まっさらの、なにひとつ計画も目的もない旅行が、こんなにも解放的で清々しいものだとは思わなかった。レンタカーは古いイタリア車だし、いつエンジンが止まるかと最初は肝を冷やしたけれど、今では目前に広がる美しい景色を目に焼きつけることに忙しくてそれどころじゃない。
「ねぇ、これからどこに行くの?」
雲ひとつない抜けるような青空と海の境界線は、その眩ゆさに目を細めても識別できないぐらい一体化している。
わたしたちを乗せた真っ赤なオープンカーだけが、いつまでもこの場に溶けこめず浮いている。それほどまでに、周辺には観光客どころか、対向車線をすれ違う車すらもまばらだ。
「ベリッシモいいところさ」
「やけに断崖絶壁を進むのね。もしかしてわたしを殺して海に沈める気?」
「あぁ、それもいいな」
急カーブの多い下り坂を進み続けると、徐々に道幅は狭くなり、やがてこじんまりとした浜辺にたどり着いた。白砂が太陽の光を反射して、そこかしこで星のようにきらめいている。
どうやら相当な穴場のようで、人の気配は皆無だ。穏やかな波音の、その静けさのなかに、時折海鳥の声が響いている。
「うわぁ、すごい……!」
「だろ」
「――メローネ、ちょっと待ってよ! 水着は?」
「アンタ、泳ぎは得意か?」
「え?」
砂浜に足をとられ、もたついているわたしのことなどお構いなしに、メローネは身に着けているものを脱ぎ捨てていく。シャツもハーフパンツも、下着すらも取りさって、とうとう全裸になってしまった。
会うたび様々な一面を見せつけられてきたけれど、こんなにも無防備で瑞々しい無邪気さを目の当たりにしたのは初めてだ。砂まみれになった洋服を拾いあつめながら、わたしの知らない、まだあどけなさを残した横顔を想像してみる。
きっと頭のいい子供だったのだろう。なんでもそつなくこなせる性質は生得のものだと本人も言っていたし。どのようにふるまえば可愛がられるのか熟知していてそのくせ不意にとんでもない暴挙に出て、大人たちを卒倒させてしまうタイプだ。
「向こう岸の小島まで競争しようぜ」
言うが早いか、ばしゃりと飛沫をあげて海に飛びこんでしまった。
わたしはつかの間ためらって、再度ひと気がないことを確認してから、おずおずと服を脱ぎ、白すぎる背中を追った。
陽光が降りそそいでいた真昼のビーチも、夜になれば表情を変え、また違った美しさで満たされるのだろう。むやみな灯りがない海辺には幾多の星が瞬いて、控えめに浮かぶ月が、海面を優しく照らすのだろう。そんな景色をふたりで見たいと思った。
しかし実際のところ、わたしたちは夕日が出始めたころにはもうくたくたで、さらに宿も探さなければならなかった。
いつかまた来ようね、今度は夜に。お互い気休め程度の口約束を交わして、たよりない街灯のもと車を走らせた。ところがいくら探せどもそれらしき建物は一向に見あたらない。それどころか、辺りはワイン用のブドウ畑が延々と続くかのように思われた。
もしかしたら今夜は車中泊ではなかろうかと、絶望するわたしの横でハンドルを握るメローネは「なんとかなるだろ」と、終始平然と笑っていた。その頃わたしは無計画な旅などという明らかに馬鹿らしい誘いに乗ってしまったことや、この男と付きあうようになってしまった経緯までさかのぼり、半ば本気で後悔していた。
そんな状況であったから、夜道を走らせること数時間、たどり着いたモーテルは変に安くてあまり清潔ではなかったし、シャワーの水圧は霧雨のようであったけれど、砂漠のなかにぽつりと存在するオアシスのように思えるのだった。ありがとうHOTELサンシャイン、いやサンシャインモーテルだったっけ。
「背中の皮がぜんぶ剥がれちまいそうなくらい痛てぇよ」
「だから日焼け止めクリームを塗りなさいって言ったのに」
「バカンス行って剥き卵みたいな白さで帰ってきちゃあ格好がつかねぇだろ……あたっ! もっと優しくしてくれよ!」
案の定ひどく日焼けしたメローネの肌を、女性ものの化粧水でいたわってやる。誰も他人の、それも野郎の肌なんか見やしないだろうに。この男は無頓着なくせに妙なところで気をつかう。そのうえ頑固だから手に負えない。
「どうしてメイクを落とさないのさ」
「もう落としたでしょ」
「嘘だ。薄っすらしてるだろ」
「……」
なんて目ざとさだろう。これがメローネじゃなくほかの男だったら、完璧に騙しおおせたはずだ。顔に熱が浮かぶのを感じて、ますますいたたまれなくなる。
化粧気を見ぬかれたことよりも、素顔を見せるのを臆した思いを悟られたことの方がよほど恥ずかしかった。そんなわたしの心中まですべて見透かしたとでも言いたげな面持ちで、メローネは得意げに笑う。
「アンタはすっぴんも可愛いよ」
こんなふうに真正面からぶつけられたら、どんな武器でもって応戦すればいいのかわからなくなる。苦しまぎれに嫌悪感をありったけこめて睨みつけてみるけれどそれすらもゆらりとかわされて、かえって「怒った顔もベネ」なんて愚弄されてしまった。なんたる。なんたる屈辱。
「見たこともないくせに」
「わかるさ」
「嘘ばっかり」
「いいからこっち来いよ。ほら、早くおいで」
包容力の欠片もないやつが「おいで」とか言っちゃって。三日月にかたどられた唇もあいまってメローネの「おいで」はそこはかとなく不気味で、うさんくさい。妖しくも甘い香りに誘われたカブトムシみたいに、わたしはふらふら引きよせられていく。
「なんかこのベッド狭い」
「シングル以上、ダブル未満ってとこだな」
「つまりセミダブルってこと?」
「さぁな。チェックインのとき俺はちゃんとダブルって言ったぜ」
「ねぇ、メローネって寝相悪い?」
「いーや、俺はお行儀いいよ。なまえと違って寝ながら拳を振りまわさねぇし」
「そんなことしないって」
「どうかな。俺の読みではかなりの暴れん坊だ」
「すごく大人しいよ、賭けてもいい」
「オーケー。じゃあこっから先は俺の城ってことで」
眠っている間、体がふれあわないようにしようぜ、先に出たほうが負けな。
そんなことを言いながら、人差し指でするりとシーツに線を引く。
「ねぇ、もしその境界を越えちゃったら……?」
「一度につきキス一回」
「ん」
今できたばかりの線の先へ足を伸ばして、試すようなまなざしを送ってみる。境界線の向こう側にある瞳には喜びが湛えられていた。
「一回な」
がっしりと足首を掴まれて、そのまま引きよせられるかと思いきや、唇はわたしの太ももの内側をなめるように下っていった。濡れた唇は生温くて少し湿っている。なんだかナメクジが這っているみたいだ。
「……わっ! な、なにしてるの」
「どこにキスするとは言ってないだろ」
「やめてよ、くすぐった……しかもそれ一回じゃないでしょ!」
たいして手入れもしていないくせに艶やかなメローネの髪が、動きに合わせて肌の上をかすめていくものだから、くすぐったくて仕方がない。この細腕は見た目より力が強く、身をよじって抵抗したけれどびくともしなかった。
その間も、脚へのキスはとまらない。
「アハハッ、ちょっとメローネ、くすぐったい〜!」
「頼むからもう少し色気のある声をだしてくれよ」
「ギャハハハ〜! 無理無理〜!」
「そんなガキみたいな悲鳴あげられたら、普通の男は萎えちまうぜ」
「アッハハハハ! やめ、やめてよォ〜! アハハ〜」
「なんだよ、いつもしてるだろ、このくらい」
「日焼けした肌に髪があたってくすぐったいんだもん〜!」
「なまえも日焼けしてんのか? 全然変わってねぇがな」
「そりゃあメローネに比べたら大したことないけど……」
「明日は日焼け止めクリームなんて塗るなよ。俺とオソロイの小麦肌になろうぜ」
「いやよ。そんなことより明日はどこへ行くつもり?」
「さぁ。どこだろうな」
無計画の旅と銘打ったからにはとことんそれを突きとおす気らしい。わたしは段取りや秩序を重んじるタイプではないから、行きあたりばったりのバカンスというのもなかなか楽しいものだった。安心して眠られるベッドさえあればの話だけど。
「ねぇ、この近くにカンノーロの美味しいお店があるんだって」
「へぇ。見つけられるといいな」
「見つける気はないのね」
「なんたって無計画だからな」
明日への期待に胸躍らせながらも、頭の隅ではまったく別の考えに囚われていた。はたして明日もまたこの楽しさが続くだろうか、という不安。これだけ聞けば恋する少女の悩みに思われるかもしれないが、わたしの焦燥は結構切実だ。気分屋のこの男が二日連続でご機嫌だなんて稀なことだし。もしかしたら翌日は別人みたいに豹変してしまって、なにを見ても無表情で、話しかけても知らんぷりされてしまうかもしれない。
だってメローネは、引いては寄せるさざ波のようなひとだから。なんて言ったら笑うだろうか。たぶん笑うだろうけど。でも、我ながら言い得て妙だと思う。
呼吸が重なるほど近よったと思ったら、肌の上をさらさら撫でながら遠のいていく。太陽を翻弄させるためにあるような髪も、キラキラと光る水面に似ている。その心地よさに立ち止まっていると、足だけがずぶずぶと砂浜に沈みこみ終いには身動きが取れなくなってしまう。
そんな危うい距離感が、時々どうしようもなくわたしを不安にさせるのだ。
特に今日みたいな、格別楽しかった一日のあとは。
「なまえ」
「……なに?」
「どうかしたか。妙にシリアスな顔してるぜ」
「別に……ただ明日のことを考えていたの」
「大丈夫、明日もディモールト楽しいところへ連れて行くさ」
どうか明日になってもこの男が背中を向けたりしませんように、今日の続きみたいに陽気で近しいメローネでありますように。
でもそんな祈りはシーツの海に溺れていくうちに泡となって消滅してしまうような気がした。悲しいけれど、わたしにはこの男の人格を矯正させるほどの影響力はないから。
だったら今日ぐらいは、わたしの知っているただひとりのメローネでありますように。せめて、この夜が明けるまでは。
そもこさんへ(2013.07/12 UP)(2019.07/07 修正)
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