お昼時のハイスクールは一日のうちで一番の賑わいを見せる。むしろ賑やかを通り越して騒がしいと称したほうが正しいだろう。隣でランチボックスを広げる友人のおしゃべりすらも、届くかどうか危ういと言ったところだ。

 もしここがVIPの集う有名私立のハイスクールだったならと考える。考えて、それは無意味なことであるという結論に至る。
 どうあがいても、ここはアメリカの下町にある、庶民的でごくふつうのハイスクールなのだ。片目を瞑ったってそれ以下にもそれ以上にもなり得ることはない。


 とにもかくにも教室はそんな有様なので、ポケットのなかにある携帯電話がメールを受信したとしても、受信音など聞こえるはずもなく、振動ばかりが伝わるのみである。隣のクラスのカップルのゴシップを嬉々としてまくしたてる友人に相槌を打ちながら、サンドイッチを左手に、携帯電話を右手に構える。



《 B棟校舎裏 》



 わたしは今まさに口に運ぼうとしていたサンドイッチを潔くバスケットに戻し、それを手早くまとめてかばんに詰めこむと、廊下に飛びだした。



「すぐ戻るから」

 そう伝えれば、友人はあぁまた始まったのね、というような苦笑をくれた。








 カフェテリアのあるA棟からB棟に移ると、途端にひと気がなくなって、心なしか気温も少し下がったような気がした。とはいえ先ほどから校内を駆け回っているわたしにとって、ほんのわずかな気温の低下などあまり意味のないものだった。夏特有のべたついた汗がシャツに染みこんでいく。


 経験上、彼のメッセージが簡素であればあるほど、あまりいい状況ではない。一刻も早く、彼を見つけなければ。


 B棟から中庭へ行くと、木陰でうずくまる小さな背中が目に入った。俯いていて顔は見えないが、おそらくアレが始まったのだろう。



「リキエル」




 はじまりは、学年末試験のときだった。

 試験が終わっても席を立たない彼を不審に思い、クラスメイトが近よったものの、大声を上げて追い払われてしまった。その光景を遠巻きで見ていたわたしからも、うつむいて尋常ではない汗をたらしている彼の様子が見えた。
 さらには、左の瞼がまるでその部分だけ筋力を失ってしまったかのように垂れ下がってしまっていた。

 それは試験中に起こったことだったらしい。リキエルの解答用紙はほとんど白紙だったと、彼に追い払われた友人が吹聴していた。もともと社交的ではなかったが、それ以来彼はふさぎこんで、二ヵ月後にあったクラス替えでも、わたし以外の人間と打ちとけあうことはなかった。

 最近はあまり学校にも来ていないようで、たとえなんとか登校できたとしても、こんなふうにパニックを起こしてしまう。
 彼が一度パニックに陥ってしまった場合、それを治められるのは幼少の頃から友人であるわたしだけだった。いつしかその行為は朝起きて顔を洗いコーヒーを飲むのと同じくらい、わたしの日常になっていた。



「うぅ……まぶたが……上がらないんだ…………」



 目隠ししてなにかを探すみたいに(実際に彼の瞼は下がってしまっているので目隠しと同じ状況なのだが)、手のひらが泳いでいた。



「大丈夫、すぐに治るからね」

「だめだ、なまえ……ッ! 息が、息ができねぇッ……く、苦しいッ!」

「落ち着いて、リキエル」

「ちくしょうっ……まぶたが…………どんどん降りてくるッ! 汗も止まらねぇッ! 今度こそ本当に死んでしまうかもしれないッ!」

「大丈夫。リキエルは死なないよ」



 縋りつくリキエルの腕をやんわりとほどき、汗だくになった頭を抱きかかえる。大丈夫、大丈夫。耳元で優しくささやく。半開きになった瞼にふれ、愛しさをこめてキスを落とす。何度も、何度も、繰り返し。

 リキエルの手がわたしの背中にまわってきて、痛いくらいに抱きしめ返された。



「ほら、少しずつ開いてきたでしょう」



 わたしが瞼にキスをひとつ落とすごとに、ほんの少しずつ上がっていく瞼が愛おしい。瞼の次は、額、鼻、頬、唇。どこもかしこも汗にまみれていて、塩味が口に広がっていく。顔中にキスを落とし終わる頃には唇がひりひりした。
 口内に広がった塩味は、いつかふたりで見た海を思わせた。ミドルスクールのときに、やんちゃだった彼と、授業をさぼって西海岸の海を見に行ったのだ。

 制服のまま自転車にまたがり、時にはヒッチハイカーの真似事をしたりして。心優しい運転手に拾われ、トラックの荷台に並んで潮風を浴びるわたしたちは、数年後こんな有様になるとは微塵も思っていなかったのに。

 なにがどうして歯車が狂ってしまったのか。彼がこうなってしまった原因が、いくら思い返せども見あたらなかった。昔から繊細なところがあったけれど、かつてリキエルは、いじめっこに対抗するほど勇敢だったのだ。日本から越してきて、なかなか馴染めなかったわたしを、いつだって守ってくれたのは彼だったのに。

 今度はわたしが守ってあげたい。彼が抱える不安や恐怖すべてを取り去ってしまいたい。



「ランチを、買いに行こうと思ったんだ……」



 雨の日の野良犬を思わせる声だった。リキエルの話は、通学中の様子から始まった。

 朝、すべての信号に引っかかってしまい、事前に昼食を買う余裕がなくなってしまったこと。人ごみは極力避けたかったが、仕方なしにカフェテリアに行くと、好きなパンがすべて売切れになっていたこと。普段は選ばない菓子パンを買うも、バスケ部が床に置いていた荷物に躓いて転んでしまったこと。そうして、転んだ拍子にパンを落とし、運悪くそれを通りがかりの女子生徒に踏まれてしまったこと。……。

 彼の苦手とするなかでも人ごみは上位に食いこんでくるものだ。それを思えば、今回のパニックは彼なりに努力した末の結果であったと思う。



「パンくらい、わたしが買いに行ったのに」

なまえだって朝は忙しいだろ?」

「そんなことないよ」



 わたしは鞄を引きよせて、手の感触のみでバスケットをひっぱりあげる。

 散々走り回ったおかげで、パンの間からたまごが飛びだしてしまっていたが、彼が買った足跡つきの菓子パンよりはましだろう。



「サンドイッチは食べられる?」



 こくりと頷き、しずしずと手を伸ばす様子は、さながら罠にかかる前の草食動物といったところだ。彼が草食動物だとしたら捕食者はわたしということになるが、あながちそれは間違いではない。



「それ、ぜんぶ食べていいからね」

なまえの分はどうするんだ」

「わたしはあとで食べるからいーの」



 ちょうどカフェテリアで食べたいメニューがあったから、日替わりのやつなんだけど。

 わたしがそう言うと、リキエルは遠慮がちに、残りのサンドイッチにも手をつけた。美味しそうに頬張る様子は、出会ったときの頃とさほど変わっていないように思う。



なまえ、今日は真っ直ぐ帰るのか?」

「うん、一緒に帰ろうか」

「ああ……。久々になまえの家に寄りたい」

「いいよ。じゃあ、お菓子を買って帰ろう」



 リキエルの表情が段々と穏やかになっていく。

 ポケットからハンカチを取りだし、額に浮かんだ汗を拭いてやる。すべてをわたしに委ねる姿は、日に日に育っていく体や男前になっていく顔に反して愛らしかった。赤子のようにわたしを求める彼の真っ直ぐな欲求が、いとしくてたまらない。



なまえ、ごめんな、いつも迷惑かけて」

「……リキエル、いいの」



 いいの。リキエルの頭を優しくなでながら、何度も呪文のように呟いた。いつまでこんな状況が続くのか、わたしにはもとよりきっと彼にもわからないのだろう。彼が心より笑える日を待ち望む一方で、今後も発作が続いてわたしなしで生きてはいけないようになればいいのにと願う、矛盾した気持ちが恐ろしかった。



(2012.01/30 UP)(2019.11/15 修正)



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