ミスタの倦怠期シリーズ Part.2
夕飯までには戻ると言ったのに。あの大嘘つき野郎。
しばらくは奥歯で冷凍ラビオリを噛みくだき、憤慨していたわたしだが、あいつが奮発して買ったワイン(FCネアポリスが初優勝した年代の記念ボトルらしい。次の優勝までとっておくと言っていたっけ)を空け、バラエティ番組を眺め、乾いた笑いを重ねた頃には怒りの炎はすっかりとだえ、自分がどうしていらだちを募らせていたのかさえ忘れていた。
ふたりにとって今日がどんな日か、昨晩久々に感じたわずかな高揚も。
だから、バスルームでのリラックスタイムを終え、さてそろそろ寝ましょうかとベッドに腰をおろした瞬間、けたたましいチャイムが鳴りひびくまでは、やつのことだってさっぱり綺麗に忘れていたのだ。
ドアスコープを確認する必要もなく、その騒がしいチャイムの押し方だけで外に待ち構えている人物が何者かわたしにはわかる。さらに言うと、客人がどのような状態かまでも想像に容易い。
意図的にかけたチェーンを外すと酒臭さと共に酔っぱらいが闖入してきた。有無を言わさず抱きしめられ、勢いで右足の靴が脱げた。わたしは眉をひそめる。
「ただいまぁ〜、ベイビー。会いたかったぜェ〜?」
「はいはい、早く入って」
「ん〜。やっぱ我が家はいいなァ。……キスしていいか?」
「ミスタ、あんたうるさい」
よたよた千鳥足を披露する男にやむを得ず肩を貸すと、いやらしい手つきで腰を撫でられた。
この、泥酔したとき特有の絡みかたは、ミスタの数ある欠点のうち、わたしが特別許せないことの一つだ。ほかにも、濡れたバスタオルを床に捨てておく、とか、三回に一回の頻度で便座を下げない、とか、テーブルに置いたコーヒーが波打つほどの貧乏揺すり、とか、気味の悪い独り言が多い、とか、空想の友達に番号をふってときどきおしゃべりしている、とか、オナラをするとき片方の尻を上げて「なぁなまえ、チョット真面目な話があんだ。聞いてくれ」とわざわざ呼びつけて音を聞かせる、とか、胸の大きい女性を見かけたら反射的に目で追ってしまう、とか、セックスのとき尻を執拗に叩いて一人で盛りあがる、とか。彼の看過しかねる行いを今あげだしたら円周率を唱えるよりきりがない。
「キビシーなァ。でもそーいうとこがそそるぜ、ハニー」
「さっさとシャワー浴びて寝ようね、ダーリン」
廊下を歩きながら背中を優しく叩いてやれば、お返しとばかりに「グェェップ」と強烈なげっぷをお見舞いされた。なんと品があり紳士的なふるまいだろうか。
このままだと愛しさが暴走しそうだから、できれば今夜はソファで眠っていただきたい。心中では罵詈讒謗の旋風が吹き荒れていたが、どれひとつとして喉を通過することはなかった。
どうにかこうにか酔っぱらいを引きずって進むと、リビングに辿りついたと同時にソファの上に倒れこんでいった。
「アー……、無理、マジ無理。も〜頭ぐるんぐるん回ってボタンも外せねぇわ」
「あんたが着てる服にボタンは一つもついてないけど?」
「なぁ、脱がしてくれよ、頼むって」
「おやすみ」
「オイオイオイオイ〜なまえチャン〜?」
往生際悪く伸ばされた酔っぱらいの手を払いのけて寝室へ向かう。
太陽がてっぺんに昇るまでゆっくり眠っていられるミスタと違って、わたしは堅気の職に就き、まっとうな暮らしをしているのだ。本来ならすでに寝入っていてもおかしくはない時間である。
オイオイなまえよォ〜なまえちゃんよォ〜、チョット冷たァすぎねぇかァ〜? つめてぇのはビールとピスタチオジェラートだけで十分なんだよォ〜俺が求めてんのはホッカホカの愛、いやお前だけの愛、アモーレ。わかる? どんだけ俺が愛してんのか。わかってねぇンだろなァ〜……アハッ。っつか、メシなに食った? 冷蔵庫に新しいミルク入れといてやったの俺だって知ってるぅ? 昨日の帰りスーパー寄ったの、俺ェ。俺が買ったミルクオレ、なんつって〜! ゲハハハ!
彼のギャグは酔いの程度に反比例して熱を失い、寒々しい代物へ変わってゆく。冷蔵庫の中身とわたしへの愛を同じ皿に並べて語る恋人に辟易しながら、顔を枕に押しあて眠気を待った。
やがて、彼の下品な咆哮が止んだのと引きかえに、耳馴染みのある旋律が聞こえ、それがビヨンセの名曲であることに気づく。
服は脱げないと駄々をこねるくせに、音楽プレイヤーを操作することは可能らしい。
「ミスタぁ〜!? もう少し音下げてよぉ!」
この調子で彼の戯れに付きあっていたら朝になってしまう。憎しみいっぱいの舌打ちを響かせ、ベッドから半身をもたげた、そのときだった。
ドアの隙間から投げこまれた、なにか。形からしてボールだろうか。上半身だけ起こし、覗きこむと、床に彼のトレードマークでもある大事な帽子が丸められた状態で落ちていた。
帽子から始まってシャツ、ベルト、ボトムスと次々に身につけていたものが飛んでくる。散らばった衣服から察するに、おそらく彼が今身に着けているものは下着ぐらいか。いったいなにがしたいのか、問いただす気にもなれなかった。
それに並行して、ミスタのイタリア語訛りばりばりの英語で、すべての独身女性へ向けた、かの名曲が歌われていた。
曲を聞いているうちに、この件とは無関係の一方的な怒りが湧きあがり始めたわたしだが、すね毛まみれの脚がマドンナのごとき身のこなしで登場したときは、迂闊にも噴き出してしまった。
「Hey、ベイビー?」
思わせぶりな所作で脚を曲げ伸ばしすると、つま先でビートを刻みながら徐々に彼、いや、彼女と呼ぶべきか、とにかくその全貌が明らかになっていった。
「ちょっと、なにその格好っ!」
満を持してあらわれた、靴下とボクサーパンツのみになった彼が、どこから持ってきたのかわたしのブラをスカーフよろしく首に巻き、ビヨンセの名曲に合わせて腰をくねらせ踊り狂っている。
この光景をJay―Zが見たら、憤怒してミスタに宛てたディスソングをその場で作詞作曲してしまうことだろう。ワッツァップ、ビッチ、このファッキンイタ公テメーのケツにくっせぇチーズとマンマのミルクをつめこんでオーブンに入れてやる、マダファカ。
外はカリカリ中はとろっと焼きあがった、美味しそうなミスタを想像してみる。赤ワインにぴったり合うに違いない。
「セクシーだろォ?」
「……アンタってほんとうに馬鹿ね」
「でもそんな俺が好きなんだよなァ、お前は」
大変癪だが、それが事実だった。
パンツ一枚で、人のブラを振りまわし踊るような彼が好きだった。きっと五年前のわたしなら、彼に倣って服を脱ぎ、全裸で頭にパンツをかぶり踊っただろう。『これから先のこと』なんて。明日のことすら考えていなかった。今が楽しければいいじゃない。仕事は休もうよ。ともすれば自らそう提案したかも。
DJミスタが今宵セレクトした一枚は、いつだったかわたしが購入したアルバムだったようで、さきほどとは打って変わり落ちついた曲調がしっとりした夜のムードを作りあげた。
「あ、わたしこれ、すごく好き」
「俺も。なぁ、踊ろうぜ。エリザベスとダーシーみてぇに」
「誰?」
「プライドと偏見だよ、オメーも一緒に見ただろーが。ミラノの映画館で」
「はぁ? 嫌よ、近所迷惑だし。お願いだから、早く寝て」
可愛く懇願したつもりなのだが、彼の心はちっとも動かなかったようだ。
それこそ十八世紀の社交界を彷彿とさせる身のこなしで、うやうやしくお辞儀をして手をさし出すものだから、思わず手のひらを重ねてしまった。
ミスタのダンスはめちゃくちゃで、ステップもなにもあったものではなく、わたしは何度も足を踏まれそうになった。観念してただゆらゆらと音に身をゆだね、定位置である彼の鎖骨のくぼみに鼻を当てる。こうして抱きあうたび、わたしの落ちつける場所は世界中探してもここだけだと真剣に思う。彼の居場所もわたしの胸のなかだといいのだけど。なんて、らしくもないことを思う。
「ふんふん……ふんふふん」
メロディをなぞるミスタの声が、不思議な切なさで満ちていて、瞼を閉じれば彼と出会ったあの場所に戻れそうな気がした。わたしはまだ目のふちを黒々と囲むメイクで、その年流行色だったネイビーのパンプスを履いていて、彼は彼で妙な柄の帽子をかぶっていたっけ。
「今日、真っ直ぐ帰らねーで、悪かったな」
耳元で囁かれた言葉に、一瞬目を見開く。期待した自分が馬鹿だったのだ、彼になにひとつ落ち度はない。すべてを看取し包みこむ優しい声と、背中に当てられた手のひらの温もりがわたしの心に直接届いて、目頭が熱くなった。
「……別にいいよ。なんとなくわかってたし」
「記念日、忘れてたわけじゃあねぇんだぞ」
「しってる」
硬い肩に顎を乗せて答える。努めて平静を装い声を発したのだけれど、彼の耳にはどう届いたのだろう。
「ちげーんだって、いつか、いや今日も言うつもりだったんだ。花だって買った」
「いつか? わたしおばあちゃんになっちゃうよ」
「カワイーバアさんになんだろな、お前」
「馬鹿」
「……好きだぜ。どんなにシワが増えても、キスしたとき入れ歯が取れてもな」
わたしだって。
ミスタの帽子の下が荒地になっても、飼い犬とわたしの見わけがつかなくなっても。性懲りもなく鍵を開け、迎えいれてあげるんだから。
胸の内の言葉を口にする代わりに、思いきりジャンプして抱きつき、額と額を突きあわせ、昔失ったなにかをたしかめるように口づけた。
薄い壁の向こうから隣人の怒鳴り声が聞こえてきたけど無視した。毎晩下手くそなギターの騒音に手拍子をくれてやる寛容なミスタが、たまに管を巻いて帰る夜ぐらい目を瞑ってあげて欲しい。いつになっても指輪をくれない彼を、今夜だけはわたしも許すから。
(2015.01/06 UP)(2019.07/07 修正)
< BACK >