いつか、この町を出ていくと決めていた。

 ここに私の居場所はないと、昔から誰になにを言われるでもなく、固く信じて疑わなかった。水平線の向こう側、海をいくつも越えた先にこそ、わたしの居るべき世界があるのだと。


 この町では、どこにいても海がつきまとう。
 家は海辺だから洗濯物を干せば潮の香りがうつるし、自転車は錆び、どんな手入れをしたところで潮のまじった強風に晒された髪は傷んで軋む。
 海育ちのくせに、物心ついた頃から海が苦手だった。浜辺で砂遊びをすることはあれ、深いところに潜ったり、飛び込みをしたりなんて遊び、おそろしくて到底できなかった。深海には奇妙な魚が生息していると聞くし、なにが潜んでいるかわからない底知れなさが、今もまだ怖い。


 出来ることなら海のない都会に住もう。
 そこですれ違う人々は誰ひとりとしてわたしを知らない。わたしも彼らを知らない。隣人の顔を見たことすらない。そこでは誰もが当然のように、果てしなく自由に暮らしている。
 この町のように、誰それがパーマをあてたとか、新車を買ったとか、離婚したとか、噂されることはないのだ。


「静かにしろ〜このプリント配ったら最後だぞ〜頼むから夏休み中に悪さするなよ〜」


 担任のいつにもましてやる気のない声は、浮き立ったクラスメイトの声にかき消されてほとんど聞こえなかった。
 最後に配られたプリントには、「海外留学」の四文字がでかでかと並んでいた。アメリカ、オーストラリア、カナダ、イギリス、ニュージーランド……。
 今の英語の成績じゃ、どの国を選ぶかなんて考えるだけ無駄だろう。きっと事前の書類選考の時点で弾かれるはずだ。プリントを鞄にしまって、教室を出る。


「じゃあ先帰るね〜夏休みあそぼ!」

「うん。LINEするね」


 友達はバイトがあるからと急ぎ足で駅に向かってゆく。わたしも夏休み中に短期のバイトくらいしたほうがいいかもしれない。この町を出るいつかのために。
 夏休みを前にして、暑さは殺傷力を有する段階に入り始めていた。蝉の大合唱がとにかく不愉快だ。遠くに行くなら涼しいところがいいかもしれない。雪が降るほどの北。


 あまりの暑さに耐えかねて、バス停の自動販売機でジュースを買った。
 ベンチに座って飲みながら、大海原を眺める。もちろんわたしの目に映るのは水平線の向こう側に広がる自由な街だ。いつかじゃなく明日にでも行けたらなと思う。思うだけでわたしにはなんの計画もないけれど。

 そういえば小学生の頃は、よく同級生たちがここから海に飛び込んでいたっけ。
 崖、と呼ぶには少々迫力にかけるが、子どもにとっては立派な度胸試しの場で、わたしは何度も誘われたけれど、ついぞ飛び込むことは出来なかった。
 あの頃からわたしはなにひとつ変わってはいない。いつまでたっても臆病者のままだ。


「――身投げでもする気か?」

「うわぁ!」


 急に後ろから声をかけられて、缶ジュースを落としてしまった。
 足元で透明の液体がどくどくと土のなかに染み込んでいくのを眺めるわたしに、未蘭はのんきな声で「相変わらずだな」と呟く。それはどういう意味だ。
 未蘭の着ているジャージは一星のチームジャージではなく私物のようだった。


「もう、びっくりした。部活は?」

「休み」

「休みなのにトレーニング?」

「トレーニングじゃねえ。走ってるだけだ」

「なにが違うのよ」


 未蘭はこの町のヒーローだ。
 ここで彼の名を知らない住人はいない。わたしは小中と同学年だったから言わずもがなだが、先輩も後輩も、それどころか高校のクラスメイトですらわたしの出身中学を聞くとまず真っ先に相庭未蘭の名前をあげる。まるで生まれながらに彼を知っていたみたいに。未蘭はサッカーという枠を超えた有名人だ。
 それだけの才能がありながら、わざわざこの磯くさいだけの田舎に残ることを選んだもの好きな男。未蘭ほどの才能があれば福岡でも東京でも、それこそ海外へだって行けたはずなのに。


「一日なんもしねーでいると身体がなまっちまうんだよ」

「ふぅん」

 そういうものなんだろうか。わたしにはサッカー馬鹿の気持ちは到底理解できそうにない。


「お前は? やっと飛び降りる気になったか?」

「はぁ?」

「昔、お前だけはぜってー飛ばねぇって駄々こねてただろ。結局一度も飛ばなかったよな」

「駄々こねるって。別にいいでしょ、やりたくないんだから、無理にやらなくても」

「じゃあ来なきゃいいじゃねえか」

「うっさい」

「上からじっと見つめてるんだよな。うらめしそうな顔して」

「うらめしそう?!」そんな顔していただろうか。

「まぁでも……ガキにしたらこの高さは、ビビって当然かもな。今見るとたいしたことねーけど」


 わたしがあの頃からなにひとつ変わらない臆病者だと知ったら、未蘭はどう思うだろうか。軽蔑するか。あるいは、あぁやっぱりな、お前はそういうやつだったよと納得されてしまうかもしれない。
 当時のわたしがなにを思い、飛び込みもしないくせにここへ通ったのか、彼が言うような、うらめしい顔で見下ろしていたのか、その理由を思い出すことは出来なかった。ただ恐怖ともどかしさだけが胸の奥にわだかまりとして残っている。
 今ここで飛べたなら、そのわだかまりの所以を、思い出すことが出来るだろうか。


「なにしてんだ」


 鞄を置いて、制服のリボンを解く。未蘭が目を見開いて、言葉を失ったのがおかしかった。


「着替えてるの」

「は?」

「わたしも飛んでみる」

「おいおい正気か? つーかなんで脱ぐ」

「じろじろ見ないで! 制服濡らしたくないの!」

「わ〜ったわ〜った」

「わ〜ってないでしょ!」


 未蘭の顔にシャツをぶん投げると、ようやく彼は横を向いた。向いただけで目玉はきょろきょろとせわしなく動いている。

 スマホとポケットの中身を全て鞄の中にしまい込み、スカートを脱いで下着だけになった。もうヤケクソだ。
 ここは人通りがほとんどないけれど、田舎だから いつどこで誰に見られているかわからない。見つかれば、一晩でわたしの愚行は町中に吹聴されるはずだ。あの家の娘さん、裸で海に飛び込もうとしていたんですって。まぁ、きっと頭がおかしいのね。そうですわよ! わたくしは海に落っこちた頭のネジを拾いに行くのですわ! きっと虹色に光る貝殻のような形をしたネジに違いないわ!


「おまっ……恥ずかしくねーの? 目のやり場に困んだけど」

「恥ずかしいに決まってるでしょ! しかも目のやり場に困ってないよね?! がっつり見てんじゃんバカ未蘭!」

「そりゃ見んだろーがっっ! むちゃ言うな男だぞ!」

「バカバカバカ!」

「なぁ、この暑さなら服もすぐ乾くぜ?」

「絶っっ対! イ! ヤ!」

「……はは、女ってわかんねー」


 気の抜けた笑いを浮かべた未蘭が、「ほら、これ着てろよ」とTシャツを脱いでかぶせてくれた。強引で男の子特有のあらっぽさがあるけれど、未蘭は昔から面倒見が良くて親切な男の子だった。ただその優しさが少しだけわかりにくいだけで。
 そういえば、小学校低学年くらいのころはひそかに未蘭が好きだった気がする。子どもにありがちな、運動のできる男の子への憧れと恋心が一緒くたになったような曖昧なものだけれど。


「俺も一緒に飛ぶか?」

「……いいの?」

「いいぜ。久しぶりだから保証は出来ねーけどな」

「保証ってなによ」

「岩に頭打って気絶すっかも」

「……」

「ジョークだよ、ジョーク」


 それは結構しゃれにならない。目を凝らすと海の底には結構な凹凸がありそうだった。未蘭にはわたしの異常な緊張が伝わっていないようで、鼻歌交じりに靴と靴下を脱いでいる。


「行くぞ」

「ま、待って……!」


 手首を掴まれて、思わず後ずさりしてしまった。まだ心の準備が出来てない。いや、臆病者のわたしには一時間経っても二時間経っても、覚悟なんて永遠に決まらないのかもしれない。
 けれど、未蘭に無理やり突き落とされるのは違う気がする。それじゃわたしの内側はなにひとつ変わらないままだ。


「……もし、浮き上がれなかったら?」

「あ?」

「飛び込んで、上がってこられなくなったら? そのまま海底まで吸い込まれちゃったら?」

「おい、マリアナ海溝じゃねーんだぞ。ここはいいとこ3メートルってとこだろ」

「3メートル……」


 なかなか深いじゃないか。
 崖下を見つめる。波は穏やかだが、その青は色濃く、彼が言うように3メートルはありそうだ。
 見えないもの、見知らぬ世界、未来。未蘭にとって未知とはおそろしいものではないのだろうか。少なくともわたしにとっては――。


「そのときは俺が引き上げてやるよ」


 腰にぐいと手を回され、下半身が密着する。まるでこれから一曲踊ろうかという構えだ。未蘭の腕に包まれていると、不思議な安心感があった。なにひとつ怖がることなんてない、わたしは無敵だとすら思えた。根拠のない自信がふつふつと湧いてくる。今ならなんだって出来る。身ひとつで、言葉の知らない国にだって、どこにだって行けそうだった。

 わたしが小さく頷いたのと時を同じくして、身体が宙に浮き上がった。
 風を切るように落ちていくわたしたちは、打ち上げられた衛星みたいに、ふたつでひとつの塊として空中に存在していた。耳に当たる未蘭の胸の心音だけが、かすかに鼓膜を震わせる。時が止まったように、その一瞬は長く長く感じられた。

 未蘭の腕に包まれたまま、わたしは心地よい未知のなかに吸い込まれていく。




(18年6月17日START RUNNING3で無料配布していたものです)


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