薄暗い病院の廊下を、ひとりの看護婦が歩いている。手に持った灯りは頼りなく、今にも消えてしまいそうだ。あたりは静まりかえり、彼女の足音が響くのみだった。


「きゃ……ッ!」


診察室の前を通過する瞬間、わずかに開いたドアの隙間から手が伸びてきて、彼女の腕を掴んだ。そのまま診察室に引きずりこまれる。無駄のない、素早い動きだった。


「看護婦さん……呼びとめて悪りィんだが、どうにも寝つけなくてね……」

「もう、ジャイロったら」


押し倒された彼女の頬に、ジャイロの長い髪がふれる。


「なぁ知ってるか。最近この場所でユーレイが出るって噂が流れてるんだぜ」

「すすり泣く女の声が聞こえる、でしょ」

「くっくっくっ……」


ジャイロは心底おかしいといった様子で笑った。


「笑いごとじゃあないんだから」

「そうだよなァ。いけないよなァ、こんなこと……ニョホホ」


そう言いながらも、ジャイロは着々とナース服を脱がしにかかる。


「んっ……みんな寝静まった時間にしか来ないのに、どうしてそんな噂がでるのかしらね」

「さぁな……」


おしゃべりは終わりだ、とでも言いたげに、ジャイロは彼女の口をキスでふさいだ。


「幽霊とキスするのはどんな気分?」

「サイコーだよ。天にも昇る心地さ!」







勤務中の彼女といえば、まさしく白衣の天使だった。
どれほど忙しいときも、瞳には輝きを湛え、柔らかな微笑で見る人を勇気づける。その佇まいは、人々に十字架を思わせる神聖さがあった。重症患者が今際のきわに彼女を見て「迎えが来たのか」と呟くこともめずらしくはない。働きぶりもじつに見事なものだった。

だからジャイロは当初、彼女の誘い≠、気のせいだと思った。
そのように判断するのも無理もない。貞淑を絵に描いたような女性であることにくわえて、それは日常で行われる、少々過剰なスキンシップだったからだ。
たとえばすれ違いざま偶然のように手にふれたり、彼がカルテを記入していると肩に手を置き耳元で話をしたり、とにかく彼女はことあるごとにジャイロにふれた。さりげなく、しかし確実に、熱をこめて。

彼女が初めて一線を越えた誘惑をしかけたとき、ジャイロは目をみはっていた。
驚き、困惑しながらも、白衣を脱いだ天使を受けいれ、彼なりの方法で愛した。品行方正な看護婦である彼女と、それらを脱ぎすてただの女になった彼女は、どちらも正しく彼女であった。ジャイロは彼女の二面性を認め、そのいずれも等しく愛していた。

ふたりきりのとき、ジャイロは冗談めかして彼女を俺のアンジェラ(天使)≠ニ呼び、彼女はジャイロを私のプリンチペ(王子様)≠ニ呼ぶ。週末になれば人目を忍んで隣町まで遠出したし、若い恋人らしく、ときには場所を選ばず大胆に愛しあったりもした。
幸運にもほかの看護婦や患者――そして、彼の父親に関係を知られることはなかった。もし露見すれば、彼女は明日にでも病院を追いだされ、強制的にべつの男と結婚させられるはずだ。そうでなくとも、彼女にはこれまで幾度も見合いの話がきていたので、田舎へ戻すためのいい口実になっただろう。


彼らの思いは本物だったが、それでいて割り切った関係でもある。いつかはほかの誰かと結婚し、互いにべつの人生を歩むのだと、ふたりは理解し、納得もしていた。それで十分幸せだった。
今だけ、あとわずかだけでも。ふたりはこのまま、密かな逢瀬を楽しみたかった。





しかし、そのような刹那的な関係は、終わってしまうのも一瞬だった。


「SBRレースに出る」


ジャイロはそう言った。
相談ではない。出る、という宣言だ。これは決定事項であり、彼女がそれについて言及する余地はなかった。レース? 馬? 北米大陸横断? 馬鹿げている。どれも彼女には理解しきれなかった。わかりたくもなかった。
この関係の果てに待つのは、ついに断りきれなくなった自分の縁談か、あるいは彼の父親が連れてきた婚約者との遭遇だと信じて疑わなかった彼女にとって、解しがたいのは当然である。


「つまり、詳細は言えないけれど、とにかくそのSBRレースとやらに出る必要があるってことね」

「そうだ。さすがは俺のアンジェラ。察しがいいな」

「勘違いしないでちょうだい。納得したなんて言ってないわ」


いつになく怒りをあらわにする彼女に、ジャイロは気圧されていた。


「それってあなたじゃあなくっちゃだめなの? ほかの人にさせればいいでしょう」

「そうはいかねぇよ」

「ジャイロ。やさしさはときに命取りになるのよ」

「きみ……俺の父みたいなこと言うのな」

「あら、恋人との会話で父親の名前を出すなんてずいぶん素敵ね」

「おぉいいぜ、次のデートには父も誘おうじゃあねぇか」

「…………次のデートなんて、私たちにあるの?」


ふたりの間には張りつめた空気が漂っていた。


沈黙をやぶるように、診察室の扉がノックされる。
憮然と立ちつくす彼女を背中に隠し、ジャイロは返事をした。どうぞ、入ってください。


「検温が済みましたので、入院患者のカルテをお持ちいたしました」


その声は看護婦長だった。
パーティションの向こうの人影はひとつ。彼女の姿はジャイロの陰になっていて、看護婦長からは見えていない。


「ありがとう。そこに置いておいてくれ」


白い布を隔てた向こう側で、彼女はジャイロの背中に抱きつく。人影がわずかに揺れたのを、看護婦長は見逃さない。


「…………ほかに、なにか?」

「……いいえ。失礼いたします」


扉が閉まりきったのを確認すると、ジャイロはくるりと回転して、彼女に向きなおる。


「――おいッ! 今のは看護婦長サマだぞッ!」

「それがどうしたっていうの」

「あの人はえらく勘がいいんだぜ。バレたらただじゃ――」

「もう、誰に知られたっていいわ。どうせあなたは妙なレースに出て、帰ってくるかもわからないわけだしね。あなたが不在のこの病院に、私がいる意味はないでしょう」

「……そう言うなよォ〜」


頬を撫で、額にやさしいキスを落とす。ジャイロはしばし言葉を探して、口を開けたり閉じたりを繰りかえしていたが、最後には黙りこくった。
ただ愛おしそうなまなざしで、彼女を見つめる。手をとり、そこに口づける。印を残すようなキスだった。

やがて、ジャイロの覚悟と深い愛情が彼女の心に届いていった。


「あなたのこと、忘れないわ」


その言葉はけっして、感傷的な雰囲気に飲まれて出たものではない。

彼女の、心からの思いだった。

そうしてそれが別れの言葉となった。




故郷に帰った彼女のもとにも、ジャイロの訃報は届いた。

悲しむ彼女の肩をさする男はもういない。ジャイロの死は、彼女の情熱的な一面が失われた瞬間でもあった。

結婚し、母になり、人並みの幸せをすべて手に入れたあとも、彼女の記憶のなかでジャイロ・ツェペリは生き続けている。永遠に、消えることなく。





(2019.10/05)合同誌「光のひみつ 2」収録


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