「この書物によると」



 木陰で白人の書物を読んでいた彼が、ふと思い出したように口を開いた。

 空ではお日様がてっぺんからわずかに下降し始めている。昼下がりだった。


 わたしは薬草を摘む手を止め、ふれなくても硬さが伝わる彼のふくらはぎに視線を移す。
 目を合わせなかったのは、見つめ合って会話する自信がなかったからか。単に彼の脚を気に入っているためか。自分でもそのどちらなのか判然としなかったし、あるいは両方かもしれない。

 わたしを置いてけぼりにして、彼は言葉の先を紡ぐ。



「やつらの挨拶は唇を重ねることらしい」



 彼の言う"やつら"とは大抵白人を指すのだが、この場合彼の手には古びた本が握られているので、まず間違いないだろう。

 それにしても、挨拶が唇を重ねることとはいかがなものか。唇が密着する状態に持っていくには、相当な距離を詰めなくてはならないじゃないか。

 わたしは彼の手の届く距離に踏みこんだだけで身の縮む思いなのに、互いの鼻がふれるほど間近で彼の吐息やにおいを感じてしまったら、とても正気でいられる自信がない。
 そんな大胆な行為を挨拶とみなす"やつら"とは。やはり、わたしたちの常識や固定観念を打ち砕いてしまう存在なのだろう。

 未知は怖い。
 なにを知らないのかもわからないという事実が怖い。



「そう、なんだ……」

「あぁ。そうなんだ」

「……」

「してみるか」

「えっ」



 真剣な眼差しに射抜かれて、わたしの心臓は一瞬時を刻むのを忘れたようだ。

 意図を探ろうと彼を見つめるが、その表情筋は微動だにしない。これならまだ沈黙の空を時々渡り鳥が通過していた数分前のほうがはるかにましだった。



「……」

「ここと、ここで」



 誰に問いかけるでもなく呟くと、彼は自らの唇に指を押し付け、次にその手でわたしの唇をやさしくなでた。

 狩りに出る前の男たちが頬に施す戦化粧を思わせる所作で、二本指が右から左につつつ、と粘膜の上に線を引く。儀式めいた一連の行為に目を奪われていると、唇をなぞっていた指先がいつのまにやら顎の下に移動して、わたしの顔を持ち上げた。
 必然的にわたしたちは見つめ合う。

 「いくぞ」荒地を這う蛇のような声色で確認を取るや否や、ずいと彼の厚い唇が迫ってきたものだから、後ずさるどころか思わず飛び上がってしまった。さながらわたしは物音に怯え飛び退くカリブーだ。



「どうした」

「え、あ」

「落ちるぞ」



 腕を掴まれてぐいと引き寄せられる。
 離れるどころか逆に間合いをつめられて、信じがたいことにわたしは今、彼の腕の中にいた。

 首だけまわして背後を見ると、足元の小石が10ヤードはあるであろう硬い赤土へと落下していくのが見えた。

 自分が崖の上にいたことすら失念してしまうほどの事態だったのだろう。魂だけ抜け出て遠くからこの様子を眺めているような、そんな得体の知れない心地がした。



「あ、ありがと――」



 くるりと身体を回転させ、礼を言いつつ彼の腕から抜け出す。

 その瞬間、再び彼の長すぎる指が素早く力強くわたしを捉えた。瞬きをひとつし終えたときにはすでに、唇に生温く複雑な感触が降ってきた後だった。



「これはどういたしましての"挨拶"だな」



 ひょーるるる。気の抜けた、それでいて鷹揚な響きがする。見上げると頭上をつがいの鷹が飛んでいた。



「ほかにも試してみたいことがあるんだ。付き合ってくれ」



 彼の手の中の書物には、薄汚れた紙の上に青い染料でもって、多種多様な体勢でまぐわう男女の絵が書かれている。



「行こう」



 有無を言わせぬ眼差しに気圧されて、背筋に冷や汗が伝う。指一本動かせないというのに足だけはやけにリズミカルな調子で前進していく。


 手を引かれるまま彼の背骨を見つめ続ける。もう後戻りは出来ない。





(2014.03/30)



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