ミスタの倦怠期シリーズ Part.1







 ミステリーサークルさながらの大胆な寝癖がついた後頭部を恨めしく眺めて、またこの時期がきたか、とため息をつく。


「ミスタ」


 呼んだところで振りかえるどころか返事が返ってくることはない。男たちは四年に一度、デートも仕事も放りなげてテレビ画面と熱い口づけを交わすのだ。かつてまだわたしたちが、目が合うたび愛してると囁きあっていた頃には、数日連絡がつかずどうしたものかと半泣きになって彼のアパートの戸を叩いたのだが、今ではボールの行方に一喜一憂し騒ぎたてる彼の声が耳ざわりなくらいだ。寝癖のついた旋毛も、少し出っ張ったうなじの骨も、なんだか得体の知れないエイリアンのそれに見えてきて、わたしはそっと目を背ける。
 どれほどロマンチックな出会いをして一晩中愛を語りあった恋人たちも、馴れあいと日常に潜む些細な諍いが二人を見知らぬ他人に変えていく。  素顔を見せることに抵抗がなくなり、裸を晒すことに恥じらいがなくなり、酸欠に陥るキスの嵐は窒息しそうな罵倒の竜巻に変わってしまう。愛してるの代わりに放屁で相槌されたりなんてこともざらだ。
 これはマンネリでも倦怠期でもない、熱されたガラスが冷えて美しい輝きを放つのと同様に、わたしたちも新たな段階に移行している最中なのだ。そんなふうに、自分に言い聞かせることでこの関係を保っているように思う。
 今日も今日とて土足のままソファに寝そべりテレビに噛りつく男の背中に殺意を送りながら鍋にパスタを入れる。昨日と同じミートパスタだけれど、昼夜を問わず球蹴り遊びにご執心なお祭り男にはお誂え向きだろう。


「ミスタ〜夕食できたけど〜?」

「……」

「ミ〜ス〜タ〜?」

「ん、……あぁ」

「食べないの?」

「おう、今行く」


 いっこうに腰をあげようとしない無防備な背中に盛大な張り手をおみまいしてから皿をテーブルに運ぶ。「今日もミートかよ」という小言は無視した。


「んな怖い顔すんなって。ガットゥーゾみてぇだぜ〜狂犬チャン?」

「誰がさせてるの」

「へいへい」


 席に着くなりつけあわせのポテトに塩を振り、それと同じくらいのぞんざいさで十字を切って形ばかりの祈りをささげると、ミスタはフォークを握りしめ、アニメーションのような勢いでパスタを巻きつける作業にとりかかった。
 咀嚼している間もサッカーの試合が気になるのか、隙を見てはテレビに目を向けて気もそぞろだ。
 一人早食い選手権のようにパスタを啜ると、ミスタはあっという間に完食して立ちあがった。どうやら後片付けは忘れたふりをしてやり過ごすつもりらしいがそうはさせない。


「ちょっとぉ〜。今週はミスタが夕食作る番だったでしょ。せめて後片付けくらいしてよね」

「悪りぃ、今日はパス」

「昨日もそう言ってた」

「W杯だぜ大目に見てくれよォ〜今夜の一戦にこの国の命運がかかってんだって」

「アンタが観たって観なくたって結果は変わらないでしょ」

「ンなこたァ〜ねぇぞォ? 俺ってばかなりラッキーだしィ〜? このグイード・ミスタが最後まで観た試合は高確率で勝つんだ」

「初戦ってイングランドでしょ、勝ち目ないんじゃない? どうせ今回イタリアは死の組なんだし」

「い〜や、勝ち目ないどころか圧勝できると思うぜ。勢いってのは、ときに運よりも大事なんだ」

「あっそ」

「あっそ!」

「……ハァ?」

「ハァ?」

「……」


 ミスタはそのへんのチンピラみたいに暴力をふるったり怒鳴りつけることは決してしないけれど、たまに、ときどき、しばしば、このように子どもじみた悪ふざけに興じることがあった。
 わたしの言動を真似ているつもりなのか、わざとらしく声を裏返らせて、リモコン片手にクネクネ上体を揺らして喋るその様は、夜な夜な歓楽街の路地裏でたむろする娼婦のようだ。シャネル5番の香りが漂ってきそうな横顔を眺めていると、いらだちは緩やかにしかし着実にわたしの胸の内に蓄積されてゆく。


「……ね〜え、わたしの知りあいのミスタトリーチェっていうクソ野郎の愚痴言ってもいい?」

「オホホォ〜? いいわよォ〜?」

「そいつね、ほんっとサイテー野郎なの〜。息を吐くように約束やぶるし、自分勝手で傲慢で、夜なんて象みたいなイビキかくの。トイレの便座は三回に一回あげたまま出るからね〜信じられる〜?」

「おうおう」

「落ちこむと一日中暗〜い部屋にこもってレディオヘッド流して悲しみに浸ってんだけどね、あれ、構ってオーラ出ててちょうウザイ。昨日なんて洗濯機まわしておいてって頼んだのに、アイツ忘れてサッカー観てたのよ? なにも洗濯板でごしごし洗ってって頼んでるわけじゃないんだから、ボタンひとつくらい余裕でしょ。ばっかみたい。しかも飲んだくれて帰ってきてシャワー浴びずにソファで寝てたの、それも靴履いたままね? 不潔でしょ?」

「そりゃあサイテーだなァ〜。でもルックスは男前なんだろォ〜?」

「まっさか〜。見た目も中身と一緒で下品なクソ野郎だよ〜? いつもダッサイ帽子かぶってるしぃ〜」


 わたしは彼がファッションに、こと帽子選びには確固たるプライドとこだわりがあると知っている。だからこそ、ここぞというときにこきおろしてやるのだ。
 効果はてき面だったようで、これまでは幾分余裕のあった彼の表情はぴたりと静止し引きつった笑顔の下の不機嫌さを隠しきれていない。


「……ほォ〜?」

「ほォお〜?」


 礼儀を欠いた態度には礼儀を欠いた態度で応じるのがわたしの流儀だ。そちらが幼稚な遊戯に興じるつもりなら、わたしも悪意あるパントマイムで対抗しようではないか。
 いらついたときの鼻をひくつかせる癖までそっくり真似て挑発する。我ながら今のわたしは、なかなか傑作だと思う。
 わたしと同じくらい、あるいはもっと意地の悪い笑みを浮かべたミスタトリーチェは、鼻をひくひくさせながらこちらを睨みつけている。互いに間合いをはかりつつ沈黙で相手を否定するのが二人の喧嘩のパターンのひとつだ。
 部屋にはつけっぱなしのTVから放出される、彼の大好きなサッカー中継だけが虚しく響いている。
 右サイドからクロスが上がった! ヘディング! 決めたぁ! そんなふうに、解説がいっそう熱のこもった声をあげた瞬間、彼の手がひょいとこちらに伸びてきて、わたしのショートパンツに指を引っかけた。
 なんのつもり? 半分言いかけた非難の声を遮って、彼が言う。


「――そういうオメーはよォ、いったいどんなセンスいいパンツ履いてんだァ?」

「はぁ? ソレ今関係ないでしょ……っちょ、っと、ミスタ、アンタなにして――きゃあァッ!」


 缶コーヒーを開ける手軽さでいとも容易くボタンが外される。ニュートンの林檎よろしく、わたしのショートパンツも万有引力の法則にしたがって腰からずり落ち無様な音と共に床へ着地した。


「ギャッハッハ! おっ、今日のは黒か! これ好きだぜ!」

「〜なっっに! す! ん! の! よッ! ヴァァカ!」

「カマトトぶんなよ、今更じゃあねぇか」

「さいっっってぇ〜!」


 人の神経を逆なでするお得意の下品な笑いはわたしの全身の血液を煮え滾らせるには十分すぎた。
 怒りのあまり震える指先で床に落ちたショートパンツを引きあげる。許さない。今度ばかりは絶対に許さない。たとえイエスがお許しくださってもわたしが直々に罰してくれる。
 たしかな復讐を胸に誓い、いまだ目の前でギャハギャハ笑いころげる男に向きなおる。そのままの状態で背中に壁がつくほど後退する。右足を踏むこむ。
 全速力で駆けだしたわたしを見てミスタがなにか言ったけれど聞こえなかった。時すでに遅し! 腹くくれグイードミスタ!


「うぉおっ!」


 ミスタをソファに押し倒し馬乗りになったところで、わたしは自身の敗北を悟った。

 ――これは罠≠セったのだッ!
 おそらく、パワー勝負に持ちこまれてはわたしに分がないことを見越して、あえてわたしが飛びかかるほど激昂しそうな幼稚な愚行に打って出たのだろう。
 このとおり、わたしは彼の帽子をひったくり髪を抜く地味な攻撃しかできていないのだから。


「オイオイやめてくれよォ〜、俺のちょ〜クールな髪がくずれちまうだろォ」

「サイテー。ムカつくからできるだけ髪引っこ抜いてやるわ」

「イテテ、こら、そのへんにしとけって」


 予想どおり、体勢はゆっくり逆転させられた。額にいらつくほどやわらかいキスが降ってきて、往生際悪くあばれるわたしの両手を、力強くも優しいミスタの手がやんわりと押さえこむ。
 ミスタはもどかしい手つきでシャツをたくしあげ、ブラの色を確認するとにやりと笑った。ブラとショーツが一緒の種類ならセックスOK、これは同棲し始めてからわたしたちの間で暗黙の了解となっている。


「なぁ、俺の彼女のなまえっていう馬鹿女の愚痴聞いてくれるか?」


 鎖骨を撫でながら囁くミスタの声は、なんだか妙に甘くて、やさしい。耳がむずがゆくなった。
 彼の手は徐々に降下して、胸、わき腹、やがて臍の上にたどりつくとゆるやかに停止した。臍の周りに沿って指の腹でぐるぐる円を描き、ときどき足跡をのこすようなキスを落としていく。


「んっ……、なまえちゃんでしょ、知ってるよ。すごく美人だよね」

「まぁな〜、たしかに顔はいい。けど貧乳だぜ?」

「はぁア? ミスタ、あんた絶対許さない、もうほんっっと怒ったからっ!」

「まぁ聞けって」

「ひぁっ……っ! やめてよ、く、……くすぐったいからぁ〜っ!」


 さきほどまで漂っていた恋人同士の空気が一変して、子どもがじゃれるときのくすぐり方に変わった。
 わたしの体を知りつくしている男の手によるくすぐりは、もはや新手の拷問だ。この手にかかればホシに捕らえられたエリートFBI潜入捜査官ですらあっさり口を割ってしまうことだろう。


「そいつさ、帰ってくるなりピーヒャラピーヒャラ喚きやがってよォ、なんやかんや難癖つけては当りちらすんだ」


 身をよじって悶絶するわたしを無視して、ミスタはひとりで話を続ける。黒々とした双眸がやけに真剣なのが少し怖かった。
 この状況で別れを切りだされたらどうしよう。まさかそんな。だってこれじゃ、あまりに滑稽すぎる。


「ぎゃあっははは! も〜や〜め〜て〜よぉ〜!」

「この前もよぉ、新しくできたパンケーキのお店行かない? っつって、朝っぱらから一時間並ばされたんだぜ。こんなちっせぇ犬のクソみてぇなパンケーキにはよろこんで20ユーロも出すくせに、俺の靴下は三足セット5ユーロのやつ買ってくるんだぜ、あいつ。信じられるゥ〜?」

「あ、あんただって美味しい美味しい言って食べたじゃない! ばかぁ〜!」

「インテリアやらなんやらこだわるわりに悪趣味なぬいぐるみ集めてやがるし、とにかくウルセーのなんのって。ちなみに飯もまずい」

「……なんですって?」

「ッでもよォ〜、不思議とどんなムカつくこと言われても、夕飯が三日連続デリバリーの中華でも、同点の試合で前半あと五分ってときに飯に呼ばれたって、嫌いにはなれねぇんだ。むしろどんどん惚れちまう、自制が効かねぇ。そのしわが寄った眉間すら愛おしいんだ」


 深々としわが刻まれた眉間を慈しむようになぞられると、あんなにも煮えたぎっていた憤りは、消火器で鎮火された小火みたいに瞬く間にさめていった。


「な、お前もそうだろ?」


 とびきり甘い声音がわたしの鼓膜を優しくくすぐる。

 指の背で頬を撫で「ん?」と小首を傾げるミスタは、わたしを真顔でアモーレと呼び、子猫ほど軽いショルダーバッグを率先して持ってくれた、あの頃の彼と重なった。


「……その、なまえって子、すっごく愛されてるんだね」

「あぁ、めちゃくちゃにな」

「うらやましいな」

「だろォ〜?」


 観客なしの、二人きりの茶番劇の滑稽さにひとしきり笑ったあとは、長く深いキスをした。思いのほか体温の低い彼の舌はわずかに冷えている。
 薄目をつむっていても感じる視線に負けて瞼をあげると、数秒前とは別人かと思われるシリアスなまなざしと衝突した。
 ときどきわたしは、彼の瞳の深淵に宿る、闇に似た色を持つ影に戸惑ってしまう。そこからはなにも見いだせず、映るのは自分自身の姿ばかりで、漆黒の裏に潜む感情が愛なのか諦観なのかわからない。見つめれば見つめるほど、どうしようもなく不安になる。彼も目を瞑ってくれればいいのにと心底思う。
 願いとは裏腹に、ミスタはけだるげなジャンキーみたいに両目を薄ぼんやりと開いたまま答えをくれない。
 ほんとうはずいぶんと前から、なにかが崩れ落ちそうな予感がしていた。
 なんの前ぶれもなく、彼の私物が一切合財消えていたらと想像して、アパートの鍵を開けるのがおそろしくなったのはいつからだろう。小さな喧嘩のたび、鏡のような黒目に映しだされる自分の醜さに気づいたのは。
 わたしにはわからなくとも彼にはなにもかもお見通しのようだ。すぐにわたしの憂いを看取して、いつものお調子者の笑顔を浮かべてとりつくろう。心配するなと言いたげな手つきで頭をなでてくれる。その優しさのすべてにしたたかに胸打たれ呼吸がままならない。
 いっそ言ってくれればいいのに、お前のような神経質な女は嫌いだと、愛想が尽きたから出て行ってくれと。そうすればわたしだって諦めがつくのに。愛しているのにひどく苦しい。


「どした?」

「ん、……」

「なんか元気ねーだろ。お前の唯一の取り得じゃあねぇか」


 いかにもふざけた調子で笑えない冗談を飛ばしながら、ミスタはわたしのシャツの裾に手をかける。わたしはそれが彼の思いやりだと知っている。知っているから服のなかに忍びこもうとした手をぴしゃりと跳ねのけた。
 あともう少しだけでもいいから、彼と、この生温く幸福な、ままごとのような暮らしを続けたかった。


「じゃあミスタ、皿洗いよろしく」

「ア〜。そこはシビアなのね」

「もちろん。ミスタの彼女はすっごく愛されてるから、そのぐらい頼まれなくたってやってくれるんだよ」

「お〜まかせとけェ〜」

「お〜まかせたぞォ〜?」


 ちゅっと額にキスを残して立ちあがったミスタの背中は、出会った頃の、目が合うたびに情熱的なキスを交わしていた、男らしくておおらかなそれに違いなかった。
 がちゃがちゃと皿やらフォークが奏でるダイナミックな協奏曲にうっとり聞きいりながら、明日の夕飯について思案する。
 そうだ、久しぶりにトリッパにしよう。彼が好きなトスカーナ地方の白豆と一緒にぐつぐつ煮こむんだ。まだ可愛くてしおらしいわたしが鼻歌まじりにしていたように。

 そうすればきっと、かつてイタリア代表が見事優勝を成し遂げた、あの日のふたりに戻れるはずだから。





(2014.06/25 UP)(2019.07/07 修正)


< BACK >