ぼくは、この映画が好きなんだ。

 まだ知りあって間もないころ、街中で目にしたとある映画のポスターを見て、彼ははっきりと言った。なにかを好きとか嫌いとか、めったに主張しない人が、思いがけず自分の嗜好を示したことがうれしくて、わたしは彼と別れたその足でレンタルビデオ店に赴き、夜が更けるまで繰り返しビデオを再生した。一週間のレンタル期間が終わる頃には、細部まで展開を記憶していたし、今では台詞を諳んじることもできる。

 過去のわたしは必死だったのだ。
 彼に近づくためならなんだってすると、本気でそう思っていたし、実行もしていた。

 映画を観終わったあとは、素晴らしい作品と引きあわせてくれたことへのお礼と、彼が頷いてくれそうな練りに練った感想を伝えた。事実、映画はお世辞抜きで面白かったので褒めたたえるのは苦でなかった。
 彼はわたしの話にひとつひとつ相槌を打ちながら、合間に「あぁ、ぼくもそう思った」とか、「そのシーンいいよね」とか、「完全版だとその場面の直前にもうワンカット入るんだよ」とか、穏やかながらも熱のこもったコメントをくれた。エンディングは彼の好きなアーティストの曲らしく、彼イチオシの数曲を収録したカセットテープまでくれた。

 当時、大人しい彼とわたしとを繋ぐ唯一の架け橋がこの映画だった。この映画がなければ交際にこぎつけるのは不可能だったとすら思う。たぶん一生友達止まりか、ともすればその位置にすらつけなかったかもしれない。彼がわたしに好意を抱いたことはほとんど奇跡に近く、友人の言葉を借りるなら「まじでスーパーミラクル」だった。

 そんなわけで、先月めでたく二年記念日を迎えた今でさえ、こうして彼のそばにいられることが信じがたく、幸せで、不思議な感慨深さまで覚えてしまうのだ。



「おまたせ。砂糖はひとつでよかったかい?」

「うん。ありがとう」

「なんだい、やけに楽しそうだね」

「思い出してたの、いろいろと」

「ぼくには秘密のこと?」

「うん、ひみつー」



 優しい湯気が立ちのぼるマグカップを受け取り、火傷しないよう慎重に口をつける。同じコーヒーメーカーを使って作っても、彼の手で用意されたものはどうしてだかとびきりおいしく感じられた。なにかコツがあるのだろうかと勝手な疑念を抱いているうちに、彼はひとりで準備を進めていく。準備というのはもちろん、映画を見る準備であり、映画というのももちろん、彼がお気に入りだと言った例の作品のことだ。

 部屋の明かりが落とされて、ビデオデッキが起動するときの音が、家具の少ない彼の部屋に反響する。わたしはソファの真ん中からお尻ひとつ分左側にずれて、身体が沈みこむのを待つ。彼がわたしの右側に腰掛けたのと映画のタイトルがTV画面に映し出されたのはぴったり同時だった。
 ごく自然に、息をするのと等しく自然に、肩に腕が回される。わたしはそれに応えるように首を傾けて彼にもたれかかり、薄闇のなかに浮かびあがった映像を眺め、時折かたわらの息遣いに耳を澄まし、今こうして彼の隣にいることを許されている幸福を味わう。



「マチルダはさ、この日冷蔵庫に牛乳があったなら、死んでたわけだよね」

「あぁ、そうかもしれないね」

「それってすごく都合のいいラッキーだと思わない?」

「でも彼女が生きていなければ、物語りは始まらないよ」



 物語りは始まらないよ。心のなかで呟いてみる。なぜだか妙に胸の奥から切なさがこみあげてきた。


「だって、それ以前のマチルダの人生は? 彼女の人生はレオンに会わないと始まらなかったの?」


 唇を尖らせながら言い返せば、彼は目を細めて笑うのみで、意識は目の前の映画を観ることに戻ってしまったようだ。彼の物語りはわたしと出会ったことによって始まっただろうか。まだスタート地点にすら立っていなかったらどうしよう。わたしひとりが熱を持って、彼は道の向こう側でわたしの身体から妖しく立ちこめる湯気だけを、さめた目で見ているひとりの傍観者だとしたら。



「どうしたんだい」

「え?」

「ぼくの顔に、なにかついている?」

「なにも、ついていないけど?」

「顔に穴が開くぐらいじっと見つめられたら、恥ずかしくて集中できないよ」

「だってぇ、典明ってばすっごくハンサムなんだもん」

「ハンサム?」

「うん、ハンサム。いけめんよりハンサムって言葉のほうが典明っぽい」

「なんだい、それ。もしかして皮肉かい?」

「ぎゃくぎゃく、褒めてるんだよ」



 典明は笑っているけれど、わたしが言いたいことは別にあるのだと、分かっているようだった。わたしは隠しごとが苦手だし、彼はすこぶる賢くておまけに勘もするどいから。いつだってわたしは悟られたくない想いまでもを見破られてしまう。


「ねぇ、典明の人生ってさぁ」


 人生ってさぁ。できるだけ深刻にならないよう軽い口調で言ったつもりが、人生と言う言葉の持つ真面目な性質のせいで、ひどく重大な打ち明けごとをしているかのような響きになった。
 わたしは慌てておどけるような笑顔を作り、何気なさを装って先を続ける。



「典明のじんせーって、物語りって、わたしに出会ったことで始まった?」



 「もちろん!」という答えは、普段よりいくらか声を張っていたため、典明の声ではないみたいに聞こえた。追って、キスの雨がわたしに降り注ぐ。唇をついばんでから、両頬、両まぶた、額にあごに、鼻の頭。顔を一巡しても勢いはおさまらず、典明による接吻行脚は首筋にまで及んでいった。

 彼にふれられると、わたしはどんな瞬間よりも心地よい恍惚を味わう。肌がふれるごとに、唇が重なりあうごとに、サイダーの泡みたいにしゅわしゅわと愛されている実感が湧きあがる。その手に、唇に、とにかく、ふれられた部分からどろどろに溶けてしまって、わたしという実体が消えてなくなるのではと、恐ろしく感じるぐらいに。



「きみはどうなんだい? ぼくに出会って、なまえの物語りは始まった?」


 うん。始まったよ。耳を噛まれたせいで声が上ずった。

 わたしの頭を撫でる典明の手は、彼の物腰の柔らかさに見あわない武骨な形をしている。彼の外見でもっとも男性らしいパーツが手だとわたしは密かに思っている。その、血管が浮かびあがり節くれだった手で、髪に指を差し入れたり、胸や太ももを揉みしだいたりと好き勝手にするものだから、わたしは気が散ってもう映画どころではない。



「典明、それ、くすぐったいよ」

「ん? これ?」

「それ!」

「ああ、これね」

「やめてよぉ」

「やだよ」

「映画みないの」

「うん、……見ない」

「……」

「今は、なまえがいい」



 そんなことを熱っぽい視線と声で言われたらぐうの音も出ない。参りましたの証として目を瞑れば、瞼にキスが落とされて、服の前ボタンに手がかかった。典明の大きくて器用な手が順調にわたしを裸にしていく。部屋の明かりが消されていても、TV画面から放たれる明かりによってわたしの身体は隅々まで彼の目に晒されてしまうだろう。

 どうして快楽というのは恥ずかしさを伴って生まれるのだろうか。せめて、この羞恥心を共有したい。そんな思いに駆られて、いつもはしないのに、わたしも負けじと典明のセーターの裾をたくしあげた。



「典明も、脱いでよ」

「……今日は、えらく積極的なんだね」

「だってずるいよ、わたしばっかり」

「恥ずかしい?」

「恥ずかしい」

「ぼくだって恥ずかしいよ」


 男なのに。1年経っても、2年経っても、なまえの前で裸になるのは恥ずかしいんだ。典明はわたしの首筋を優しく撫でながら、諭すように慈しむように言葉を紡ぐ。



「でも、きみにふれているうちに、そんなの全部忘れてしまうんだよ」



 あぁ、そんなふうに言われたら。わたしだって、止まらなくなってしまうじゃないか。

 堰を切ったようにそれまでのまろやかさが消えて、わたしたちは急速に絡みあう。キスを交わし、舌を絡め唾液を啜り、身体の熱や硬さを堪能する。けだものじみた呼吸が重なりあうころには、たしかに羞恥心なんてもの感じている余裕はなくなっていた。
 典明の大きな口で愛撫されると、たまらなくなって、ひときわいやらしい声で喘いでしまう。こんなわたしの痴態を、典明はどんな目でもって見おろしているんだろう。かたく瞑っていた瞼を開けば、今にもとろけ落ちそうな典明の瞳に捕まった。



「かわいいよ、なまえ。恥ずかしがらないで、こっちを見て。大丈夫だから」



 大丈夫、大丈夫だから。わたしの頭を撫でながら、典明はうわ言のように「大丈夫」を唱え続ける。いつもより少しかすれた声が艶かしかった。
 分厚い唇が胸を食み、長くて巧みな舌でれろれろと見せつけるみたいに胸の先を転がしたり、吸ったりして弄び、唾液のあとを残しながら肌の上を移動していく。鎖骨の部分にたどり着くと、優しく歯を立てられて、たまらずわたしは身悶える。彼が腰を落とすたび、わたしの身体の自分でも到達しえない深いところにふれられて、気持ちよさのあまり涙がこぼれた。
 この快感は海に似ている。同じような律動に見えても、砂浜の上を押しては引いていく波のように、いじらしい強弱をつけながらわたしを翻弄する。



「……典明、っん、……ぁあっ!」

 片足を持ちあげられたかと思えば、体勢を横向きに変えられて、一息で身体を貫かれた。



「っ、ふぅっ……なまえ、この体勢、つらいかい?」



 首を左右に振ることで、かろうじてそれを返答とした。
 あられもない姿のまま揺さぶられながら、わたしの視界にはおのずとTV画面が映りこむ。すでに物語は佳境に入っており、雨のような銃弾が飛び交うなかで、マチルダとレオンは愛を誓うように別れを告げている。いつか、わたしたち二人にもこんなふうに、切羽詰った別れを迎える日が訪れるのだろうか。典明を手放すなんて。考えるだけでぞっとする。垂れさがった前髪を掴み、顔を引きよせ抱きしめる。胸の谷間に顔をうずめ、一心不乱に腰を振る典明を見ていると、わたしたちの別れはまだまだ先のように思われた。わたしの希望的観測かもしれない。

 やがて、わたしのなかでくすぶっていた典明の性器がびくびくとわなないて、その大きな口から、しぼりだすような吐息が漏れた。
 行為後もしばらくは繋がったまま抱きあうのがわたしたちの習慣だった。互いの汗が交じりあい、どちらかと言えば不快な抱擁なのだが、急にそっけなくなる人よりはずっといいかなと思う。



「どうして、こんなに気持ちいいんだろうね」


 問いかけるでもなく、典明は避妊具を取り外しながらぼんやりと呟いた。それ以上にぼんやりとした声でわたしは同意する。

 典明がかけてくれたブランケットの温もりがゆっくりと、しかし着実に、わたしを夢のなかに誘いこむ。TVから流れる哀愁漂う歌声が、物語りの幕が下ろされたことを知らせていた。それほど長いあいだ性交していたらしい。驚きと共に、わたしの胸はあたたかいなにかで満たされていた。きっと、典明の愛が補填されたのだ。



「もう一度、映画見るかい?」

「もう一度っていうか、うん、さっきはちゃんと見られなかったけど、見ようかな」

「はは、そうだね。じゃあ、ちょっと待っててよ」

「うん。でもわたし、もう、眠っちゃいそう」

「疲れた?」

「……ちょっとだけ」



 ごめんよ。きみを愛しく思うあまり、ときどき、抑えが利かなくなってしまうんだ。

 それは謝罪なのか殺し文句なのか。わたしにはわからなかった。






(2013.03/09 UP)(2019.11/14 修正)



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