ミスタの倦怠期シリーズ Part.3







「わたし、実家に帰るから」

「へ?」



 彼女がそう告げたのは、俺がスナック菓子をつまみながら、ソファに寝転がりサッカー中継を観ていたときだった。
 無表情で近づいてくるので、てっきりまた靴のままソファに足を上げていることをなじられると思ったのに。同棲を始めた際に彼女が選んだ白かったはずのソファは、ベージュ色に変色してしまっている。

 昨晩、彼女がキャリーケースを引っ張りだし、あれこれつめていたのは知っていた。きっとまた女友達との旅行かと思い、声もかけなかったが。

 旅行好きの彼女のデスクには年を追うごとにスノードームが増えていく。パリ、ロンドン、ニューヨーク、トーキョー。



「いつまでェ……?」

「ずっとよ。仕事も辞めたの」



 声も出なかった。そうして俺が口を利けるようになるまで、彼女は待っているつもりもないらしく、背を向けて出ていってしまう。この部屋の鍵だけを残して。


 それが先週末のことだ。
 月曜になっても彼女は帰ってこないどころか、電話一本よこさなかった。これがいつもの旅行であれば、今空港についたの、ホテルでエステよ、そのあとプールで泳ぐの、などと聞きもしない情報を逐一報告してきたのだが。



「―タ、……スタ、ミスタ!」


 考えに耽っていたせいで、ボスがお呼びのことにも気づかなかった。


「おう、どうした」

「どうしたはこちらの台詞ですよ。今日は様子がおかしい……きみらしくないな」

「そーかぁ〜?」

「悩みごとですか」

「ハッ! まっさかあ!」

「……そういえば、金曜にきみのアモーレを見かけましたが」


 ―うちのボスときたら、大真面目なツラで「きみのアモーレ」だなんて言うから恐れいるぜ。


「ずいぶんと大きなキャリーケースを引きずっていましたよ。今度は地球の裏側でも行くんですか?」

「あー……、そうそう、あいつね。ウンウン」

「また喧嘩でも?」

「いや、喧嘩はしてねぇ」

「喧嘩は=H」

「出てった」

「は?」

「あいつ実家帰るってよ」



 これ以上、もうなにも言いたくない。頼むから詮索してくれるなよと思いをこめて笑ってみせる。笑顔から虚勢を感じとったのかジョルノはなにも聞かなかった。

 そうだ、喧嘩にもならなかったのだ。

 いつもであれば俺が彼女の気に障ることをしでかして、あいつは怒り狂いながら中指のかわりに四本指を立てる。そのように、騒がしくも他愛ない喧嘩どころか、なんの相談も、前ぶれすらなく彼女は去っていった。愛も怒りもすべて尽き、感情の絞りかすさえ残ってはいないみたいに。

 もしかすると前ぶれはあったのだろうか。しかし近頃の俺といえば、休日はサッカースタジアムか映画館に入り浸り、彼女の顔すらまともに見ようとはしなかったので、思い起こしてみたところで無駄だろう。



「あーあ……」


 月曜はいつだって無気力だが、今日は輪をかけて身が入らない。仕事らしい仕事もせず街をぶらつき、日が沈む前に帰宅するも、やはり家は無人だ。

 なに、気にすることはないぜ、ミスタ。あいつと同棲する前は、ずっとひとりでやってきたんだ。どうってことはない。昔に戻るだけさ。自身に言い聞かせるも、かえって虚しさがこみあげてくる。

 なんというか、彼女のいない生活は―。



「エーン、ミスタァ! サミシ〜ヨォ〜」

「るせーな、ピーピー泣くのも大概にしろ」

「デモヨォ、ミスタ……。ヤッパ アイツガ イネート退屈 ッテ言ウカ……」


 退屈? 寂しい? そうなのだろうか。俺はフォークを止め、しばし考えこむ。

 ―無味乾燥。そうだ、それがもっともしっくりくる。あれからというもの、なにをしていても砂を食むように味気ないのだ。



「いいから黙って飯食え。いらねーのかぁ? 俺が食っちまうぞ」

「……イラナイ」

「食欲ナイ」

「オレモ……」

「……」



 あの食い意地の張ったピストルズが、好物のラビオリを残すなんて。うんざりしながらも、俺はなんとか六人分の夕食を平らげた。

 ―なあピストルズよお。俺だって食欲があるってわけじゃあねぇんだぜ。



 その晩、ベッドの端で眠りについた俺は、世界一周の旅に出る夢を見た。地中海を船で渡り、アフリカ大陸からアジアへ。とにかく愉快だった。
 記憶が確かなうちに話しておきたくて、彼女を探すも姿はない。リビング、キッチン、バスルーム。便器の蓋を開けてみたって、どこにもいるはずがないのだ。

 その事実に行きあたったのは、がらんとした彼女の部屋を見たときだった。

 寝ぼけ眼で腹を掻きながら立ちつくす俺は、さぞや間抜けだったろう。
 カーテンの閉められた部屋は薄暗く、しんとしていた。荷物はあらかたなくなっていて、残されたのは俺との思い出の品ばかりだ。
 酔って入ったゲームセンターでとったぬいぐるみ。貸したCD。記念日に贈ったアクセサリー、バッグ、口紅。靴まで置いていきやがった(彼女のお気に入りだったはずなのに!)。それほどまでに徹底して彼女の人生からグイード・ミスタという男を閉めだすつもりなのだろう。引き出しの中にはふたりで観た映画の半券や、ふざけて撮った写真がぎっしり詰まっていた。こんなものを捨てずにとっていたのかと驚き、そして驚きは、徐々に愛しさへと変わっていく。もうやり場のない愛しさだ。

 たったひとつデスクに残されたスノードームは俺のように惨めで寂しげだった。雪の舞うサグラダ・ファミリア。スペイン旅行に行ったのは、まだ付きあいたての頃だ。

 楽しかったのは初日だけで、それから先はもう、いったいなんの罰かと疑うほどに険悪だった。どこに行っても喧嘩続きで、最終日なんて俺は、ソファで寝るよう命じられたのだ。チェックアウトのとき、彼女は「あんたとセミダブルのベッドは無理」と吐きすてていたっけ。
 あのときは売り言葉に買い言葉で、もう二度とお前と旅行なんてするもんかと啖呵を切ってしまったが、今になって思えばもっと一緒にどこへでも行けばよかった。喧嘩がなんだ。あの頃と違い、今は金銭的な余裕もあるのだから、ホテルは二部屋でもとればいいし、飛行機はファーストクラスだ。なにもかも当時とは違ったはずだ。どうしてそんな簡単なことにも思い至らなかったのか、後悔ばかりが募っていく。

 彼女が視界にいる生活が当然になっていて、それが失われる可能性があるとは夢にも思わなかった。当たり前の日常がいかに尊いか、失ってから気づくなんて、俺はとんだ愚か者だ。



「ミスタァ、コレ見ロヨォ……」



 途方に暮れる俺に声をかけたのはピストルズだった。六人が力を合わせ、絵葉書を持ちあげている。ずいぶん前に、故郷から彼女が送ってきたもので、裏には青いインクで住所が書かれている。なつかしい彼女の癖字だ。



「行コウゼ、ミスタ!」



 ナンバー1が叫んだのと同時に、俺は家を飛びだしていた。寝癖のついた頭のまま、帽子もかぶらず。それどころかパンツ一枚にTシャツという装いだ。

 タクシーをつかまえる時間すらもどかしく、アジトに停めた車に乗ろうとするがポケットから鍵を取りだすところで思わず頭を抱えた。マンマ・ミーア! そもそもボクサーパンツにポケットなどついているはずもない。



「ゲッ! ミスタ、あんたいったいなにをして」


 タイミングよく通りかかったフーゴが目を見開いている。その格好はなんだ、と言いたげだが無視だ。


「フーゴ! 車かせ!」

「はあ?」



 四の五の言う暇すら与えず、勝手にフーゴのポケットに手を突っこんであさる。残念ながら鍵はない。



「ちょっ、なにするんですか! 気持ち悪いなぁ」

 そうして俺たちが一悶着起こしていると、

「―ミスタ。車なら僕のを使ってください」


 颯爽とあらわれたジョルノはすべてを看取した様子で俺の肩をひとつ叩いた。
 双眸に祝福を湛え、さらにはフーゴが抱えていた書類の束をゴージャスなブーケに変えてしまった。
 どれもあいつが好きな花で、愛の色をしている。



「さあ、これを持って」

「グラッツェ! 助かったぜ!」


 なにしろ今の俺ときたら、花束どころか財布も持っちゃいない、パンツ一枚のただの男だ。


「フーゴ悪りぃ、服脱いでくんね? いや、べつにお前の裸が見たいってわけじゃあねえんだが」

「はあああ?」

「この借りは十倍、いや百倍にして返すからよォ〜……」

「なに言って―うわあああ!」



 フーゴのベルトを緩め、下も上も剥ぎとってしまうそばから、それらを身につけていく。スマートなフーゴのスーツは、これからのことを考えるとあつらえむきだった。



「まったく、信じられないな……。そんなに急いでいったいどこへ行くんですか」


 あられもない格好のフーゴがそんなことを聞く。
 俺は走りながら答えた。


「決まってんだろ!」


 ジョルノの車には当然のようにキーがささっていた。パッショーネのボスの車を拝借する命知らずは俺のほかにいないのだ。


「悪りいなジョルノ! 明日には返すぜ!」



 遠くで、In bocca al lupo(幸運を祈りますよ)と、ジョルノの声が聞こえた。















 相当なスピードを出しているが、この車のおかげか警官は止める素振りすらみせない。


「ミスタァ! モット スピード 出ネエ ノカア〜?」

「これ以上飛ばしたらF1のレースになっちまうぜ」

「デモヨォ……早ク行カネエト……」

「……ミスタァ……オレ、不安ダヨォ…………」



 こいつらが不安ということは俺自身もそう感じているのだろう。事実、さきほどから悪い考えばかりが脳裏をよぎる。

 実家に帰ったのは嘘かもしれない。すでに新たな恋人がいて、その男の家に転がりこんでいるのかも。あるいはどこか、俺の知らない外国に居心地のいい場所を見つけて、そこで新しい人生を始めているのかもしれない。


 ―いや、そんなはずはない。彼女にかぎって。もしそうであれば、正直に打ち明けてくれただろうし。

 ―ほんとうにそうだろうか。たとえ彼女が真剣に話そうとも、先月の俺ならばサッカーを観たまま放屁で返事でもしたんじゃあないか。……。



「クソ……ッ!」


 よりによってこんなときに帽子を忘れるなんて。帽子をかぶらないのはノーパンより無防備な感じがして落ち着かなかった。


 俺はあらゆる不安をかき消すようにアクセルを踏みこんだ。


「ア……ミスタ、コノ曲……」


 ラジオから聞こえるのはあいつの気に入っている曲だった。

 俺も好きなバンドで、よくふたりで歌っていた。この状況でひとり孤独に聞き入るには染みすぎる思い出のナンバーだ。隣に彼女がいてくれたらと、願わずにはいられない。今だけじゃあなく、食事中も、眠る前も、そして、目が覚めてすぐ見える景色は彼女の寝顔がいい。死ぬまでずっと。

 ひたすら車を走らせること半日足らず、窓越しの風景も徐々に変わり、もうじき空が赤く染まり始める頃だった。人々で賑わう都市とは違い、のどかな田園風景が広がっている。時折木々の隙間から古城が顔を出す以外はガソリンスタンドすら見当たらない。



「ミスタ! 次ヲ右ダッテヨォ!」

「おう」



 土地鑑がないので、高速道路を降りてからは案内標識を睨みながら進んでいくしかなかった。
なだらかな丘陵の間に伸びる道は、舗装が悪く埃が舞っている。ジョルノに返す前に洗車しねえとな、などと考えていたときだった。

 道の端をたらたら歩くシニョーラ。農作業をしていたとおぼしき姿だった。減速させ、窓を開けて叫ぶ。



「チャオ!」

「チャオ。……どうしたんだい、えらく焦ってるね」

「恋人を探してんだ。知らねえかな、髪はこんくらいで。つい最近ネアポリスから帰ってきた―」

「あぁ、あの子なら……」


 さすが狭い町だ。町中が彼女の夕飯のメニューまで把握しているに違いない。


「グラッツェ!」


 シニョーラに礼を言い、俺は田舎道を飛ばしていく。もう迷うことはない。彼女まで一直線だ。
 赤い屋根の家々が並び、石畳が続く通りは歴史を感じる佇まいだった。どの家も古いが手入れが行き届いており、庭も美しい。



「ミスタ! ココガアイツノ家ダゼ!」

「わーってる!」


 無意識のうちに足が力んでいたようで、勢いあまってポストをなぎ倒してしまった。

 ポストもろとも脇道に突っこんだ車をそのままにして、助手席に置いた花束をわし掴み、駆けだしていく。
 広い庭の向こう側、ポーチで椅子に腰掛ける彼女がいた。本を手にしているが読書の様子はなさそうだ。抜け殻のように、ただ静かに佇んでいる。

 その姿を見てしまうと、いてもたってもいられなくなって、オレはたまらず叫んでいた。

 どういうわけかこの何年も喉で引っかかっていた言葉が、ピストルズと共に飛びだしていく。





(2020.10/11 個人誌「イタリアーノ」から)


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