇ……、やすともぉ?」
ドアの隙間からひょっこり顔を出したなまえは乱れた髪にパジャマ姿で、いかにも「今起きました」という出で立ちで目を擦っていた。即座に腕時計を確認するが短針は7を示している。
「お前寝るの早すぎじゃナァイ?! 俺のジーサンだってまだ起きてるヨォ?!」
「起きてたよぉ」
「嘘付けェ!」
「ちょっぴりお昼寝してただけだもん」
「昼寝って……」
「とっくに昼って時間じゃねェだろォ」そう言いかけ、慌てて口を噤んだ。このところなまえの生活は多忙を極めているらしく、具体的に言うとバイトやレポートの提出期限に追われ、ろくに睡眠も取れていなかったのだろう。
まったく大学という世界は実に生き難いところで、程よく肩の力を抜いてなにもかも適当にこなせるほどのいい加減さと器用さがあればいいのだが、生憎俺もなまえもあまり要領がいいほうではない。まるでこの身を痛めつけろと言わんばかりに予定を詰めこまれ、油断すれば途端に身を持ち崩す。とかくに大学の世は住みにくい。
「アー……。悪かったな、起こしちまって」
「いーのいーの、ほら、入って」
「いやァ、帰るわ」
「だーめー! やすとも帰っちゃいやー! 朝まで離さない〜!」
「ハァアァ?! 明日にゃあ大学でも会えンだろーがっ!」
「いー、いー、かー、らー! ほらぁ!」
「ったァアっーくよォ!」
踵を返した俺の腕をしかと掴んで胸に抱え込むその力は、抗えないほどの強さではなかったが(なまえはむしろ非力なほうだ)なんとしてでも引き止めようとする健気なまでの必死さを見せ付けられて、最後に根負けしたのは俺だった。
「また自転車乗ってたの〜?」
「そーそー。ただのジテンシャじゃなくてロードなァ」
驚くべきことにこの女は一台1万円のママチャリと、半年分の学費は下らない競技用ロードバイクの違いを見出せないのだと言う。初めてレースに呼んだ日なんか「やすともの自転車は青くてかわいいね」だなんてのたまってくれたのだから、恐らくなまえの品定めの基準は色なのだろう。
「お風呂入るでしょ?」
「おー、借りるわァ」
最初からそのつもりだったので、勝手知ったる他人の家に上がりこむなりファスナーを下ろし、リビングに到着したときにはすでに上着を脱ぎ終えていた。
汗にまみれたジャンパーを嫌がることなく、かえって幸福そうな表情すら見せて、なまえはそれをうやうやしくハンガーにかける。女の匂いが漂う部屋に吊るされた俺の汗臭いジャンパーは全く別のものに見えた。
「お湯はってる間にご飯食べちゃう? あっ、……ご飯にする、お風呂にする、そ、れ、と、もぉ〜?」
「ハイハイなまえチャンにするヨ」
「キャ〜〜〜!」
心底嬉しそうにはしゃぐなまえの肩を抱き寄せ、大げさなキスをお見舞いしてやる。百万円の宝くじに当選した人間だってここまで過剰な喜びは示さないだろう。
少女漫画のヒロインさながらに、両目の宇宙に燦爛たる星々を瞬かせ、お返しとばかりに熱いキスをくれるなまえは、よしんば俺が彼氏というどうあがいても贔屓目でしか見られない立場ではなかったとしても、それはそれは可愛らしい女として映ったに違いない。
パンツを彷彿させるヘアゴム(たしかチュチュだかシュシュと呼んでいた)で、乱れた髪をさっとポニーテールにまとめるなまえの動きを目で追っていると、次第によからぬ、得体の知れぬ、混沌としたどろどろの塊が下腹から押し寄せてきて、端的に言ってしまえば興奮した。
冬の窓辺に佇む猫を思わせる背中は頼りなく、うなじにかかる後れ毛は儚さすら漂わせている。少し丈の短いパジャマの裾からは華奢なくるぶしが顔を覗かせていた。
「……なァ、おめェも、一緒に、入るか」
「入るって?」
「いや、だからヨ、……話の流れでわっかンねーかな」
「お風呂ぉ?!」
「…………そーだヨ……」
「しょ〜がないなぁ、もぉ〜。やすともってば、えっち〜〜ぃ」
「ッせ!!!」
「えろ北さんったらぁ〜〜」
「だ〜れがエロ北だコラァ!」
なんだかんだと囃し立てながらも、なまえの姿は疾風の如き素早さでバスルームに吸い込まれていった。
薄っぺらいくせにどことなく生命力を感じる肩を見るともなく見ていると、背骨のあたりからぶるりと寒気に似た痺れが脳天目掛けて突き抜けてゆく。
脱ぐ前からすでに戦闘態勢の状態を見たら、流石になまえも怯むだろうか。女というのはフクザツな生き物だから、直前まで乗り気な素振りを見せていても、いざという瞬間になると臍を曲げてしまったりするからなかなかに侮れない。と俺は思う。
あれこれ沈思に耽る俺をよそに、なまえはさっさとパジャマを脱ぎ捨て、ブラのホックを外そうと背中に手を伸ばしているところだった。
「勝手に脱いでんじゃねェヨ、バァカチャン」
「脱がせたかった?」
「……ちったァ口閉じろ」
細い腕をむんずと掴み引き寄せれば、布越しに素肌の柔らかさと温かみが伝導して、なまえの言葉をかりるなら"ヤストモのハッピーゲージ"とやらがじわりじわりと数字を増しているのが体感出来た。100%が最大値とするならば、今は75くらいまで上昇しているだろう。
顎をつまみ、半開きの唇に自分のそれを押し付ける。ためしに隙間から舌を挿し込むと、存外に能動的な反応が返ってきたので、それで安心した俺はキスをしたまま自分のシャツに指を引っ掛けた。
唇を突き合わせたまま服を脱ぐのはまぁそれなりに骨の折れる作業で、時々離れそうになる度どちらかが相手の舌に吸いついて、寸前で結合を保った。口の合わせ目から唾液がこぼれ、床に妖しい染みを作る。
束の間、そんなふうに子犬の兄弟のような戯れが続いた後、なんの前触れもなくなまえがキスを打ち切って、俺の背後を覗き込んだ。
「……んだヨ、」
「やすとも、くまちゃん」
「ハアァア?」
「ほら、お尻に」
言われるがままなまえが指差す方向へ、つまりは洗面台の鏡へと目を向ける。グレイのボクサーパンツが、数十分前までサドルが当たっていたとおぼしき部分に、熊の顔ような形の汗染みを描いていた。
確かに熊の顔に見えないこともない。が、俺にはどちらかと言えばカツ丼に見える。
「なァーにがクマチャンだ、これは汗ェ!」
「クマ模様の汗?」
「……ソーダネェ」
「かわいい。さわらせて、ねっ」
正面から抱きつく体勢で尻に手が回される。数回円を描くように撫でた後、何を思ったかそのまま鷲掴みにされて、思わず女々しい悲鳴が出そうになった。
「ダァアッ! ちょっ、……バァカチャン!」
「えへへ」
軽く手を振り払えば、よほど満足したのかなまえは会心の笑みを浮かべ、俺の胸にぐりぐりと顔を押し当て始めた。首を左右に振る度、柔らかい髪が肌に当たって堪らなくむず痒い。
なまえの振る舞いは時折俺にやるせないほどの郷愁を覚えさせる。なまえの頭を撫でながら、実家に置いてきた愛犬の、尻尾のしなやかさを想う。
「ゲヘへじゃねェだろォ」
「やすとも、ちょっと身体冷たいよぉ。冷えてきたんじゃない?」
「そういうオメーも冷てェぞ」
「はいろはいろ、おふろはいろ」
今まさに白い霞と同化しようとしている身体をさり気なさを装って支えてやる。女のくせに無精ななまえのことだから、そのへんに置き忘れた石鹸で足を滑らせる、なんてこともあり得ない話ではない。
「焦るなァ! 滑ってスッ転んで頭打ってもしらねーぞボケナスがァ!」
「ナスぅ? そういえば冷蔵庫に茄子あるよぉ。マーボーナスにする?」
「いいんじゃナァアイ?!」
一歩足を踏み入れれば肌に湯煙がまとわりついて、身体の端からじんわりと温まる気配がした。
自覚はなかったが俺は相当な空きっ腹を抱えていたらしい。先ほどから、新鮮な甘エビを思わせるぷりぷりした尻から目が離せない。
荒北さんにはこのくらい気の抜けた女の子と一緒にいて欲しい(20141019)
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