彼と出会った日のことを今も鮮明に覚えている。
 咥えタバコに低い声。たくましい体躯と厳しい表情。そのようにして大人の男性の要素を揃えながらも、彼が身にまとっているのは学生服だった。あまりのちぐはぐさに、わたしは首を傾げてしまった。彼をどのように扱うのが適切なのか判断しかねていた。大人として対等に接するべきか、子供として叱り、守ってやるべきか。

 そうしたわたしの迷いが、彼に伝わったのだろう。
 彼は、鋭い三白眼の中心に揺らぐ炎を灯らせていた。その佇まいは自らの運命に怯える野良犬のようであり、差し伸べる手すべてに噛みついてまわる狂犬にも見えた。

 結局、わたしは彼を大人の男として関わるほうを選んでしまった。そうせざるを得なかった。





「悪りぃ、起こしたか」


 まどろみから目覚めたのは、つい今しがたのようにも思うし、何時間も前から半醒半睡の揺りかごに揺られていた気もする。肩までかけられたブランケットは彼の手によるものだろう。夏とはいえ素肌へ直にあたる夜風は冷たい。

 声のするほうへ目を移すと、火のついていない煙草を咥えた形兆がこちらを見おろしていた。獲物を狙う肉食動物の光る目のように、薄暗い部屋のなか、彼の両目だけが妖しく浮かびあがっている。



「ん……」

「煙草吸うぞ」

「どうぞぉ」



 彼はかなりの愛煙家であるが、ところかまわず煙を吐き散らすような真似はけっしてしなかった。
 愛想の悪いウエイトレスが「当店全席禁煙ですから」と呟けば素直に従ったし、わたしの小汚い部屋ですら嗜むときは換気を忘れなかった。
 きっと、喫煙に関するマイルールがあるのだろう。その不良然とした身なりに反して、彼はすこぶる几帳面で律儀な男なのである。

 もしかすると、彼の自宅でも禁煙ないし分煙しているのかもしれないが、わたしは一度も虹村家の敷居を跨いだことがないので、実状は定かじゃない。
 なし崩しではあったが、まがりなりにも恋人になって半年が経つというのに、わたしは彼の自宅に招かれたことがないのである。そう、一度もだ。
 これはわたしにとって由々しき事態だったが、身の上を語りたがらない彼に無理に詰め寄るのは気がひけるし、男所帯に軽々しく女を連れこむのは彼のポリシーに反する行為なのかもしれない。深く追求するのはよそう。

 ……と、そのようにすべてを胸にしまいこみ、だんまりに徹するのがいい恋人いい女、さらにはよき大人なのだろうが、あいにくわたしはそのどちらにもなりきれない。きっと、彼のほうがわたしよりよほど大人だ。



「ねぇ、どうして家に呼んでくれないの」

「……問題あるか」

「あなたの部屋に行ってみたい」



 形兆は苦笑いを浮かべながら煙草に火をつけた。その一挙手一投足にわたしは目を奪われる。肺のなかを紫煙が満ちていく様を想像する。煙草はゆっくりと灰になって消えていく。……。

 いくら待てども欲しい言葉は返ってこなかった。




 その代わりに、形兆が言ったのは、


「弟がいるんだ」

 という一言だった。



 ようやっと彼がくれた返事は、わたしが求めていたものでないにせよ、一時的に自尊心を回復させるには十分だった。

 弟がいるんだ。その後になにか続くかと思ったが、話はそこで終わっていた。彼の物言いは大体いつも不十分で、そしてその言葉足らずさを、わたしはひどく愛している。



「いいよ。弟ね。紹介して」

「そうとうな馬鹿なんだ」

「わたしだって馬鹿でしょう」

なまえじゃあアイツの比にならねぇよ」

「そんなに?」

「あぁ」

「似てない兄弟なのね」

「……そうでもねぇさ」



 形兆はなにかを思い出している様子だった。

 窓辺で外を眺めながら、首を傾けて、静かに紫煙をくゆらせている。その横顔は、穏やかで柔らかい。これほどまでに優しく、慈しみ深い彼の表情を初めて見た。

 見てはいけないものを見てしまったような気分になって、それとなく目線を外す。布団のなかから手探りで下着を見つけ出し、緩慢な手つきでそれらを身につけていく。



「どんな子?」

「馬鹿だ」

「……それ以外にも、なにかあるでしょう」

「馬鹿で、マヌケで、甘ったれで、泣き虫で、……それから、心優しい馬鹿なんだ」



 口の重い彼に、これだけ言わしめる弟が羨ましい。羨ましくて、妬ましい。

 わたしは何気なさを装った相槌を打ち、キッチンへ向う。彼の家の冷蔵庫にはどんな食材がそろっているのだろうか。残念ながら我が家の冷蔵庫には缶ビールしか入っていなかった。
 溜息をこぼしつつ冷凍庫を開け、アイスクリームを取りだした。



「あなたもなにかいる? アイスか……ビールしかないけど」

「遠慮するよ。脳が溶けちまいそうなぐらい甘めぇんだろ、そういうのは」



 形兆は甘いものは総じて毒だと決めつけている節がある。だいたいチョコアイスで脳みそが溶けるなら、わたしの脳はとっくにぐずぐずだろう。もしかしてそう言いたいのだろうか。

「溶けるのはせいぜい歯ぐらいだよ」と言いながら、彼の膝の上に跨ってやる。

 すぐに無骨な手が腰に伸びてきて、口づけられた。
 煙草の苦味と、チョコアイスの味が混ざり合って、変わったフレーバーの葉巻みたいな香りが口内を侵食していく。悪くない味だ。



「おまえと一緒でアイツもこういう、チョコのアイスが好きだ」

「それはすごく気が合いそう。やっぱりあなたも欲しかった?」

「いや、いらねぇ。それよりベッドで食うな」

「大丈夫、こぼさないから」

「……」



 ベッドの上に食べ物を持ちこむのは、彼のマイルールを冒涜するほどの行為だったらしい。見せつけるようにスプーンについたチョコを舐めとると、形兆の片眉がぴくりと持ちあがった。

 誰になんと言われようとここの家主はわたしだ。そう宣言するつもりで、最後のひとくちを口に運ぶ。



「いつか、会わせてね」

「……いつかな」



 信じて、信じたふりをして、待ち続けることが大事なのだ。たとえそれが、絶対に訪れないであろういつかであったとしても。







師範代へ(2013.07/26 UP)(2019.11/15 修正)



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