「ギャーッ!」


 穏やかな昼下がりに響きわたる声にしてはあまりに物騒だった。お昼寝から目覚めた直後で、ぼんやりしていたわたしも悪い。けれど、元はと言えばコーヒーの入ったカップを床に置くという(床に!)(どうして?!)ミスタの不始末が招いた、過失の割合でいうとわたし1ミスタ9くらいの事故ではなかろうか。  お気に入りだったはずのスリッパは茶色い液体に濡れ、ティラミスのような有様だ。


「ミスタァ!」


 さきほどまで一緒にまどろんでいたソファに向かい、勢いをつけてミスタのお腹に飛びのる。それでも起きる気配がないので頬をぺちぺち叩くと、ミスタはようやく目を開け、わたしの右手のスリッパと左手のコーヒーカップを見くらべ、やがて合点がいったようでやべっ≠ニ悲鳴に似た声をあげた。


「わりーわりー。ピストルズが……いや、野良猫が窓から入ってきてよォ〜、チョット撫でてたわけ。そんときコーヒーカップだけ床に置き忘れちゃったんだなァ〜俺ってほんとマヌケ」

「置き忘れたァ? 飲み物は床に置かないでよ! いっつもだらしないんだから! 飲み物だけじゃなくて服も脱ぎすててるでしょ、あれほんと嫌! それからトイレ使ったら便座は下げてよね! どうしてこんな簡単なコトができないわけ? アンタ小学生ェ?」

「…………」


 こういうときのミスタは黒々とした瞳にいらだちを閉じこめるばかりでなにも言おうとしない。まるで、やかましいわたしの口撃から耐え忍ぶような佇まいだ。それがわたしの怒りをなお一層に膨らませる要因になっているとも知らずに。


「……ま、落ち着けよ。な? ここ座って。茶でも飲んでさ」

「今はゆったりティータイムなんて気分じゃあないの。真剣に話しあいましょう」

「話しあうって、なにを」

「わたしたちの生活とこれからについて」

「オーケイ。わかったよ。んじゃ、まずはお前の車の停め方からな。駐車場に停めるときはバック駐車にしろって言ったデショォ〜? どうしてこんな簡単なコトができないワケェ〜?」

「……なるほどね。そういうつもりなの」

「おいおいまだ終わってねーぞ。無添加だとかオーガニックにこだわってるわりにお前が爪に塗ってんのはなんだ? もしかしてよォ〜カガクブッシツ≠チてやつじゃあねぇのかァ〜? ソレってよォ〜かなりおかし〜よなァ〜?」


 これは宣戦布告だ。賽は投げられた。だとすればわたしも相応の態度で挑むよりほかない。そのようにしてわたしは、Vから始まりOで終わる、この国でもっともポピュラーな罵り文句を投げつけてやったのだった。


「おぉ〜コワ! そんな汚い言葉聞いたことねえぞ」

「そこのケツみてーな顔した男、黙りなさい」

「キャ! 誰がケツ顔ですってェ〜?」


 ミスタの口を閉じさせる手段にはいくつか心当たりがある。なにより効果的なのは泣いてしまうことだが、それはここぞという機会にとっておくとして、今はもっと、こういう場面にふさわしい、ミスタらしく子どもじみた方法がいい。

 わたしはミスタの正面に仁王立ちして、中指を立てた。


「は〜ん?」


 ミスタは子どものイタズラを見たときのように鼻で笑っていた。間抜け面だった。


「中指立てるなんてよォ〜ギャングもコワくてチビっちまうぜ〜」


 言っていればいい。

 わたしは一本ずつ立てる指を増やしていく。一、二、三……ここまできて、やっとわたしの意図を理解したようだ。


「…………オイ」


 四本の指をミスタのまつ毛にふれるかふれないかのところに持っていく。


「やって良いことと悪いことの区別もつかねーのか、あ? てめーはよォ〜……」


 ミスタの目が鋭く光っている。なんというかギャングらしき凄み、のような気配があったけれど、ここで引きさがるわけにはいかない。どんな喧嘩をしても、ミスタがわたしに本気で怒りを向けたりはしないと、わかっていたから。


「ちょっとカワイイ顔してっからって。舐めてんだろ」

「そうよ。ありがとう」

「……ったくよォ〜、調子のんじゃあねーっつの! ほら、仲直りすんぞ!」

「賛成」

「じゃあ握手だ」


 そうしてわたしたちは、人差し指と中指を二本立てた、チョキの形で手を差しだす。
よくスポーツ選手が挨拶代わりにするハンドシェイクだ。
 一時期ストリートバスケにハマっていたミスタに覚えさせられた、ふたりしか知らない、わたしとミスタだけのやり方。


「イェエイ!」


 チョキの指を二回叩きあわせたら、互いの顔の前に拳をかかげて強く握手。手のひらを弾けさせるように外側に放る。そのあと自らの胸を三回叩く……ところを、勝手に改変させて四回叩いてみた。もちろんわざとだ!

 予想どおり、ミスタは血相を変えて追いかけてきた。


「てめッ!」

「ギャハハ」

「待てコラァ!」

「待ちませーん」

「許さね〜ッ! お仕置きしてやるッ! ケツ出せェ!」

「キャ〜!」


 わたしは後ろを振りかえりながら、ベッドに向かって走っていく。「はやく捕まえてよ」という思いを瞳にこめて。





(2019.08/19) 合同誌「光のひみつ」収録予定


< BACK >