あの頃のぼくらといえば、トゥー・ヴァージンズのジョンとヨーコさながらに、相手の瞳以外はなにひとつ見えてはいなかった。
 いっそこのまま指先からほどけてしまって、皮膚も肉も骨もどろどろに溶化し、融合して、正真正銘ひとりの人間としてふたたび生誕できたなら、どんなに素晴らしいことか。なかば本気でそう願っていた。  だからぼくが気まぐれにジュエリーショップへ飛びこみ、小石の乗ったリングを土産に跪いたのは、いたって自然な流れだったように思う。
 気持ちばかりがはやりすぎて、花束を買うのも忘れてしまった。とっさに長年愛用していたブルガリの腕時計を一輪の薔薇に変え、さしだしたことを、ぼくは一度だって後悔してはいない。

 「ぼくと結婚したい?」

 返事など待たなくともなまえの顔を見ればそこに答えが書いてあった。


 しかし実際に式場探しやスケジュールの調整といった子細に目を向けたとき、ぼくらはサンタクロースの正体に気づいた子供のように鼻白んでしまった。
 ギャング組織のボスという肩書きを背負うぼくと、当時学生だったなまえとの間には様々な障害が立ちはだかり「結婚は仕事や生活が落ちついてから」と妥協に妥協を重ねた意見でぼくらが一致したのはたしか二年以上前のことだ。以来、式の件はなんの進展もみせていない。
 結局のところぼくの仕事が落ちつくことは向こう十年はないのだろうし、ひと息ついた頃には老人になっているかもしれなかった。
 腰痛持ちのなまえにウエディングドレスを着させるのは忍びないし、杖をついたかつての仲間たちを集め、式場を老人ホームへ変えてしまうのはごめんだった。
 この際だから、先に籍だけ入れてしまわないか。そんな夢も希望もない提案を、意外にもなまえは快諾してくれた。それが、つい昨日の話だ。
 この際だから≠ニいう一見投げやりな言葉の裏には、きたる結婚生活へむけてささやかな彩を添えられればと、ぼくなりに祈りをこめていた。
 まず第一に、結婚記念日は忘れさられてしまう記念日のひとつだ、とぼくは思う。誕生日のようにパスポートや運転免許証に印字されるものでも、カレンダーが赤字で教えてくれるわけでもないから、どうしても影が薄くなりがちだ。その点イヴなら、うっかり忘れる失態だけは避けられる。
 第二に、イヴに入籍なんてなかなかロマンチックじゃあねぇか。きっとミスタならそう言うはずである。  これは、日頃ろくにデートもしてやれない、式の日取りも判然としない、かくのごとき気の毒な花嫁へ贈る、わずかながらのプレゼントのつもりだった。


 十二月二十四日、イヴの夕刻にもかかわらず市役所にはそこそこの人が集っていた。ここにいる男女はみんな、ぼくらと同じ用紙にサインしに来たのではと勘ぐってしまうけれど、実際はそんなことないのだろう。戸籍だったり住民票だったり、この場所はじつに多様なサービスを提供しているのだから。


「えぇと、ジョルノの綴りはgiornoでいいんだよね?」

「あぁ……、ちょっと違うんだ。きみに教えたことはなかったかな」


 目を丸くしてこちらを見あげる彼女からペンを受けとる。夫になる人、ハルノ・シオバナ。妻になる人なまえみょうじ。  そうだ、ぼくらは今ようやく夫婦になろうとしている。


「……ジョルノって本名じゃなかったのね」


 なまえは驚愕と寂しさがないまぜになった奇妙な苦笑いを浮かべていた。
 たしかにぼくらはもう互いの長所も短所も、隅々まで知っている気になっていたのだ。ひょっとすると、ぼくも彼女のまだ見ぬ一面に度肝を抜かれる日がやってくるのかもしれない。


「そりゃあ、ぼくはジャッポネーゼだから」

「もちろんそれは知っていたけれど……なんていうか、その……」

「本名は初流乃。汐華初流乃。でも今までどおりジョルノでいいよ。ぼくもそっちで慣れているし」


 これは皮肉じゃあない。ぼくは呼び名なんか心底どうでもいいし、それに特別な価値を見出せなかった。極端な言い方をすると、なまえの声で呼ばれるなら「それ」とか「あれ」とか代名詞だって構わないのだ。


「アルノ?」

「ハルノ」

「ア……ハ、ルノ」

「H、a、r、u、n、o、ハ・ル・ノ。ルはRだけど巻かないんだ」

「ァ、ハァ、……ハルノ」

「……まぁ、なんでもいいさ」

「ハァ、ルノ、アルノ、ハルノ、ハルノ、アルノ――」


 馴染みのない言語とはやはり発音も難しいようだ。なまえはRを過剰に力ませて、教えたばかりのぼくの名を連呼している。三回に一回はアルノになってしまうのだが、いちいち訂正はしなかった。


「そうそう、うまいですよ」


 ぼくは真面目な顔で褒めたのだが、一瞬だけ緩んでしまった口元を彼女は見逃さなかった。眉根をよせて無言の訴えをよこした。
 このわざとらしい仏頂面は「馬鹿にするな」という意思表示である。口喧嘩ではまるきり歯が立たないと、最近になってついに理解した彼女にできる、精一杯の抵抗がこれなのだ。


「なんて顔してるんだよ」

「ジョルノこそ。すごく意地悪そうな顔してるよ」

「そうかな」

「そうだよ。……ねぇ、ハルノってどんな意味なの?」

「意味?」

「あるでしょう、ほら、由来とか」

「さぁ。知らないよ」

「漢字の名前には、個々に思いをこめるって聞いたよ」

「ほんとうに知らないんだ。おそらくただの当て字だろうな。そもそも日本じゃ男につける名前じゃあない」

「そうかなぁ」

「だいたい、あの母親がぼくを思ってなにかしてくれたことなんて――」


 そこまで言いかけて、いや、ほとんど言ってしまったところで、ぼくはやっと彼女の異変を察知して閉口する。
 こわごわ視線を移すと、案の定彼女は沈痛な面持ちでこちらを凝視していた。真冬の曇り空を連想する仄暗い色が、瞳の表面を覆い隠そうとしている。ごく普通の、ぼくから見ると温かく幸福な家庭で育った彼女とは、家族そのものへの認識に明らかな隔たりがあった。
 無理にそのギャップを埋めたり互いの理想や価値観を擦りあわせるつもりはない。これから二人で築きあげる家庭が素晴らしいものでさえあればぼくは満足だ。
 額にキスをすることでとりなそうとしたが、彼女はそれきり黙ってしまって、婚姻届を提出し終え、外に出てからも難しそうに口を真一文字に結んだままだった。
 折角の記念の日に酷いことをしてしまった。ぼくは夫婦になったのっけから愚夫っぷりを見せつけている。


「さぁ、なまえ。ワインを買って帰ろう。いつもの店でケーキも予約してあるんだ」

「……ケーキ? 何味の?」

「すぐにわかるさ」


 ようやく調子をとりもどした妻の手を握りナターレに沸く街をゆったり歩いた。柔らかな橙黄色の光の群れが、行きかう人々を漆黒のシルエットに変えてしまう。
 目が眩む豪勢なイルミネーションではないけれど、ぼくはこの古くさい豆電球のほっとする灯りを気に入っている。 それにしても、普段はいったいどこに身を潜めていたのか不思議になる子供の数だ。少子化が懸念されている国とは思えない。
雪だるまのように着膨れした子供たちをなんの気なしに眺めていると、女の子が転び、泣きだしてしまった。すぐさま父親が抱きあげ、あやしている。
 幼いなまえもこんなだったのだろうか。父親の小指を握りしめ、カルガモの雛よろしく後ろをついて歩く。サンタクロースを信じ、二十四日の夜は緊張で寝つかれない子供。
 ぼくの想像はおのずと未来の我が家に行きついた。
 くたびれた体を引きずって帰宅すると、穏やかにほほ笑む彼女が待っている。ナターレの夜、食卓に並ぶ手のこんだ料理。華やかに飾りつけしたツリーとその下に置かれた沢山のプレゼント。暖炉のそばでうたた寝するぼくらの子供。  男だろうか、女だろうか。どちらに似ても愛らしいことに違いない。とは言え、ぼくにそっくりの赤子を甲斐甲斐しく世話するのはなんとなく気恥ずかしいから、どうせならなまえの生き写しみたいな娘を周囲があきれかえるぐらいに溺愛したい。


「なぁに〜? ニヤニヤしちゃって〜」


 どうやらぼくは知らぬ間に口元が緩みきっていたようだ。
 まだ存在すらしない我が子を思い、一人でにやける男の顔はさぞ滑稽だったろう。結婚とナターレ、二つの祝いごとが重なったことで、少し浮かれているのかもしれない。


「帰ったら、子供を作ろうか」

「えっ?」

「間違えた。夕食を作ろう」

「……そんな言い間違えってある〜?」


 いかにも愉快そうに、けらけら笑った。
 彼女もまた、浮ついた街の雰囲気にあてられて舞いあがっているように見えた。
 ナターレには宗教という枠組みを超えた楽しさや、人の胸を躍らせるなにかがある。ぼくに理想の家庭のまぼろしを見せ、なまえをおどけさせてしまうなにかが。


「わたしたち、家族になるんだね」

「もう家族だろう」

「そうだね。……いい妻になれるように、頑張ります」

なまえはこのままで充分いい妻さ」

「いいマンマにもなりたい」

「なれるさ、きっと。なまえなら」

「だといいけど。一日中ほっぺすりよせあって、抱っこして、子守唄を歌うの。笑顔も泣き顔も、どんな表情も一つ残らずこの目で見ていたい」

「……あぁ」

「ジョルノ、すっごく親ばかになりそー。特に女の子なんか生まれたら」

「さっきぼくもそれを考えていたよ」

「ほんとぉ?」


 「ふふふ」とか「えへへ」とか、会話の合間合間に漏れる気のぬけた笑い声が、ぼくを世界一幸福な夫に仕立てあげる。
 訳もなく涙してしまいそうなほど、いま、ぼくは幸せだ。


「わたしたちの赤ちゃんはねー、名前の由来を、そらですらすら言えちゃうの。自分がどれだけ望まれて生まれたのか、うんざりするほどわかってて、それで……」


 あとわずかでも振動を与えられれば涙が零れおちそうなとき、彼女がいじらしいことを言うものだから、ぼくはなにも言えなかった。


「それで、大きくなって恋人ができたら、彼女を嫉妬させちゃうぐらいマンモーニに育てるの」


 彼女の声はか細く、震えていた。
 ぼくは瞬きも呼吸も停止させ、立ちすくむ。粉雪が静かにふたりの頬をなでていく。冷たさは感じなかった。


「ねぇ、それじゃあ、あんまり親バカすぎるかなぁ〜?」


 笑うなまえの目尻には涙が滲んでいた。濡れた瞳に、街の灯りを映しこんで。
 思わず抱きしめてしまったが、街の空気はむしろぼくらを祝福するように、あるいは雑踏に飲まれるように、とにかくいたずらに人目を引くことはなかった。
 いつもよりおごそかに響く鐘の音が、夜の始まりを告げていた。サンタが来る前に家に帰ろう。ぼくのつまらない冗談は、彼女に届いているだろうか。



(2013.12/31 UP)(2019.07/07 修正)


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