今夜こそは、と朝から意気込んでいたせいで、「俺んち寄ってく?」と言ったときのミスタの顔には期待の二文字がありありと浮かんでいた。だいたい食事中も彼女の顔を見つめるのに忙しく、コーヒーに塩を入れ、パスタに砂糖をふりかけて店員を喫驚させたくらいなのだ。彼女を前にするとミスタはいつだって平静を失ってしまう。
 けれどなまえはミスタのどんな失態にも、あからさまな下心にも、眉をひそめたりはしなかった。今夜は三度目のデートだ。彼女もまた、そろそろ先に進みたいと望んでいた。


「あー……クソッ」


 鍵を開ける時間さえ惜しく、焦れば焦るほど手元がおぼつかない。ミスタの肩の上ではピストルズが騒がしく飛び跳ねている。


「ミスタァ! 焦リスギダゼェ〜!」

「シタゴコロ 丸見エ ダト、引カレルンジャネーカ?」

「女ハ ヨユーノ アル 男ガ 好キナンダゾ」

「ッ……てめーらちょっとだまってろ!」


 ピストルズに囃し立てられ、あまりの騒々しさに耐えかねて声をあげてしまった。スタンド使いではないなまえには六人の姿も声も感知することはできない。


「なにか言った?」

「いや……ひとりごと」

「ミスタってときどき不思議ちゃんみたいよね」

「ハハハ……」

「フシギチャンッテ ナンダァ〜?」

「知ラネェ〜、ケド、褒メラレテ ナイヨナァ」

「あーわりぃ、散らかってるな。ちょっとそこ座って待っててくれるか」

「いいわよ。予想どおりって感じだし」

「そ〜言うなよォ。プリンセスが来るってわかってたら部屋中ピカピカにしてたんだケドなァ〜」


 部屋には家を出る直前の慌ただしさがそのまま残されていた。ミスタはなまえに炭酸水のペットボトルを差しだすと、脱ぎ散らかした服やビールの空き瓶を拾いながらこれから≠フ手順について考えを巡らせた。そうして時折、ちらちらと彼女の様子をぬすみ見る。ソファに腰かけて退屈そうに雑誌を眺めているなまえ。そのスカートから伸びる足の艶やかさに、ミスタは目を奪われ、次第に下半身へと血液が集結していく。まずい。まだだ、まだ早いぞbW。高ぶりを抑えようと試みるが、理性に反して腹の底がぐらぐらと煮えたぎってどうしようもなかった。


「ほんとうにいいのよ、気にしないで。むしろミスタの部屋がキレイだとほかに女がいるかもって勘ぐっちゃうもの」

「この家に呼んだ女はお前が初めてだぜ」

「……って、不特定多数の女に言ってるのね?」

「――オイオイオイオイオイ」


 ミスタは抱えていたものをすべて放りなげると(洋服の雨が降り、ビール瓶は割れた)なまえに駆けよって彼女の両手を自らの手のひらで包みこみ、さらにその上から口づけを落とした。唇は手の甲に置いたまま、視線のみ上昇させなまえを見つめる。跪きこれから愛でも語るかの様子だ。ピストルズもミスタに倣って手の甲に口づけている。



「俺って男はよォ〜、なんでかいっつも誤解されちまうんだよなァ。軽薄な男だってレッテルを貼られちまう」

「マァ ジッサイ チョット ユーワクニハ 弱イ ケドナ」と、腕組みをするbP。

「デモ なまえ ニ 出会ッテ カラノ ミスタハ ナンカ違ウゼ〜!」と、bT。


 bTの言うとおり、今回にかぎってはこれまでとなにかが違う、という不思議な確信があった。とにかくミスタは真剣だった。バールで出会ったあの日、まるでなにかに導かれるようにふらふらと彼女に近よって、「チャオ」と声をかけたあの瞬間から。なまえは一瞥をくれただけだったが、ミスタはめげなかった。翌日も、また翌日も。それが使命だとばかりに通いつめ、ようやくひと月後には電話番号を手に入れたのだ。
 それからというもの、なまえを思うと夜も眠れない日々が続いた。彼女と同じ香水をつけた女とすれ違うたび追いかけて顔を確認したし、「女が好きそうな店はどこか」と同僚に尋ねもした。そうした愚かなほどのひたむきさに、周囲はもちろんミスタ自身が驚いていた。恋とは道端に置きすてられた小石につま先がぶつかるような、ほんの些細な偶然であり、たとえうまくいかずとも、また新たなチャンスがあると信じていたミスタにとって、なまえとの出会いはまさに革命だった。


「一度ひとりの女を好きになったら目移りなんてしねぇよ。向こう側からどんな美女がやって来ても目で追ったりしねぇ。なまえの手のぬくもりと、笑ったときに浮かぶえくぼにだけ集中してる。いつだってそうさ。なまえに夢中だ」

「近づいてきた女がモニカ・ベルッチでも?」

「誓うよ。モニカ・ベルッチでも。絶対にすれ違いざま口笛を吹いたりしない」

「「モニカ・ベルッチデモォ〜?」」

「オレナラ 見チャウ ケドナ。彼女ノ スカート ノ 中マデ」と、bR。


 ふたりがほほ笑みを深くしたのはまったくの同時だった。見えない力によって引きよせられたように額をつけあうと、長く深い口づけをかわした。呼吸もままならないキスをしたまま、ふたりはゆっくりとソファに沈みこんでいく。


「んっ……ふぅ、ん、……あっ」

「はぁ……」

「オイミスタァ! ココデ ヤッチマウノカァ〜!?」

「ベッド 行カネーノォ!?」

「オレタチモ ヨーヤク ドーテイ 卒業ダァ〜!」

「毎日 ヒトリデ シテ バッカリ ダッタカラナァ」

「イエェェーイ! セックスダゼェ〜!」

「え〜ん! ナンバー3ガブッタア!」

「ッ……だぁあ―うッッるせェ〜ッ!!」


 勢いよく上体を起こしたミスタは、頭を抱え、もうほとんど絶叫していた。
本命の女とはじめての夜、ただでさえ切羽詰まった心境にくわえて、間近でピストルズに野次を飛ばされたミスタのキャパシティは限界を超えてしまったようだ。


「ミスタ……? どうしたの、大丈夫?」

「ちが、や、ちげーんだよ。ほら。耳鳴りがさ……」

「……ふぅん」

「たまにヒドく耳鳴りするんだよなァ〜気が散ってやんなるぜ」


 前かがみになり、なまえが心配そうにミスタの顔を覗きこむと、服の隙間から胸元がちらりと見えた。その瞬間を、ミスタもピストルズも見逃さなかった。


「ア! オッパイダァ〜!」

「こら、やめろナンバー5!」

「ミスタァ!?」

「いや、あの〜……ホラ、なんかハエがいてよォ〜……」

「あんたハエにナンバーふってるわけ?」

「ま、まぁな。そうだ、殺虫剤取ってくるからよォ、チョット待っててくれるぅ〜?」

「いいけど……はやく戻ってね?」

「もっちろォン!」


 ミスタはピストルズを引き連れてバスルームに向かった。冷蔵庫からありったけの食料を持って行ったので、なまえの目はますます訝しげに細められてしまう。そうとわかっていても、ミスタにはこれ以上最良な手立ては思いつかなかった。ピストルズを従わせるには食い物を与えるのがイチバンいいと、ミスタは常々思っているし、それはあながち間違いではないのだ。


「お前ら、いいか。悪いが今夜はここでおとなしくしてもらうぜ」

「「エェ〜!」」

「ぜんぶ食っていいから、なっ。頼むよ。ご馳走だぜ?」

「ミスタァー、コレモ食ッテイイノカァ〜?」

「げっ! お前それキャビアじゃあねえか! 来週のW杯予選にとって置いたのによォ〜!」

「キャビアッテナンダァ? 食ッタコトネエゾォ」

「ウマイノカァ?」

「ウマソウ」

「あーもう仕方ねーから食え! ぜんぶ食っちまえ!」

「「ヤリィイ〜ッ!」」


 そのようにして、ようやくピストルズをなだめることに成功したミスタは、スキップまじりに彼女のもとに舞い戻った。


なまえチャ〜〜ン、おまたせェ〜」


 ミスタが陽気な声をかけるも、返事はない。ソファには座ったまま穏やかな寝息を立てるなまえがいた。


「あ〜……」


 愛くるしい寝顔を見ているうちに、さきほどまでミスタを支配していた厄介な欲望は消えさって、徐々に体の力が抜けていった。帽子を取り、脱力した体をソファに預ける。なまえの乱れた前髪をいとおしげに指先でよせる。それから、着ていた上着を脱いで彼女の膝にかけてやった。
 想像していた夜には程遠いが、このまま朝を迎えるのも素敵じゃないかとミスタは思う。目覚めた直後、メイクの崩れを嘆くなまえに、とっておきの朝食を用意してやろう。明日は一日中ふたりきりで過ごせたら最高だ。服を着たままでも彼女が隣にいるだけでミスタは十分すぎるほどに幸福だった。


「ミスタァ……ソッチニ行ッテモイイカ?」

「どうした、ナンバー5。お前は腹へってねーのか」

「ウン……オレ、なまえト一緒ガイイ」

「しかたねーなぁ」


 bTは一度ミスタの頭の上でバウンドしたのち、なまえの膝の上にそっと降りた。そうして、彼女の小指を抱きしめるようにして頬ずりをする。子どもが母親に甘えるように。


「コウイウ気持チ、ナンテ言ウンダ? なまえヲ見ルト、胸ガポカポカスル……」

「そりゃあ、愛情ってやつだな」

「アイジョウ……」

「好き、とか。愛してるゥ〜。とか。よく映画で見てるだろ」

「……オレ、なまえガスキ。アイシテル」

「俺も。なまえが好きだ。愛してる」


 ほんのわずか、彼女の瞼が動いたことに、ミスタもbTも気づかなかった。
 今しがた目覚めたばかりの不明瞭な意識のなかで、見えない妖精とおしゃべりする程度の悪癖には目をつぶろうと、なまえは心に誓うのだった。


「クソ! 空き瓶が四本並んでるじゃあねえか! 俺に死ねっつーのかァ!?」


 たとえ悪癖がもうひとつあったとしても。





(2019.02/23 UP)(2019.07/07 修正)


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