花京院くんのポケットにはなにも入っていない。
小銭はもちろん、ロッカーの鍵も、飴の包み紙も、糸くずすら。それを確かめるすべをわたしは持っていないけれど、風に遊ばれる彼の前髪がわたしの視界に入るたび、その風が柔軟剤の健全な香りを運ぶたび、そう思えてならないのだった。
「花京院くん」
熱を帯びたわたしの声は、読書にふける彼の耳に届くころにはすっかり冷めていることを願う。
夕暮れを迎えた教室は、昼の喧騒が嘘みたいに静まりかえり、さきほどから花京院くんが本のページをめくる音だけが響いている。昨日に引き続きマクベスの第四幕だろうか。わたしはシェイクスピアを読む男の子を彼のほかに知らない。
「なんだい」
読んでいたページに指を挟み、栞代わりにすると、彼は本から目を剥がし身体ごとこちらへ寄越した。
大きな手に包まれた文庫本がうらめしい。ただの紙に嫉妬するほど、わたしは急いているのだ。
「引越しが決まったんだ。夏の初めに」
そんなふうに明日の天気でも話す口ぶりで彼が切り出したとき、頬が強ばり目頭が燃えるように感じたのを覚えている。
「そうなんだ、残念」ようやっと捻り出した声は、いかにも子どもの強がりに聞こえたかもしれない。
そう遠くはないけれど近くもない、苦い記憶を掘り起こしながら、文字を書いては消しを繰り返す。四時限目、数学、加法定理の応用について。日直が回ってくるたびにこんなもの誰が読むんだろうと釈然としない思いに駆られるが、一応過去の日誌に赤マルが付いているところを鑑みると、少なくとも担任ぐらいは目を通しているようだ。
「花京院くん」
「聞こえているよ」
「花京院くん」
「……あぁ」
用もないのに名前を呼んだことがわかると、彼は少し困ったような、くすぐったいような、淹れたての紅茶にひとさじミルクを垂らしたときのような、甘く柔らかい笑みをくれるのだった。
「花京院くんって、好き」
ふたたび紙の上を追っていた彼の目は、ゆるりと持ちあがり、長い前髪を揺らしながらこちらに向けられた。
「花にみやこって続くでしょう。すごく綺麗」
彼は数度瞬きをすると、ふっと笑った。風船の空気が抜けたみたいに。そのほほ笑みの下に隠された思いを知りたくて顔を覗きこんで見る。
前髪の隙間から少しだけ見える彼の横顔は、窓枠が切り取る夕焼けが張り付いて不思議な影を作っていた。
ひょっとしたらひょっとすると、頬の赤みは夕日のせいじゃなく別の理由があるのかもしれない。もちろん希望的観測である。人の心は夏休みに冷蔵庫をしきりに開けてジュースがないか探るみたいには簡単に覗けない。
「手紙を書くよ」
「どうして」
「目にしたもの、美しいと感じた音楽、景色、読んだ本について。嫌な思いをしたこともときどきは書くかもしれない」
「わたしは手紙なんて書かないよ」
わざと突き放すような声を出しながら、はらいの書き方が特徴的な彼の字を思った。花京院くんの手紙。想像するだけでうっとりする。言葉選びの穏やかな、しずかな池にたゆたう蓮の葉みたいな調子で綴られた言葉たち。
その便箋からはかすかに彼のお家の匂いが染みていて、遠目から見ると文字はわずかに右下がりに曲がっている。
わたしは届いた手紙を幾度も読み返し、ベッドの上で切なげなため息をついて、気が済むまで感傷に浸り、手帳に挟んでむやみやたらと持ち歩いたりする。
返信は季節に彩られた便箋で書こう。万年筆で、黒と紺色のあいだ、夜の帳の切れ端を絞って作ったみたいな、特別な色のインクで綴るのだ。
それは素晴らしい提案のように思われたが、やがて彼からの便りが途絶える日を思い、わたしは静かに首を振った。
どのようなのっぴきならない理由によるものでも、遠く離れた田舎町にいるわたしには知る由もない。死刑宣告にひとしい絶望だ。
そのうち、日に何度も郵便受けを確認する自分を想像して、わたしはもう一度首を振る。
「返事はいらないさ。僕が書きたいからそうするんだ。いつかまた会う日に、まるで見ず知らずの他人のように挨拶を交わすなんて虚しいじゃあないか。そうならないためにも、日常のあらゆることを、君に知っていてほしいからね」
花京院くんは捲くし立てるように言い終えると、ふぅ、と一呼吸置いた後、手にしていた本を閉じて、ゆっくりと窓をあけた。彼はどういうわけか席替えのくじ引きの際、いつだって窓ぎわの一番後ろの席を確保するのだ。
「……今日は、少し暑いね。夏が近いのかもしれない」
「そう? わたしはこのくらいがちょうどいいな」
「君は寒がりだからね。日誌は書けたかい? そろそろ帰ろうか」
わたしは返事をする代わりに、とうに書き上げた日誌を閉じて教壇の上に置いた。彼は物音をほとんど立てずに帰り支度をして、わたしが立ち上がるのに合わせて窓を閉めた。カーテンがロングスカートのように揺れ、床の影を乱してしまう。
「夏はきらい」
上履きを靴箱に入れ、ローファーのつま先で床を二三度鳴らす。夏はきらい。ふたたび、吐き捨てるように言う。言いながら子どもじみた自分が心底嫌いになった。
グラウンドにはまだ部活動を行う生徒たちが残っていた。明るい掛け声に押し出されるように校門をぬけると、緩やかなくだり坂が待っている。
魂のカタマリのように煌めく太陽は、海原に一本、からくれないの絨毯を敷いていた。耳をすませば水面のささやき声が聞こえてきそうだった。街路樹の桜は見頃をわずかに過ぎ、潮風にしなる枝が桃色の雨を降らせる。
まるで黄泉の国と繋がっていそうな、あまりに美しい風景のなかに溶けこむ彼の姿は、終焉にふさわしい艶やかさと哀愁の香りがした。
桜吹雪に霞む背中を追いながら、彼と一緒の下校もあと何度あるだろうと指を折ってみる。毎日示し合わせたわけでも、約束しているわけでもないのに、いつしか肩を並べてこの坂をくだっていた。
思えば共通の趣味があるだとか、家が近いとか両親が知り合いだとか、特筆して深い繋がりもないのに、よくここまで近づけたものだと我ながら不思議に思う。
わたしと花京院くんの共通点といえば、図書委員ということ。同じクラス。きらきら光る緑色が好き。かなしいときポリスのEvery Breath You Takeを繰り返し聞く。……。
誰の目から見ても明白なのは、転校生という肩書きだろうか。
この海の見渡せる町に越してくる前に彼がどこに住んでいてどんな色の制服に袖を通していたのかわたしは知らない。聞くと、懐かしい思い出にピントを合わせるように目を細め、ただ一言「もう忘れてしまうくらいさ」と、いかようにも捉えられる言い回しでかわしてしまうのだった。
語りたくないことを無理に問うのは心苦しいので、それ以上追及したことはない。
したがって、わたしの知る花京院典明という人物のはじまりの記憶は、黒板に書かれた彼の名前と、「よろしくお願いします」と到底よろしくして欲しいとは思えない陰気な自己紹介だった。そしてもうすぐ、わたしの知らない花京院典明が半永久的に増えようとしているのだった。
沈む夕日の向こう側からドヴォルザークの新世界よりが流れてきて、昼の終わりを告げている。
駅に人影はない。ちょうど帰宅部の生徒の波が途絶え、部活動もまだ盛んな時間帯だからだろう。こういう、がらんとした寂しい駅をわたしも彼もたいへん好んだ。
タイミングよくあらわれた電車に乗りこむと、腰を掛けるよりも先に、彼は鞄を漁り始める。毎度のことなので気にしない。
「聞くかい?」
頷く代わりに彼の手からイヤホンを受け取る。こうして片耳ずつ彼のテープを聴くのだって、あと何度あるかわからない。そう思い至って、わたしはあらためて自分が深く深く悲しんでいることに気づいた。
わたしが夏服に袖を通す頃、彼は見知らぬ土地の見知らぬ女とお気に入りの音楽を聴くのだ。胸が張り裂けそうだった。
今朝の彼の気分はどうやらクラシックだったらしい。どこか聞き覚えのあるピアノ曲に合わせて舌を鳴らしつつ、数年後、もしかしたらこうであったかもしれないわたしたちの姿を想像してみる。
ある日、こんなふうに肩を並べて歩く帰り道に小指と小指がふれる。彼は釣り餌を突く魚のようにわたしの指先に数度触れてから、手を握る。駅までの道のりは長いような短いような。彼もわたしも一言も発さずその日は別れる。秋の終わりに同じ場所でキスをする。その頃わたしたちは息をするのと同じくらい自然に手を繋ぎ、週末には電車に乗って遠出したりするのだ。それから――。
思い返せばお互い、距離を縮める詮術を知らず、とろ火でじっくり熱していく手順しか頭になかったのだろう。どちらか一方が相手の領域に土足で踏みこんで、すべてを塗り替えてしまえる強引なタイプだったなら、結末は違っていたかもしれない。今頃わたしたちはもう一歩、手を伸ばしたらふれられる距離にいただろう。あるいは、まだ、遅くはないのかもしれない。
「ね、聞いて、花京院くん。好き。名前じゃなくて花京院くんが好き。」
頃合を見計らったかのように、窓の隙間から強風が吹きこんできて、わたしと花京院くんの間を通り抜けていく。その荒々しくも妙に生ぬるい風に乗って、薄紅の花びらが現れ、彼の鼻先をかすめてわたしの手元に舞い降りた。
耳からイヤホンを抜いて、彼は言う。
「なにか言ったかい?」
わたしはスカートの裾を一層強く握りしめる。
「……手紙、書くから」
この桜がすべて散り、若葉が萌えるころ彼はいない。わたしは真剣に夏を呪った。
(2015.06/08 UP)(2019.11/12 修正)
< BACK >