木曜日のぶどうヶ丘スーパーは戦場だ。

 おばさんたちの大きなお尻をかきわけて、母に言われたとおりの食材をかごに入れていく。魚売り場で繰り返し流れているいつか流行った魚の歌を口ずさむ余裕なんてない。
 大体「魚を食べると頭が良くなる」だなんて嘘っぱちを歌詞にしてしまうのはどうかと思う。現にわたしはほとんど毎朝焼き魚を食べているけれど、テストの点が上がる兆しなんてないじゃないか。

 秋刀魚もコンニャクも長ネギも家から徒歩5分のスーパーに行けばすむのに、木曜日はこの店のポイント10倍デーなんだとかで、定期券を持っているわたしが使いに出されることがしばしばあった。

 ネギが飛び出したビニール袋をぶら下げて、30分ちょっとの家路を辿るのは少しばかり恥ずかしいけれど仕方がない。だってアンタ、ポイント10倍デーなのよ。それが母の常套句だ。



「アレェ〜? みょうじさんじゃないっスか〜?」



 真剣にキャベツを品定めしているときだった。
 ビシッと決まった黒光りするリーゼントヘアー、こちらの目線に合わせるように傾けられた大きな身体、やさしそうな瞳。
 あまりに突然すぎてどもっていると、東方くんは「オレですよォ〜オレオレェ!」だなんて、新手の詐欺みたいな気安さでほほ笑みかけてくる。



「ひっ、東方く、ん……っ?!」


 学ラン姿ではない彼を見るのは初めてだった。動くとしゃかしゃか音の鳴るような素材の、黒い上着を着ている。トレードマークの髪型を除けば、今どきの男の子らしい装いのように思う。


「そうそう。東方仗助! 知らねーかもだけど、オレ、今みょうじさんの右後ろの席なんスよお〜!?」



 もちろん知っている。知っているに決まっている。

 クラス中、学年中、それどころか校内で彼を知らない人は皆無だろう。まず第一に東方くんのルックスはすごく目立つ。一昔前の不良然とした髪型と服装、それに日本人離れした顔は女の子からも好評だ。くわえて人柄までいいんだから、非の打ち所がない。

 そんな我が校の人気者に自分の名前を認知されていたことが不思議で、気恥ずかしくて、光栄だった。
 ほとんど会話らしい会話を交わしたことがないし、わたしは決して目立つタイプではないのに。東方くんはクラスメイト全員の顔と名前を暗記しているのだろうか。いや、そうに決まっている。



「もしかして、みょうじさんもオツカイっスかァ〜?!」

「うん、そうなの。ほら、今日――」

「ポイントデーだから」「ポイントデーだから」



 ふたつの声が重なって、そのあと噴き出すタイミングまで一緒だった。
 東方くんの笑う調子に合わせて、かごから飛び出した大根の葉がゆさゆさと揺れている。ちくわ、たけのこ、コンニャク、はんぺん……もしや今夜の東方家はおでんだろうか。



「木曜はポイント10倍だからって、いつも行かされるんだよなァ〜。定期持ってるでしょ、って」

「うちもうちも〜。東方くんのお家、今夜はおでん?」

「よくわかったっスね! みょうじさんとこは?」

「なんだろう。自分の家のはわからないや」

「アハハ! そりゃあ楽しみっスね〜!」



 モテる男はお喋りも上手だ。
 引っ込み思案で口下手なわたしともそれなりに会話が続くのだから、東方くんのコミュニケーション能力は伊達じゃない。


「家から遠いから、とけるものは買えないよね」

「そこが難点っスね」

「でもわたし、夏とかはアイス買って家に帰るまでこっそり食べてたな」

「ア〜オレもォ〜!」


 ぶどうヶ丘スーパー常連のわたしたちに、共通の話題が尽きることはなかった。些細なことでも、オレも、とか、わたしも、とか、そんなふうに共有し合えることが嬉しい。

 ささやかな幸福に満たされながら二人並んで会計を済ませ、ぶどうのマークが入った揃いのビニール袋をぶら下げて店を出た頃には、空はすっかり灰色に染まっていた。冬の訪れを感じさせる冷ややかな風には、独特の湿ったにおいが含有されている。ひょっとすると一雨くるのかもしれない。



「結構買ったね」

「うちのおふくろ、人使い荒いんスよ」

「ちょっと持とうか?」

「いやいや!! 女の子にそんなことさせたらおふくろにぶっ叩かれるっスよ!」



 バス停は店から少し離れた小道にある。周辺に街灯はほとんどなく、背後には小規模な森があって薄暗い。一人のときはすこし怖いくらいだ。でも今なら、東方くんが隣にいれば、ぜんぜん平気だ。たとえ茂みから熊が飛び出してきても、東方くんがなんとかしてくれる気がする。

 ようやくバス停にたどり着いて人心地がついた頃、東方くんのジャケットにぽつりぽつりと可愛い音をたてて雫が当りはじめた。その音は段々と激しくなって、わたしの髪まで濡らすようになった。


「わっ、雨だ」


 よりによって、今降り始めるなんて。次のバスが来るまで10分はある。屋根のないバス停で傘も差さず待ち続けるには長すぎるし、かといって引き返したところで雨に打たれることには変わりない。

 為す術もなくうろたえるわたしの真横で、なぜか東方くんはジャケットのファスナーを下し始めた。
 そうして、脱ぎたての温かみが残るジャケットを、困惑するわたしの頭にふわりとかけたのだ!



「東方くん?!」

「悪りィ、傘は持ってねぇんだ」

「そうじゃなくって! これじゃ東方くん濡れちゃうよ! っていうか、寒いでしょ!」



 ジャケットを脱いだ東方くんはぴったりしたTシャツを着ていて、とてもじゃないが10月の雨に打たれるには薄着すぎる。
 二人でひとつのジャケットを譲り合っているうちにも、雨脚は強くなるばかりだ。



「このままじゃあ二人とも風邪引いちまうぜ?」

「東方くんがこれを着れば風邪引かないよ!」

みょうじさんって意外と頑固っスね」

「それに、髪型が乱れちゃうかもよッ!」

「!!?」



 そうだった。この一言は相当効いただろう。なんたって彼にとっては風邪を引くことよりも、自慢のヘアスタイルが崩れることの方がよほど深刻な問題なのだから。



「……だったらよォ、こうしねぇか?」

「え?」

「二人で、こうやって……ほら、案外イケるだろォ〜?」



 東方くんはわたしの背後に回ると、そのままジャケットの両端を手で掴んで、小さなテントを作るように頭上へ掲げた。
 長身の彼だからこそ成し得る技だ。わたしは彼の腕の中にすっぽり包まれている。たしかに雨には当らないけれど、これじゃほとんど後ろから抱きしめられているようなものだ。

 それに、布の大部分はわたしの身体を覆っており、彼の半身はほとんど雨晒しだ。ただし頭だけは突起した部分も含めしっかり守られているようで、すごく満足そうに「これ撥水加工されてんすよ」なんて言って笑っている。歯磨き粉のCMに抜擢されそうな爽やかな笑顔だった。

 辺りに人の気配はなくただ雨音だけが響いていて、ときどき通過していく車が静けさを乱していった。のしのしとトトロが巨体を揺らして登場しそうな雰囲気だ。



「バス、来ねぇなァ」

「来ないね」

「雨、やまねぇなァ」

「やまないねぇ」



 東方くんの言葉をオウム返しするのでやっとだった。身体が密着しているせいで色んなことが気になって、ぜんぜん頭が働かない。
 たとえば、耳元にかかる息や、ときどき聞こえる鼻歌。背中に感じるかすかなぬくもり。東方くんのお腹は、かなりがっしりとしている。男の子の身体とはわたしが想像していた以上に硬いものらしい。東方くんが特別筋肉質なだけかもしれないけれど。

 早くバスが来てこの張り詰めた気分から開放されたいという思いと、叶うならずっとこのままで、もしくは猫バスが現れてわたしたちをどこか遠く、素敵な場所に運んでくれたらいいのに、なんて、矛盾した望みが胸の内で対抗し合っていた。

 ふと見上げると、まるでなんでもないとでもいうふうに、いつも通りの東方くんの顔がそこにはあった。
 もしかしたら彼にとってはクラスメイトと密着するのも、雨に打たれる野良猫を胸に抱くのも、大差ないことなのだろうか。

 雨がわたしの火照りきった頬をつたい落ちていく。秋雨は、戒めのように冷たかった。



「おっ、やっと来たぜ!」



 もちろんそれは猫型のバスではないし、運転手はトトロでもなかったけれど、車内の温かい空気はわたしたちをやさしく迎えてくれた。



「ワァ〜あったけ〜!」

「やっぱり東方くんも寒かったんだね」

「だってもう10月っスよ〜!」



 東方くんはいかにも寒いという身振りで肩を震わせながら、一番後ろの座席についた。わたしは荷物を挟んで隣におずおずと腰掛ける。
 乗客は隣町の高校生と仕事を終えてくたびれた様子の男性しかいなかった。

 バス特有の規則的な揺れと運転手の声に誘われ、徐々に瞼が重くなる。ちらりと横目で確認すると、東方くんはすでに船を漕いでいた。授業中も居眠りしていることが多いけれど、いつでもどこでも寝られるのび太タイプの人なのだろうか。



「――うぉっ!」

「えっ?!」

「……あ〜びびった〜。乗り過ごしたかと思ったぜ」

「びっくりした〜。東方くん、どこで降りるの?」

「次。悪りぃ、ボタン押してくんね?」


 慌しくジャケットを着て荷物をまとめた東方くんは、眠そうな目を擦りながら立ち上がった。ぷしゅ〜〜う、という音と共に扉が開かれる。


「じゃあね」

「おう。また明日な」



 うん。また明日。また明日。いい響きだ。

 バスを降りてからも東方くんはその場で立ち止まったまま、小雨も気にせず手を振っていた。
 わたしは子どもみたいに座席の上に膝を付いて、両手をワイパーのように動かす。ばいばい。唇の動きだけの別れの言葉は、伝わったかどうか曖昧だ。

 なぜか目の奥がじんと熱い。視界までぼやけてきた。
 彼の姿が見えなくなってからも、夜の濡れた路面に反射するテールランプの鮮やかな明かりを、いつまでも眺め続けていた。







きぬごしさんへ(2013.09/27 UP)(2019.11/14 修正)



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