ぼんやりとした意識のなかで、最初に見えたのは誰かの靴だった。裏返しになって、床に落ちている。ホルマジオのものだろうか。片方しかなかった。
次に見えたのは、床に転がる安酒の瓶。それから、吸殻で山盛りになった灰皿。食べ散らかしたピッツァの欠片。酔い潰れて床に寝転ぶ屍のような仲間たち。わたしはソファに身体を横たえたまま、アジトをひととおり眺め、溜息をつく。
どんちゃん騒ぎの後はいつも、静けさとともに大量のゴミが散らばっている。
明日、二日酔いの体に鞭打って後片付けするのはつらいだろうし、今のうちに足の踏み場くらいつくっておこう。
そうして前進しかけたわたしの足は、冷たいなにかによって妨げられた。足首を掴まれたのだと気づいた頃には、すでに逆の足がもつれ、床に倒れこんでしまっていた。
「――あいたっ!」
「……」
「……なにすんのよ、メローネ」
ぬるぬると蛇のような身のこなしだった。ソファーから這い出てくるメローネを見て、わたしはひとり納得する。変態という生き物はどこにだって潜むことができるのだ。
「いきなり掴まないでよね。転んじゃったじゃん」
「ハハ、悪かったな」
床にぶつけた鼻の奥はじんじんと痛んでいる。もしかしたら血でも出てるんじゃないかと、こわごわ鼻の下にふれてみたけれど、そこは若干熱を持ちながらもさらりと乾いていた。
わたしがそうする間も、メローネは我関せずといった様子で笑っている。せめてもうちょっと心配するふりぐらいはして欲しいものだ。
「どこに行くんだ?」
「キッチンだけど」
「もう少しここにいろよ。オレと一緒にさ」
「なんで?」
「いま、何時か知ってるか? 26時。つまり、もう新しい年なんだぜ?」
言われるがまま、壁時計に目をやる。たしかに短針は2の数字にひっかかっていた。
「つまり……それでぇ?」
「寂しいからそばにいろってこと。新年だってのに皆酔いつぶれて寝ちまったんだ。話し相手になってくれよ」
「わたしもさっきまで寝てたんだけど〜……っていうかメローネも片付けしてよね」
「年越しってさァ、ナターレのおまけって感じするよな。手紙なんかでもそうだろ。メリークリスマス、アンドハッピーニューイヤー」
「なんか話かみ合ってないね」
「オレ、なまえの声が好きなんだ。柔らかくて、それでいて凛としてて。なんつーかさ、そういう嗜好って単なる好みの問題じゃあなく、生まれたその瞬間から遺伝子レベルで決定されてる感覚だと思うんだよな、オレ」
「はぁ」
メローネの発言の大半はわたしの理解を超えているが、それは今に始まったことじゃない。こういうときは適当な相槌を打つのみで、むやみに横槍を入れてはいけない。
「人間の体が作られるときって、型紙みたいのがあると思うんだ。神様はアダムとイヴを作ったきり人間になんて飽きちまって、あとは天使に任せっきりなんだよ。だから、今地球にいるほとんどの人間が型紙製。いや、もしかしたらグミとか作るときみたいな型に流しこむタイプかもな」
「……」
「その型紙ってのはパーツごとにいくらかの種類があって、まったく同じ顔の人間ってのは生まれないようになってんだ。だから、ドッペルゲンガーってのは神様の凡ミス。あ、いや、天使か」
「……ねぇ、なにそれ、メローネの妄想?」
「妄想じゃあない。これは推理だ。……たまーに、セックスやキスの相性がやけにいいやつっているだろ? それってきっと、同じ型紙で作られた人間なんだぜ。つまりな、もしかしたらオレたちって、そういう相手なんじゃないか? オレ、前から思ってたんだよ。なまえは特別セクシーってわけでもねぇのに、不思議と魅かれるから。声とか、仕草とか、匂いとか」
メローネの話を真に受けたわけではないけれど、身体の相性のくだりについては、多少なりとも心当たりがあった。
たしかに、そういう人はいる。理想のタイプからはかけ離れているはずなのに、どうしてか身体の相性が合う。うっとりするようなキスをしてくれる。そんなふうに、運命的に身体と身体が結びついていると感じさせる相手が、この世には少なからず存在するのだ。
「なぁ、そうだろう!? だから一度、試してみようぜ」
「はぁ?!」
「いや、マジな話さ。ほら、オレの手となまえの手。すげーぴったりだと思わないか? なんかこう、しっくりくる感じ。わかるか? 目を閉じてみなよ……」
わたしの手に絡みつくメローネの指は、ショーウィンドウに飾られたマネキンのように白く細く、凍えている。もしこれがほかの誰かの手だったら、血が通っているかどうか心配したかもしれない。これだけ饒舌に捲くし立てることができる人間にはその必要はないけれど。
「冷たっ」
「悪かったな。冷え性なんだよ」
正直なところ、メローネによる"神の手抜き人類創造説"は、ちょっとだけ面白かった。わたしを引き止めるための出任せだとわかっていたけれど。
「そろそろ放して」
「ダメー」
子供みたいに足をばたつかせるメローネに一瞥をくれてから、もう一度荒れたアジトを見まわした。
大きないびきをかきながら床に寝そべるホルマジオと、その上に覆いかぶさるように眠るイルーゾォ。リゾットは椅子に腰掛けたまま器用に寝入っている。この男の寝顔はめずらしい。そうとうな疲れが溜まっていそうだ。
「あれ? プロシュートたち、どこか行ったんだ」
プロシュートとペッシ、それからギアッチョの姿が見当たらない。もしや外の飲み屋に連れ出されたのだろうか。"兄貴"と呼ばれる彼の面倒見のよさは、ときどき厚意を超えてしまう。
「12時回った頃、酒が切れたからっつって出てったよ」
「よくついて行ったねー、ギアッチョまで」
「かなりいやいやだったぜ」
「わぁ〜。今のわたしと一緒だぁ」
「そろそろ素直になれよ。ほら、オレとうたた寝しようぜ」
「いやだよぉ。明日になって片付けるの面倒だもん」
「片付けならオレがやってやるさ」
「絶対嘘だ」
「フフ、そうかもな」
でたでた、でました、この笑い方。人をイラつかせる悪魔の嘲笑だ。もしギアッチョならブチ切れてテーブルをひっくり返しているところだろう。飄々とした話しぶりも、同じくらい癪に障る。人を怒らせることに関してはこの男の専売特許だ。
わたしの苛立ちを知ってか知らずか、メローネは床に転がっていたドイツ製ビール瓶をくるくる回して遊びはじめた。片方の手はいまだわたしの足首を掴んだままで。これはホルマジオが「お尻からビールを飲む!」というなんともお下劣極まりない罰ゲームを行った際に使用したものかもしれない。
「なぁ、瓶回しゲームって知ってるか?」
「あぁ……うん」
瓶回しゲーム。その懐かしい響きはわたしに郷愁を覚えさせる。
薄いエメラルドグリーンの瓶に目をやりながらも、気分はすっかり遠い昔、まだわたしが人殺しを生業とする前の、瑞々しさを保った頃の思い出に浸り始めていた。
あのゲームを最後に行ったのは、たしか高校1年の夏休みだった。単純でくだらないゲームを飽きもせず繰り返した、しめった真夏の夜。
ルールはいたって簡単だ。みんなで輪になって座り、真ん中に置いたボトルを回してそれが止まったときに飲み口の方向に座っていた人が、ボトルを回した人とキスをする。それだけ。それだけで若き日のわたしは愉快な気分になれたのだ。
「瓶回しゲームがどうしたの?」
またしてもメローネ先生による夢見がちな持論発表会が始まるのだろうか。わたしはさっさとアジトの片づけを終えて、ふかふかのベッドにもぐりこみたいのだけれど。
「よくやったよな、昔さ」
「そうだね、ティーンエイジャーの頃にね」
「じゃあ、オレらも今日だけ16歳ってことで」
わたしがなにか言うより早く、メローネは瓶を回しはじめていた。
やがて、回転を止めた薄緑色のビール瓶が、わたしとメローネを羅針盤の針のように指し示した。飲み口をわたしの方に向けて。つまり、このゲームのルールに則れば、わたしたちはキスをしなければならないことになる。
「おぉっとォ! なまえの前で止まったァ! オレとなまえがキスだ!」
「……」
「さぁ、キスしようぜ」
「そーいうのはほかのメンバー起こしてやってくんない?」
「トンズラはなしだぜ、場がしらけちまう」
「そもそも盛り上がってないし」
「なまえー!」
「だって、あれって集団でやるからこそ楽しいゲームでしょ?」
女同士、または男同士が当ったり、普段はちっともそんな雰囲気じゃない友人同士が熱烈なキスをしたり。ぎくしゃくしたり、もしくは色恋沙汰に発展したり。わたしの思い出のなかにある瓶回しゲームとはそういうものだ。
少なくとも、同僚とふたりきりでするものではない。
「キスがいや? だったら脱ぐか?」
「はぁ?」
「オレたちの身体のどの部分の型紙が合うか、朝までじっくりたしかめてみたっていいんだぜ、オレは」
悪ふざけだとわかっていてもぞっとする。
わたしは掴まれていた足にありったけの力を込め、そうして、遠慮なしに振りぬいた。勢い余って踵がメローネの顎あたりにぶつかったらしいけど気にしない。自業自得だ。足元から聞こえるうめき声を無視してすたすた歩いていく。
「逃げるなよ」
ばかみたいな怪力だった。背中を壁に叩きつけられる。逃げ出そうにも、壁とメローネの身体に挟まれて、身動きひとつとれやしない。
普段は遠隔操作型のスタンドを使っているから気づきにくいけれど、この人は意外と腕ぶっぷしが強い。少なくともわたしよりは。掴まれた二の腕からは心底薄気味悪いエネルギーが伝わってくる。
苦し紛れに睨みつけてみたけれど、この変態には逆効果だったようで、なおいっそう喜ばせてしまった。
「……わかった、わかったから」
「舌も入れてくれよ。歯の形が知りたい」
「調子に乗らないで。……キスだけど、軽いやつだからね?」
「……」
面倒なことになったなぁと思いつつ、わたしはしぶしぶ顔を近づけた。接近するごとにメローネの口元が緩んでいくのが手に取るようにわかってしまう。とっても癪だけどキスひとつでこの最悪の状況を打破できるのなら安いものだ、と自分に言い聞かせながら、唇を――、
「……ッ、ん、ぅぐっ!」
唇まであと数センチ、というところになって、メローネの両手が素早くかつダイナミックに動き、わたしを捉えた。
唇と唇が合わさるやいなや、舌が前歯をなぞり歯茎をたどり口腔を侵略しにかかってくる。突然の襲来にわたしはされるがまま。時折首元にかかる長い前髪を気にしたり、口の隙間から垂れ落ちる唾液の行方を目で追ったり。そうしてさんざんに荒した後、侵略者はわざとらしく糸を引いて離れていった。
「ッ……ぷはぁ、っ!」
変態と壁の間からすり抜けて、そうして一歩二歩、後ずさる。陸にあげられた魚みたいに口をぱくぱくさせながら。
じりじりと近づいてくるメローネに先ほどの空き瓶を投げつけてやる。顔面に当ればいいと願って振り抜いたそれは、残念なことにやつの頬を掠めて、ソファーの上にぽすんと不時着した。
「なまえ、危ないじゃないか。オレに当るところだったぞ」
「当てようとしたの!」
「ひどいなぁ」
「どっちが……!」
「でも、悪くなかっただろ?」
……たしかに。むかつくけど悪くなかった。というよりも。むしろ。すごく、よかった。
眩暈がして、切なくなって、お腹の底からこみ上げる、怖いぐらいの甘い痺れ。こういう感覚はめったにあるものじゃない。
先ほどの"神の手抜き人類創造説"ではないが、たとえ互いに愛しあっている恋人同士でも、身体の芯が痺れるようなキスを交わせるとはかぎらないのだ。まったく、理不尽なことに。
もしも、愛する人との身体のふれあいに、常軌を逸するなにかを感じることができたなら、それはとても幸運なことだ。身体の相性というものは、愛や努力といういかにもな美辞麗句で太刀打ちできるようなものじゃないから。
だからこそ今、わたしは絶望の淵にいる。鮮烈なキスを交わしあえる、言わば運命の相手が、なぜ、どうして、この男なんだ!
「やっぱり、オレたちの相性は抜群だったな。きっと唇のパーツが一緒だったんだ」
「……」
無言は肯定だとみなしたらしいメローネは、床に転がっていた空き瓶を器用に足先で小突いて回転させ、もう一度口づけた。
今度はわたしの方からも唇を押しつける。絡みあい、雪崩れのように辺りの物を蹴散らしながら、神様が手抜きして作った互いのパーツをたしかめあう。
目を瞑って舌の動きに陶酔していたら、鼓膜をつんざくようなすごい音がした。きっとキッチンテーブルに腰を下ろしたはずみで、床に落ちたグラスが割れたんだろう。誰かが目を覚ましたかもしれない。あぁ、はやく、馬鹿な真似は止めなくちゃ。
わたしの理性はこのタイミングでストライキを実施してしまったらしい。もしかすると、メローネから発せられる瘴気にあてられたのかもしれない。
視界の端で、エメラルドグリーンのビール瓶が回り続けているのが見えた気がした。
(2013.01/06 UP)(2019.11/14 修正)
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