※アディショナルタイム(DAYSアンソロジー)で寄稿させていただきました"あめしるや君は"の続きです





 どれだけこうしていたんだろう。
 カーテンの隙間から差し込む光があたたかみのある色合いになってきた。肌を寄せ、ぽつりぽつりと言葉をかわしながら、まどろむのは気持ちが良いけれど、そろそろ時間だ。
 身体に巻き付く逞しい腕をやさしくほどいて、床に落ちていた制服と下着を拾い集める。背後でもぞもぞと動く気配がするから、きっと彼も同じように身支度を始めたんだろう。

 今日だけで何度キスをしたか。数えてみたってすぐに両手が足りなくなったはずだ。制服を着直しながら、ぼんやりとそんなことを思う。ほんのりと唇が痛む気さえした。


「……なに?」

 視線を感じて顔をあげると、一足先に着替えを済ませた未蘭がこちらを凝視していた。デスクで頬杖をつきながら、まるで美術館で彫刻でも見ているような、きりりとしまった表情だ。


「べつに。見てただけだ」

「人の着替えじろじろ見ないでよ」

「やだね」


 いっそう目をギラつかせてこちらを見つめるので、観念して背中を向けてボタンをとめることにした。


「手伝ってやるよ」

「いらなーい」

「遠慮すんなって」

「……ちょっ、やぁ〜〜めてよぉ」


 後ろから抱きしめられて、その勢いと重さに前のめりになる。未蘭はふざけているつもりらしいけれど、うなじのところに唇がふれているせいで、おかしな声が出てしまいそうだった。代わりにおおげさに笑ってみせる。
 こうしていると、わたしたちはすっかり恋人同士、みたいだ。"みたい"、というのも違うか。正確に、平成何年何月何日から交際スタートしました! と言い切れないのが歯がゆい。すべては告白の返事を有耶無耶にしてしまったわたしのせいだ。未蘭はあんなにも真剣に、まっすぐと、思いを伝えてくれたのに。


「帰んの?」

「そうだよ。……もうすぐお家の人帰ってきちゃうんでしょ?」

「あぁ。けど構わねえだろ」

「未蘭が構わなくてもわたしがいやなの」

「そーかよ」


 未蘭のご家族には何度か会ったことがあるけれど、今日はなんとなく気まずくて、顔を合わせたくなかった。
 玄関でキスをして、ガレージに向かう彼の背中を追う。歩くと足の付根がひりひりした。おのずと歩幅が狭くなる。痛い。言おうか言うまいか、迷ってやめた。


「あー……まだ痛てえか?」


 彼はけっこう察しが良い。些細な変化にもすぐに気づいてしまう。
 わたしの手を取り、いたわるように親指で手首をさすってくれる。痛いのはそこじゃないけれど、なんだか心が癒された。気遣ってくれる、その素振りだけでも嬉しい。


「なんか歩きにくいかんじ」

「悪かったな」


 片方の目元を歪ませて、バツの悪い顔をしている。照れくささよりも、今はその夕日に照らされたらしくない表情を、網膜に焼き付けておきたかった。


「座れるか?」

「大丈夫」


 未蘭がガレージから出してきた自転車は、いつも乗っているようなロードバイクじゃなかった。よくあるタイプの荷台がついた自転車。
 さすがの彼も二人分の体重を乗せて坂道を上るのはきついらしい。うめくような吐息と、漕ぐたびギシギシと自転車が軋む音までする。これなら歩いたほうが早いかもしれない。そう思いつつも、わたしは自転車を降りなかった。汗ばむ熱い背中にくっついていたかった。


「あはは! おっそ〜〜い!」

「てめっ、笑ってねえで降りろ! 重てんだよ!」

「やだ。未蘭ならこのくらいへーきでしょ」

「へーき、……っじゃ、ねえっ、……よっ」


 途中よろめきながらもなんとか坂を上りきった。下り坂の心地よい潮風が髪をさらってゆく。背中に顔をうずめて息を深く吸い込めば、汗と男の人の香りに混じって、かすかにわたしのボディクリームの甘い香りがした。さっきまで抱き合っていたから。抱き合って、キスして、ほかにもいろいろ。


「……おい」

「なーに?」

「あんまくっつくな」

「無理だよ。落ちちゃうもん」

「だったら落ちろ」

「ひどい」

「当たってんだよ、背中に。なんか、やわらけーもんが」

「しょうがないじゃん」

「しょうがなくねえ。揉むぞ」

「ハンドル握ってるのにどうやってー?」

「あ? 放しゃーいいだろが」

「きゃーー!」

「おいっ! んな暴れたらマジでこけんぞ!」

「もぉ〜〜未蘭がそういうことするか〜ら〜〜!」

「俺のせいかよ!」


 一瞬バランスを大きくくずして本当に危なかったけれど、わずかに見えた未蘭の顔は楽しげだったし、わたしも楽しかった。この時間が永遠に続けばいいのにだなんて子供じみたことを考えてしまう。そんなわたしの思いが通じたのか、未蘭は遠回りなはずの海岸通りを進んでいく。

 水平線の向こう側から、かすかに汽笛が聞こえてきた。見れば、夕日を受け止めきれない水面がガラス玉を蓄えたように反射して、眩しいくらいに輝いていた。

 この街に越して来たばかりのころは、囲む海が故郷を分つ障壁のように思えて、その儚げな美しさすらも、ただ寂しさを呼び起こすものだった。今では楽しい思い出のひとつひとつに寄り添ってくれる存在のようで、いとしくさえ感じる。もともと海は好きだった。


「みらん」

「あ?」

「今日、何時に寝る?」

「知らね。だいたい気付いたら寝てんな」

「10時? 11時?」

「んだよ。子守唄でも歌ってやっか」

「うん。電話して」

「きもちわりーぐれえに素直じゃねえか」

なまえちゃんはいつだって素直でしょ」

「ハッ! 未蘭ちゃんの前では照れて"好き"も言えねーくせに」

「そんなことないもん」

「じゃあ言え」

「はあ?」

「好きって言え。今言え。ここで言え。まだお前の口からちゃんと聞けてねえぞ」


 顔を合わせてない今なら、するすると言葉が出せるした。息を吸う。潮風にかき消されないように。


「わたしも好きだよ。未蘭。大好き」

「……」

「初めて会ったときから」

「……」

「ずっと気になってた」

「てめっ。俺の告白パクりやがって」

「パクったんじゃないもん。わたしも同じ気持ちだったんだもん」


 「馬鹿にしてんだろ」とぼやく未蘭の顔を覗き込んでみると、声の調子に反してすごくすごく嬉しそうだった。笑顔が伝染して口元が緩んでくる。わたしも嬉しい。

 みなさん。本日を以って、ふたりは晴れて恋人同士です。そうなんです! わたしたち、付き合うことになりました! 思春期のなんとなーく気まずい感じを乗り越えて、ふたりは結ばれたんです! ありがとう、頭の上を飛んでゆくカモメさん! ありがとう、散歩中のおじさんとわんちゃん! ありがとう、ありがとう!
 カラフルな紙吹雪を撒きながら、世界中に吹聴してまわりたい気分だ。

 丘の上の教会が五時を知らせる鐘を鳴らし、少し遅れて、放送塔からドヴォルザークの「新世界より」が聞こえてくる。どこかのお宅ではカレーらしい。あらゆる感覚が夜のはじまりを知らされているようだった。


「しっかり掴まれよ」


 そう言うと、未蘭はよりいっそうペダルを強く踏み込んだ。この坂を上りきったら、すぐに家の前に着いてしまう。もうすこし一緒にいたいな、なんて甘えてみたって、このへんには立ち寄るカフェもない。

 いつかわたしたちが大人になって、もうすこし、いろいろなことが許されるようになったら。ひとつの夜を越えて、同じ朝を迎えてみたい。来たるその日まで、ふたりの心が離れてしまわないよう、彼の背中にかたくしがみついた。どうか、と胸の内で祈りの真似ごとまでして。




(2017.11/30)


< BACK >