ミスタの倦怠期シリーズ Part.4
時の流れとは早いものだ。
俺がこの家のポストをなぎ倒し、彼女に跪いてから、もう三ヶ月も経ったらしい。あの日を境に今日まで怒涛の日々だったので、俺にはつい昨日のことのようにも思えるのだが、たしかに季節は春から夏へ、ミディアムヘアだった彼女の髪はロングへと移り変わりつつある。そしてなにより、俺もとうとう既婚者だ。
ネアポリスでも盛大なパーティーを行う予定だが、彼女たっての希望で、彼女の地元で式を挙げることになった。この北イタリアの小さな町は、温かみのある雰囲気でよそ者の俺にとっても居心地のいい場所だった。挙式会場は小さな町にふさわしく、こぢんまりとした教会だ。「きみのお母さんのときも私が誓いの言葉を読みあげたんだよ」と言う神父の、あのしたり顔ときたら。
俺が髭を剃ってタキシードを着て、カッフェを三杯飲み近所のガキに連れられて町中を二周練り歩いても、まだ女たちは準備をしていただけあって、ドレス姿の彼女は息を呑むほどに美しかった。
―共に助けあい、その命あるかぎり真心を尽くすことを誓いますか?
―もちろん「Si」に決まってるッ!
式のあとの披露宴は彼女の実家の庭で行われた。披露宴といっても気取らないパーティーだ。彼女の母も祖母も、そのまた母も、この庭でケーキを食べたという。
ご馳走と酒を求め、町中の人間が集うパーティーが始まった。
とはいえ小さな町だ、庭も広いのでさほど混雑した様子はない。祝い事には理想的な賑やかさだった。
「ミスタァ! 腹ヘッタゾォ〜!」
「オイオイ待て待て、焦るなって、こら」
「オレニモ ヨコセーッ! 肉 食ワセローッ!」
「エーンミスタァ〜! ナンバー3ガ ブッタァ〜」
「たくよぉ、こんな日だってーのにオメーらは……」
ピストルズに飯を食わせるのも一苦労だ。
なにしろ今日の俺はもうひとりの主役なので、彼女のおしめを代えてやったと目を潤ませるばあさんや、彼女に想いを寄せていたと語る幼馴染が群がってくるなか、どうにか抜けだし、こそこそと木の陰に隠れなくてはならないのだった。
「ほら、食え。こいつぁうめ〜ぞォ」
「「アギャギャギャギャギャ! クレーッ!」」
スタンド使いではない彼女にピストルズの姿は見えない。が、同棲している間に、もう何度も決定的な瞬間を見られていた。ひとりでに消えていくマフィン、チーズ、クッキー、ドルチェ。そのたびに彼女は「わたし、疲れているのね……」と額を押さえ、しばらくソファで横になると、数時間後にはなにごともなかったかのようにけろりとしていた。俺としても根掘り葉掘り詰問されるよりは都合がいいが、それにしたって、頻繁に幻覚を見るなんておかしいと思わないのだろうか。結婚を機に、打ち明けてみるのもいいかもしれない。あいつ、きっとひっくり返るな。
「―ミスタ〜? こんなところでなにしてたの」
彼女が俺に声をかけてきたのは、ちょうどピストルズが食事を終えた頃だった。手のひらに残った食べかすを払い、彼女の頬にキスをする。
「ケーキ食べさせてあげるッ! こっちに来てっ!」
「食べさせてあげる≠セァ? おいおいベイビー、今から五十年後の練習でもするつもりかァ?」
「もぉ、いいからここに座ってよ。さぁ、ほら」
彼女に言われるがまま、椅子に座らされ、ケーキ皿を手にした彼女が俺の膝に座った。そういえば、新郎新婦がケーキを食べさせあう習慣について聞いたことがある。これも彼女の故郷の伝統なのだろうか。
「オメーのばーさんもこうしてケーキ食わせたのか?」
「そうじゃあないけれど……、近所のお姉さんがやってたのを子供の頃に見たの。絶対わたしも同じことするんだって決めていたから。はい、ミスタ、あーんして」
「ア〜……ん。ン……? ンま〜い!」
「でしょ。これはわたしの同級生がやってるお菓子屋さんで作ってもらったの。ほら、昨日話したでしょ、わたしの初めてのボーイフレンドの―」
彼女との付きあいは長い。
しかしこの町に来てからというもの、俺は彼女の人生の、ほんの一部しか見ていなかったのだと思い知らされてばかりだ。
「縁起わりーなァ、元カレにウエディングケーキ作らせてんのかよ」
「狭い町だもの。この町の男は全員元カレみたいなもんよ」
「おーコワ。あそこで踊ってるじいさんは二番目の彼氏か?」
「うーん、そうねぇ。たしかあの人は四番目のかれ―」
「おいッ! 四はやめろ、四は!」
「ふふふ」
いつもどおりに冗談を飛ばしあう。こんなふうにして、笑顔の絶えない日々がこれから先も続くのだろう。まさに死がふたりを分かつまで≠セ。
「ミスタァ! オレニモ食ワセロ〜ッ!」
彼女の背後でピストルズが騒ぎはじめた。ケーキの匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。
「おい、フォークかせ。お前にも食わせてやっから」
「え〜いいよぉ。あんたガサツだし。こぼされたら嫌」
「まーまー、心配すんなって」
「あっ! も〜……、ドレス汚さないでよ」
「わ〜ってる。ほら、あーん、だ」
「あ〜……ん〜やっぱこれおいしいよぉ〜」
俺は視線で(今やるから大人しくしてろ)とピストルズをなだめ、タイミングを見計らって彼女の死角からケーキを分け与える。またたく間に消えていくイチゴのケーキ。ピストルズも気に入ったようだ。彼女の昔の恋人とやらは、なかなか腕のいいパティシエらしい。
「わたしたちも踊りに行きましょう」
彼女はそう言うと、四番目の元カレのほうを指さした。
「おう。お供するぜ、シニョリーナ」
「もうシニョーラよ」
「そうだったな」
途中、通りがかったテーブルの上からタルトをつまみ、ナプキンに包む。ピストルズ用だ。そうしてポケットのなかにしまいこんだのを、彼女は見逃してくれなかった。
「ウ〜ワ! あんたまたポケットにおまじないのおやつあげたのォ?」
「あとで鳥に餌やるんだよ。ホラ、このへんは自然豊かだし野鳥とかいんだろ」
「鳥はタルトなんて食べるかしら」
「ま〜好みの問題だな。人間だって、甘いものが好きなやつもいりゃあ、これでもかってくれーにトウガラシかけるやつもいるからな」
俺たちがDJブース(といってもテーブルにでけぇラジカセを置いただけだ)に辿りつくと、誰かが気を利かせたのかゆったりとしたバラードに切り替わった。古くさいがいい曲だ。彼女の、いや、俺たちの顔を見るなり、人だかりの波がモーゼのごとく割れていく。思いのほか気恥ずかしいが、楽しそうな彼女の顔を見ると、なにもかもどうでもよく思えた。
「真面目な話、あなたって踊れるの?」
「あぁ。まず手をこうするだろ、それから……」
彼女の鼻をつまむ。もちろん悪ふざけだ。
「もぉ、違うでしょ〜」
俺の手を振りはらうと、彼女は見よう見まねで、いちおうダンスらしきポーズをとった。その顔はあまりに真剣で、俺は彼女のいじらしさに胸を打たれ、もう茶化すような真似はできなかった。
向かいあい、ただ揺れるだけのダンスを披露する。いつだったかの夜にも、こんなふうに踊った覚えがある。たしか記念日の夜だった。「結婚してくれ」と言うつもりが、怖気づき、酒にのまれて帰った夜。俺にとっては苦い記憶だ。きっと彼女にとっても。
今日、このダンスの思い出で上書きできることを祈りつつ、俺は心をこめて踊った。
へたくそなりに、愛の歌に耳を澄ませて。
ミスタの倦怠期シリーズ、完結(2020.10/11 個人誌「イタリアーノ」から)
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