アイスクリームみたいな入道雲が浮かんだ青空。いったいどこに潜んでいるのか、頭痛を催すほどの蝉時雨。バットが硬球を打ち付ける威勢のいい金属音。外周中の陸上部のリズミカルな掛け声。蛇口からほとばしる、瑞々しい輝き。
 夏をかたどるそれら全てをいまいましく感じながら、炎天下に晒されてもなお走り続ける彼らのことを思った。

 水飲み場から姿は見えないけれど、ポジショニングを確認する声やボールを蹴る気配なら届く。気配はリアルな映像を引き連れてやってきて、夏の幻を魅せつけた。
 ボールと一緒に砂埃も舞って、南部監督だけが大げさにゲホゲホと咳き込む。暑さなどものともしない彼らは心底楽しそうにサッカーをしている。……。
 そんなもの想像しなくたって、あと五分もすれば嫌というほど目に入るのに。判断力の鈍った脳はエネルギーの使いどころを間違えがちだ。

 未蘭くんもきちんとミニゲームに参加しているだろうか。なにしろ目を離したら蜃気楼みたいにどこかへ消えてしまうのだ。昨日もいつの間にかいなくなったと思ったら、バスケ部にまざってシャトルランをしていたっけ。


「ふうっ……」


 照りつける陽射しがあまりに強すぎて、オーブンの中の七面鳥にでもなった気分だった。七面鳥につられて去年のクリスマスを思い出す。世間も我が家も毎年のことながら浮き立っていたけれど、あの頃のわたしは高校受験が迫っていてそれどころじゃなかった。とにかく今は冬が恋しい。


「私は先に行くから、そのタンクに水入れ終わったら持って来てね」


 先輩が額の汗を腕で拭いながら、作りたてのスポーツドリンクのボトルの山をかき集め、籠に入れて持って行ってくれた。

 あとは麦茶のタンクと数本のボトルだけだからずいぶん楽になる。彼女はいつもわたしの二倍あるいは三倍の仕事をこなし、それでいて疲れなどおくびにも出さない。


 いくら暑くても「暑い」なんて言わないし、


「――うわっ!」


 たとえばこんなふうに、タンクのふちで跳ね返った水をもろに胸で受け止め、ただでさえ汗で湿っていたTシャツに追い打ちをかけるような真似、先輩ならぜったいにしない。

 かくのごとき失態を演じてしまった日に限って色の濃い下着だというところも、どこまでもわたしらしい。彼らは目ざといのですぐに気づくだろう。リップの色を変えても髪を切っても気づかないくせに、そういうところだけは敏感なのだ。


なまえちゃーん」


 ドリンクを持ってふらふらとベンチに戻る最中、どこからか投げかけられた声に顔を上げると、フェンス越しに同じクラスの野球部員が手を振っていた。

 両手が塞がっていたので代わりに控えめな笑顔で答えたが、あの距離なら見えていないかもしれない。別にいいけど。


 サッカー部の練習場はほかの屋外競技と比べても砂埃がすごい。彼らが駆けてゆくその先々で砂嵐が起こっているようだった。 近頃日照り続きで、水撒きをしたところでこの暑さだ、すぐに乾いてしまう。いっそ雨でも降ってくれればと願ったが、湿度が上がれば蒸し暑くなるのでそれはそれで困る。

 ドリンクの入った籠を下ろし、ベンチに腰掛けた。ようやく一息つけたけれど、休憩時間が迫っているのでそうゆったりもしていられない。彼らの休憩時間イコールわたしたちの主戦場だ。

 南部監督の必要以上に長ったらしくうるさいホイッスルが響き渡る。

 それは休憩時間を知らせる合図であり、かつ戦の始まりを告げる法螺貝だ。全軍、前線へと馳せ参じるのであります。ドリンクボトル装填。タオル準備よし。放て〜!


「水〜〜〜!!! 水! 水!!」


 知念くんは人一倍「疲れた」とか「もう死ぬ」とか言うわりに休憩中でも元気いっぱいだ。我先に駆けてきてボトルを受け取る。飲むだけでは飽きたらず、残りの水を頭からかぶってしまう。

 知念くんに続いて、部員たちがぞろぞろと集まってきた。母猫に群がる赤ちゃん猫みたいな切実さで水分を求めてくるので、わたしも真剣にボトルを渡してゆく。


 ある程度さばけたところで、未蘭くんがこちらへ向かってくるのが視界の端で見えた。その歩みはひどく直線的であまりに迷いがない。レールでも敷かれているのかと、彼の足元に目を凝らしてみる。

 褐色の肌に浮かぶ汗は、人魚のポシェットからこぼれた真珠みたいに異彩を放つ輝きがあった。汗の粒は首筋へと流れ、細い川をいくつも作り出す。その川の流れはたえずてらてらと妖しくきらめいていた。


「おつかれさま」

「おう」


 マネージャーはほかにも沢山いるのに、未蘭くんは休憩になると必ずわたしの元へ来て(きっと同じクラスだから接しやすいんだろう)、タオルとボトルを受け取る。受け取ったあとも、木陰やベンチに移動せず、手を伸ばせばふれてしまう距離に居続けて、時折じっとわたしの横顔に視線を送ったりする。熱くて怖くてひりひりする視線。平常心がどろどろにとかされて跡形もない。

 お願いだからあまり期待させないで欲しい。そうでないと。……そうでないと? だいたい"期待"ってなんだろう。夏のわたしはおかしい。すべては夏のせいなのだ。


「すごく暑いね」

「まったくだ。あ〜、アイス食いてえ」


 未蘭くんはなんのアイスが好きなんだろう。
 無類のパフェ好きの彼のことだ、選びとるのは殺人的に甘いアイスに違いない。

 未蘭くんが正面に立ちはだかるので、わたしの身体は彼の生み出した日陰のなかにすっぽりおさまってしまった。
 一星のレギュラーはみんな体格がよく背も高い。未蘭くんもそのなかのうちの一人で、彼らとの身長差は途方もなく、向かいあって話をすると、お空のおじいちゃんに語りかけている気分になる。おじいちゃん、まだ生きてるんだけど。

 喉仏を荒ぶらせながら、ドリンクを飲む彼を見つめていると、頭がひどくぼんやりとかすみ始めた。なんだか少し目眩もする。たぶん暑さのせいだ。暑さは思考を鈍らせる。

 さっきまではこうじゃなかったのに。どんなにわたしが抜けているからといって、普段はまだいくらかまともだ。思えば、未蘭くんを前にしたときのわたしは、きまって脳が弛緩した状態になる。

 それは頭のなかで、水平線の向こう側に漂う船がぼーっと汽笛を鳴らす音が、小さく鳴り続けているような。日がな寝て過ごす年寄り猫が、口のなかを見せびらかす大あくびをしているような。

 とにかくその「ぼー」は、他の誰かじゃ感じ得ない、未蘭くん限定の熱病みたいなものだった。


「……お前、もう帰れよ」

「えぇ?」


 なに言ってんだこの人。今日は土曜日で、しかもインハイ前の大事な練習だから、午後も終バスのぎりぎりまで練習は続く。

 ここで帰ってしまったら、わたしはお昼を食べに来たようなものじゃないか。


「だりいんだろ。顔赤えぞ」


 言われるままに頬に手を当ててみる。たしかにそこは指先に比べて熱い。顔全体が上気したように火照っている感じだった。
 でも真夏の太陽に晒されれば誰しもがそうなるんじゃないか。そんな思いを込めて首を傾げる。未蘭くんはふっと笑って、優しげな目でわたしを見下ろした。


「耳まで真っ赤じゃねえか」


 優しい眼差しをそのままで、耳たぶをつままれた。突然の接触への驚きと、ふれた指先が思いのほか冷たくて、「ひゃっ」っと間抜けな声を漏らしてしまう。その反応を見て笑う未蘭くんは太陽みたいに眩しくて、直視できなかった。


「だ、だいじょうぶだよ」

「さっきもぼーっとよそ見してたろ」

「さっきって?」


 少し不機嫌そうに、無言で顎をくいっと動かし、野球部のほうを指した。


「あぁ、あれは……」


 彼は、見ていたんだ。野球部の、えぇとなんだっけ、中田くんだったか斎藤くんだったか。もう忘れてしまったけれど、まぁそんなことはどうだってよくって。わたしがドリンクを持ってえっちらおっちら前進していたあの瞬間。未蘭くんは、わたしのことを。

 練習中も試合中も、いつだって見つめているのはわたしのほうで、目が合うこともほとんどないのに。知らぬ間に、ぼーっとしたいかにも愚鈍な横顔を見られているのを想像して、ますます呼吸が浅くなった。


「おいおい本当に大丈夫か? 頭から湯気出てんぞ。熱中症でぶっ倒れる前に休め」

「でも……」

「ほら、そのへんの木陰にいろよ」


 そうして未蘭くんは手にしていたボトルをぽいと投げ、有無を言わさぬ手つきでわたしの腰に手を回した。


「わわっ、ちょっと……っ!」


 思わず肩が飛び上がってしまったけれど、気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか、わたしにはわからない。 エスコートされるがまま、グラウンドを横切って隅の木陰に座らされる。陽射しがないだけで驚くほど楽だ。

 体育座りするわたしと目線を合わせるためか、彼は正面にしゃがんで「このへんでいいか」と呟く。これほど近距離で向かい合うことはない、わたしは緊張で、うん、と頷くのが精一杯だった。

 木漏れ日を浴びた未蘭くんは、いつもの明朗さの代わりに切なさを感じる相貌をしていて、すこし見とれた。どういうわけか、彼の方もわたしの顔をまじまじと見つめている。
 恥ずかしいのに目がそらせない。視線のやり場まで支配された心地だった。


「少しはマシになったか?」

「うん、もう平気。ありがとう」


 未蘭くんは「よし」と納得した声をだすと、首に巻いていたタオルを外し、わたしの背中にかけてくれた。


「……それ。ひでえな」

「え?」


 彼はなんとも言えない複雑な眼差しで、わたしの胸元を指差した。そういえばドリンク作りの最中に濡らしてしまったんだっけ。もしかして、これに気づいてタオルを貸してくれたんだろうか。そう思い至った途端、ふたたびあの熱病みたいなほとぼりがこみ上げてくる。

 けれど未蘭くんは、恥ずかしさと嬉しさでのぼせ上がっているわたしをあざ笑うかのように一言、


「下もピンクか?」


 と、のたまった。


「っ〜〜〜バカ!」


 噛みつくわたしを尻目に、彼は意地悪そうにけらけら笑う。それはそれは楽しそうに。

 大人の男性みたいに洗練された気遣いをすると思ったら、小学生みたいな低俗なからかいをしてみせる。男の子ってわからない。

 大人と子供の境に立つ16歳の彼らは、くるくる回転しながら宙を舞うコイントスの硬貨ように、裏と表を往来しているのかもしれない。


「おとなしくそこで見てろよ」


 そう言うと彼は、わたしの髪を無遠慮にぐしゃりと撫でた。
 グラウンドへ、のし、のし、と向かってゆく。打って変わって大人の背中だった。

 向こうで先輩たちが「早く来い」と急かすが、彼はどこ吹く風で、歩む脚を早めたりはしない。

 熊のように逞しく悠然な背中を眺めていると、またしても頭がぼーっとして、抜けた魂が空の彼方に飛んでいってしまいそうだった。

 彼の貸してくれたタオルは少し湿っていて、かいだことのない香りがする。それはいい匂いとはいえないけれど、嫌な感じじゃない。男の人に強く抱きしめられたらこんな香りがするのだろうか。「男の人」と括ったくせに、わたしの想像した男の人は、ひどく未蘭くんに似た顔をしていた。

 彼の言うとおり、やはりわたしは、すこし熱があるみたいだ。
 グラウンドの先、じゅうじゅうに熱せられたコンクリートの上で、めらめら燃え立つ陽炎が、熱病の向こう側へと誘っている。




(2016.08/28 企画提出)


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