左肩にかかる愛しい重みに耐えながら、部室の窓辺で揺れるてるてる坊主のことを思った。今頃自分の不甲斐なさをしきりに悔やんでいるに違いない。
バスが市内の国道に入ると雨脚はすっかり弱まって、なんでもない日の薄っぺらい雨雲が広がっていた。試合中なんていつ中止の笛が吹かれるかとはらはらするくらいの暴風雨だったのに。
車内は高すぎる湿度のせいでべたつく感触がつきまとっている。わたしのだらしない二の腕に、彼の固い上腕筋が張り付いていたけれど、さほど気にならないのが不思議だった。
バスは校門をくぐり正面玄関に横付けされる。荷物があるしどうせなら部室のそばで降ろして欲しかった。そんな不満を募らせつつ、半分こにして聞いていたイヤホンを抜き取ってそっと彼の手に握らせる。
監督が眠っている選手たちを遠慮のない大声で叩き起こすと、目覚めたてのゾンビみたいなうめき声があちこちから湧き上がった。
「おつかれっした」
底なしに見える体力にも一応リミットがあったらしい。どの顔にも倦怠が滲んで見えた。
監督が解散前の短い話をしている間、知念くんは寝起きの猫を思わせる大あくびを連発していたし、神村さんですらわずかに背中が曲がっている。
無理もない。あの試合の後じゃ、立っているのもきついだろう。レギュラーメンバーならなおさらだ。
インハイの予選、相手はブロックで一番の強敵といえる守備の堅いチームだった。ポゼッションではうちが圧倒していたけれど、バケツをひっくり返したような土砂降りのせいで視界も足場も悪く、攻守ともに咬み合わない場面が続いた。なんとか勝ち切れたからよかったものの、延長戦にまでもつれ込んでしまったのはまずかった。どの選手の背中にも泥のような疲労がこびりついて、今も剥がれていないようだ。
そんなわけで、普段なら試合の後も練習があるのだけれど、今日ばかりはこの場で解散となったのだった。
さすがの未蘭くんもバスの中ではわたしにもたれかかり豪快な寝息をたてていたほどだ。精悍な面持ちの彼も、眠っているとなかなかに愛らしく、庇護欲というか、母性本能をくすぐられてしまう。
無防備な寝顔を思い出し、含み笑いするわたしの元に、タイミングよく彼がやって来て行く手を塞いだ。
「なに突っ立ってんだ」
「え、なにって……」
「送る」
ぶっきらぼうに言い捨てると、否応なしにわたしの鞄をぶんどってしまった。
中には飲みかけのペットボトルと水を吸って重くなった着替えが入っている。さっきから肩に紐が食い込んでつらかったのを、彼は見ぬいていたのかもしれない。
未蘭くんは優しさの表現がじつに下手くそで、なにかと言動も荒いから身勝手な人間だと誤解されがちだが、本当は情に厚く思いやりのある人だ。
もっと多くの人がその事実に気づいてくれたらと思う反面、彼の優しさをひとりじめしたいと欲張る意地汚いなまえがいて、心の中は切ないマーブル色で混沌としてしまう。
「いいって。疲れてるんだし、早くお家帰って寝なよ」
「じゃあお前ん家で寝かせろ」
「……今日はお母さんいるからダメだよ」
「寝るっつっただけだろ。なに考えてんだ」
ニヤッと唇の片側を歪めた、意地悪い笑い方だった。
わたしの家で眠るときの彼の姿を思い出してみる。それは決まってなにも身につけておらず、玄関のドアが開き母が帰宅する音で目覚めると、ドタバタと服をかき集め、みっともなくお尻を半分晒しながら、早着替えをしてみせるのだった。
「貸せ」
そう言うと同時に、わたしの手から乱暴にピンクの傘を奪った。
この程度の小雨、彼一人なら傘なんてささないんだろう。雨は朝から続いているのに、未蘭くんは鞄のほかは手ぶらだった。
傘はピンク地に小花柄のプリントが入っており、持ち手の部分は木製で、くるりと曲がっている。
黒く無骨な手がそれを持っているのはあまりにも不自然だが、当人は頓着してないどころか目に入ってすらいない様子だったので「わたしの傘じゃないから」などと言い訳するのも躊躇われた。
家を出る直前、ビニール傘が壊れているのに気づいたわたしは、咄嗟に傘立てから母の傘を引き抜いて駈け出した。ちょっとメルヘンでおばさんくさいデザインは気恥ずかしいけれど、遅刻するよりはましだろうと思って。
だけど未蘭くんが持つとわかっていたら、お父さんの黒い傘を持って来たのに。
今さら後悔しても遅すぎる。未蘭くんは左手でわたしの肩を抱き寄せ、右手で傘をさし、どこかの組の令嬢を敵対組織から護衛する子分の気配を漂わせ、悠然とグランドを横切ってゆく。
「なんかこれ変じゃない?」
「あ?」
「歩きにくいし……」
「たりめーだろが。傘一本に人間二人はきついんだよ」
問題はそこではないのだけれど、それ以上なにか言ったところで無意味な気がしたのでやめておく。
傘の中で肩を抱かれて歩くのはちぐはぐな感じがするし、二人羽織のようで正直歩き難い。二人分の鞄を持って傘までさしているのだから、わたしよりも彼のほうがバランスが取り難くて大変だと思う。
斜め上をちらりと見やると、なんということはない表情をしたいつもの未蘭くんがいた。
バスで垣間見た疲労は消し飛んだように平然としている。数時間眠っただけで回復したんだろうか。体力オバケの集団の中でも群を抜いている彼だ、ありえない話でもない。
十代の男の子のスタミナにぞっとしつつも、安堵してしまう自分が滑稽だった。やっぱり彼は癪にさわるほど元気な姿が似合っている。
「今日は疲れたね」
「こんなの疲れたうちに入らねえよ」
「わたしはくたくた。見てただけなのに」
「なまえも雨の中デッケエ声で叫んでただろ」
「聞こえてたの?」
「たまにな」
「……もしかして、わたし、うるさい? 邪魔?」
「そうだな」
「!!」
「……うるせーほど勇気づけられた」
驚いた。すごく驚いた。未蘭くんがこんなこと言うなんて。
ひょっとして熱があったり、怪我をしていたり、心に深い傷を負っていたり、とにかくなにかしらの強いストレスが彼にらしくない台詞を言わせたんじゃなかろうか?
うんと背伸びをして額に手を当ててみる。よかった、熱はなさそうだ。
「なんだよ」
怪訝な顔でわたしを凝視する彼は、普段と変わりないように見えた。もしかしたらそう振舞っているだけかもしれない。ポーカーフェイスが得意な人だから。
「熱で、おかしくなっちゃったのかと思って」
「あんたこそ、ココ、おかしいぞ。まあいつものことだけどな」
"ココ"のリズムに合わせてわたしのこめかみを小突く彼はいまいましくも愛おしい。
唇を尖らせて、すねたふりをしてみせたけど、滲み出る喜びを隠しきれていないんだろう。その証拠に未蘭くんはバツが悪そうに目をそらしている。
これはサッカーに限った話じゃないけれど、ピッチの外と内ではなにもかもが違う。わたしたちマネージャーや応援団のみんなは言わば縁の下の力持ちというやつで、いくら機敏にドリンクボトルを手渡せても、声が枯れるほど応援しても、それが勝敗に直結するのだと言い切ることが出来ない。
それどころか、未蘭くんにはピッチ外の声はもちろん、同じ選手からの助言すら跳ね除け耳をふさぎ、まるで世界に一人きり取り残されたように立ちすくむ瞬間があった。
試合中の彼にいつもの気さくさはなく、ふれると切れそうな鋭い眼差しをしているから、それが卓越した能力と相まってバリアみたいに彼の周囲を張り巡っているのかもしれない。
でも、ほんとうは、届いていたんだ。彼は見えないバリアなんて張っていないし、意外と仲間思いだし、このチームを大切に思ってくれているんだ。
込み上げる愛しさが限度を超え、口から流れ出てくるのを止められない。口元を押さえながら、彼の肩に頬をすりつける。あまえんぼの子猫がそうするみたいに。
「んふふ」
「キモチワリーな、あんた」
「ねっ、手つなご?」
「やだね」
「いじわる〜いじわるみーちゃん〜」
「みーちゃんはヤメロ」
"やだね"と言いつつちゃんと手を繋いでくれた。
密着感は薄れるけど、彼の拳の窪みに指をはめると、まるで生まれた時からそこがわたしの定位置かのように落ち着くし、幸せがとめどなく溢れてくるのだ。
ひとつの傘にふたり。そうでなくともたくましい体躯の彼だ、この傘は大きめだけど、わたし側に傾いているので、未蘭くんの右肩は濡れてしまっているのかもしれない。
歩幅も彼の長い長い足に比べたらぐっと小さくて、歩調だってぎこちないほどに緩慢だ。
その違和感の全てが、わたしへの気遣いから生じたものだと思うと、嬉しくて嬉しくてたまらない気持ちになる。
今すぐほっぺにキスしたかったけれど、斜め後ろに素知らぬふりで口笛を吹く知念くんがいたのでやめておいた。しかも、ちらりと目の端で確認しただけなのに、彼は待ってましたとばかりに近寄ってくる。血みどろの斧を携えてにじり寄って来る殺人ピエロのごとく邪悪な面持ちだった。
「みーちゃん、俺もいっしょに帰っていいっ? ねっ? 手繋いでっ」
どうやらさっきのやり取りを聞いていたようだ。
語尾にハートを散りばめた口調はわたしの真似をしているつもりらしい。てんで似せる気がなさそうだけれど。
知念くんが一歩一歩こちらに近づいてくるたび、未蘭くんの眉間の皺がまざまざと深まっていくのが面白かった。
「ガキかよ」
「うるせー。俺は先輩だぞ」
「知念くん、傘は?」
「忘れた!」
忘れたんじゃなくて持ってくる気もなかったんだろう。ただでさえ頑固なくせ毛が、雨の日は湿気で手がつけられなくなるのだと嘆いていたっけ。試合で髪が濡れることは確実なので、腹を括って手ぶらで家を出たとわたしは勝手に推測してみる。
しかしどういうわけか知念くんはわたしの前でくるっと無意味なターンを披露すると、ぬるりとした妙な動きで傘の中に入ってきた。サッカーでもトリッキーなプレイで相手の裏をかくのを得意としているせいか、彼は日常生活においてもどこか奇をてらった動きで衆目を集めている。
知念くん、わたし、未蘭くん。ふたりに挟まれる形になって、ますますもって窮屈だ。
「だ〜〜!! 邪魔なんだよ! さっさと出てけ!」
「そういうこと言う〜? 言っちゃうか〜? 先輩だぞ〜?」
「あ〜もう知念くん身体湿ってて嫌〜」
「わわっ、押すなバカ!」
「わたしじゃないもん未蘭くんが〜」
未蘭くんが勢いよく押したせいで、知念くんはドミノ倒しのように土の上に倒れこんでしまった。
わたしがころばなかったのは未蘭くんが寸前で支えてくれたからだ。知念くんは頬に泥をつけて何やらぼやいていたけれど、すぐに立ち上がり、性懲りもなく傘の中に舞い戻ってきた。
どんなにすげなく扱われても、なぜか彼は未蘭くんのことをとびきり気に入っているらしかった。
「なんの話してたんだ? なまえ、すっげ幸せそうだけど」
「あのね〜、うふふ、未蘭くんがね〜」
「オイ」
「なまえ、そのまま続けろ! これは先輩命令だ」
「先輩命令ならしょうがないよね。未蘭くんがみんなの応援に勇気づけられてるって」
「わたしの応援に」と喉まで出かかったうぬぼれをこらえるのが大変だった。
知念くんは幽霊でも見たかのように、しばらく目を見開いていたけれど、やがて、なにかに取り憑かれたみたいに喚き始めた。
「相庭の〜〜〜今日の生け贄はどいつだ〜〜」
いきなりなにかと思ったら、未蘭くんのチャントだった。
さわさわと小雨がふる静かな空気を、知念くんの声が切り裂いてゆく。その横顔はたまらなく楽し気だったので、合いの手を入れる要領で加勢することにした。
たった二人の応援団。人数は少ないし即席だけど、どちらも彼を心から大好きな、すこぶる意識の高い団員で構成されている。
「未蘭のゴールが見た〜い〜〜見た〜〜い見た〜〜い〜〜〜!」
「ラララーララララー」
「あんたらうるせえな」
「けど?」
「けどぉ?」
「……」
「「勇気づけられちゃうんでしょ〜?」」
「黙れ!」
たしかに知念くんは喧しいけれど、このうるささが未蘭くんにはちょうどいい。
寂しさをかき消してくれる、爆風のごとき知念くんの騒々しさが必要なのだと、真剣に思うときがある。
ピッチの外くらいは未蘭くんが孤独を感じないように。そんな、祈りに似た押し付けがましい願いを込めて、知念くんといっしょに馬鹿みたいに騒いでみせる。
鳥も雨宿りをしているひそやかな昼下がり。場違いなほど騒々しいふたりと、うんざりしつつもどこか楽しそうな彼。端から見ればおかしな組み合わせに見えるだろう。実際のところわたしたちはおかしな三人組なのだ。
そうこうしている間に我々一行は校門を抜け、坂道を下りきり、駅に向かう交差点にたどり着いた。
「あれ、お前らどっか寄ってくの?」
「こいつ送ってく」
「ハァ〜〜?」
ラブラブカップルには付き合ってられないよ、やれやれ。とでも言いたげなオーバーリアクションをして、知念くんは颯爽と去っていった。しつこいくせに引き際はいい。春の嵐みたいな人だ。
背中を向けたまま手を振る知念くんに「おつかれさま」を投げかけて、わたしたちは短い橋を惜しむようにゆったりと渡ってゆく。
部内で西側を通学路とする生徒は少ないので、大体この辺りまでくれば同じジャージの姿はぱったり見えなくなる。雨のせいか人通りもまばらだ。世界の終わりに二人きりであてもなく彷徨っているみたいに静かだった。
「未蘭くん、今日もかっこよかったよ。わたしすっごく興奮しちゃった」
彼はいつだってかっこいいけれど、ボールを蹴るとさらに三倍、いや少なく見積もっても五倍は魅力的になる。
延長戦で決勝点をあげたのも彼だった。ここぞというとき誰もが祈るように10の書かれた背中を見つめる。そのプレッシャーは凡人のわたしなんかじゃ想像もつかない重さだろう。
「とくに三点目の起点になったプレイが好き」
「あぁ……」
「中央で未蘭くんが、こう、ボール奪った後、くるっとターンしたでしょ」
ちょうどよく道端に落ちていた形の良い小石をサッカーボールに見立て、試合のハイライトをやってみることにした。傘の外に飛び出すと、わずかに続いている雨粒が頬にあたり、かえって心地いいくらいだった。
「一旦キャプテンにボールを預けて……」
未蘭くんに小石のパスを送れば、あきれつつも上手にトラップして、そっとわたしが蹴りやすい位置に戻してくれた。
「それから、ほんのちょっとドリブルして……」
実際の未蘭くんのドリブルは、大雨を忘れさせる鋭さと力強さでものすごくかっこよかったのだけれど、わたしにはそれを再現する技術がない。ので、これは酔っぱらいの千鳥足ドリブルといったところだ。
小石を踏んで躓くたび、未蘭くんが「おい」とか「あぶねえぞ」とかいちいち声を上げる。
彼はわたしの運動能力を露ほども信用しちゃいないのだ。映画でよくある「この戦争が終わったら、父親になるんだ」と聞いてもないのに打ち明ける友人の生存率くらいに。
「ゴール!」
人どころか車も通っていない交差点に小石を蹴り上げた。力いっぱい蹴ったのに小石はなさけないほどのろのろと横断歩道の脇に転がってゆく。
振り向き、真正面から彼を捉えて言う。この一連のプレイがね。わたしにとって今日のMVPなの。彼はいかにもげんなりした仮面の下に可愛い笑顔を隠していた。
試合の記憶を辿るとき、終始わたしのカメラは相庭未蘭に焦点を定め、ボールを追うことすら放棄している。目を閉じても残像のように10の数字が浮かび上がるほど、彼の勇姿が焼き付いて離れなかった。
「……下手クソ」
「そりゃあね? でも、わたしにできちゃったら困るでしょ。ポジションが脅かされるかもよ? いいの?」
へへん、と鼻で笑う彼が、いやに得意気に見えておかしかった。
「言ってろバカ」
わたしにくれる「バカ」は他のチームメイトに言うような辛辣さはなく、イントネーションが柔らかくてほのかに優しい。ようするにこれは照れ隠しだ。
「バカ」と書いて読みがなは「食っちまいたいくらい可愛いやつ。永遠に俺のそばで微笑んでいてくれ」に違いない。
わたしにはしっかりと未蘭くんの本心というルビが見えているんだから。うんうん。
わたしが一人で頷いていると、未蘭くんは持ち前の野生の勘とやらでなにかを察したのか、納得いかないといった表情で眉をひそめ、一歩、また一歩と迫ってきた。
散歩中の犬が後方からやってくる飼い主を待つように、大きな手のひらが伸びてくるのを期待してしまう。案の定、彼は慣れた手つきでわたしを引き寄せると、再び傘の中に入れてくれた。
いつの間にか信号は青になっていたけれど、彼は一向に動こうとしない。「どうしたの」と見上げるわたしの口は、有無を言わさぬ力強さで封じられた。
一度目は表面がふれるのみ。二度目以降は、深く深く、喉の奥まで探られるような、気が遠くなるキスだった。
腰に手が添えられて身体がぐっと持ち上がる。わたしもそれに応えるつもりで、太くてがっしりした首に腕を回せば、バレリーナを思わせる完璧なつま先立ちが完成した。
キスのとき、彼は腰を屈めたり膝を曲げたり、こちらの身長に合わせることはしない。抱き上げて強引に180cm超えの世界に連れ込んでしまう。
人通りが皆無でよかった。こういうときばかりは自然にあふれた、のどかな故郷をありがたく思う。
結局わたしたちは信号が三回変わっても飽きずにキスを続けていた。下半身がぴったり密着しているせいで、彼が何を考えているのかわかる。もちろん、これから言うことも。
「……お前のかーちゃん、買い物とか行ってたりしてねえ?」
「どうかな」
いつどこに誰がいようと構わない。今この瞬間、この傘の中は、間違いなくふたりだけの世界だった。
すでに雨は上がっているらしく、足元の水溜りには気持ちのいい青空が映しだされている。傘の隙間から目がくらむほど鮮やかなきらめきが襲ってきて、眩しさに涙が出そうだった。
(2016.07/26 企画提出)
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