ついさきほどまで若さをそっくり体現したような騒ぎだったというのに、今はもう水を打ったように静まりかえっている。がらんとしたロビーにはその残骸であるゴミや教科書にまざって、彼らが身につけていたガウンや帽子が散乱していた。いつもより荒れた校舎には卒業という節目にはうってつけの侘しさが滲んでいる。
 そのうちのひとつを拾いあげ、ついた埃を払いながら考えた。もしも、今もここに彼がいたならば。この喧騒に加わって馬鹿騒ぎでもしたのだろうか。


 最後に彼を見かけたのは、たしか一年の秋ごろだったと思う。
 あの日わたしは、図書館で小説を借りたあと、エントランスに向かっていたところだった。その頃から彼は滅多に姿を見せなくなっていて、学校に来たとしても電話でなにか忙しなくやり取りをしていたり、パンを片手に分厚い資料に目をとおしていたり、多忙なせいか、いつにもまして隙がなかった。それはなによりも無駄を嫌い計画的かつ優雅に物事を進めていく彼にしては、あまりらしくないふるまいだったように思う。
 そんなわけで、噴水のへりに腰かける彼を見つけても、声をかけようなんて気はなかったし、今日もなにやら深刻そうに物思いにふける彼の邪魔をしないよう踵を返したところだった。


なまえ


 だから彼がわたしの名前を呼んだことは、極めて思いがけないことだった。そのときのわたしは足元で彼のパンのかすを突くハトと同じくらい、おそろしく間の抜けた顔をしていたことだろう。


「なぜぼくを避けるんです?」


 彼はわたしの名を呼んだときと同じ姿勢のまま、つまりは、手元の資料に目をとおしたままの状態で、すこしばかり不機嫌そうに呟いた。いったい彼の目玉はいくつついているのか、いぶかしんでしまうほどの視野の広さである。
 おずおずと近よって彼の前で足を止めれば、一度こちらを見てから、無言で自身の荷物をすいと移動してくれた。わたしはそれを隣に座れというメッセージと受けとって、すこしばかり濡れた大理石に腰をおろす。


「避けてなんか、ないよ」

「今まさにぼくの顔をみてUターンしようとしていたじゃあないですか」

「だってジョルノ、とても忙しそうだったから」

「なんてことないですよ」

「……それに、最近あまり見かけなかったから……すこし、心配していたの」


 なんの気なしに口にしてしまった言葉だが、心配していただなんて、さしでがましかったかもしれない。 あくまで顔色は変えずに煩悶していると、髪を耳にかけようとした手を掴まれて引きよせられたと同時に唇をふさがれた。
 そのときわたしには一連の動作がスローモーションのようになって見えたけれど実際にはほんの数秒のできごと、だったろうと思う。


「こういうの、マーキングっていうんですかね」

「…………」

「まるでぼくは犬や猫のようだろうか」

「……え」

なまえ、キスは初めてですか」

「…………あの、はい……、すみません……」

「おかしな人だな。べつに謝ることじゃあない……謝るのは許可もとらずにしてしまったぼくの方だ」


 あの瞬間のことについては二年経った今もどんな些細なことも記憶している。持っていた本がバタバタと手から滑り落ちて、その音に驚いたハトが真っ青な空に羽ばたいて。まるでこの空間だけ切りとられ、フランス映画のワンシーンにでもなってしまった錯覚に陥った。
 今思えばそのときからわたしは、クロードルルーシュ作品の主人公にでもなったかのように、浮きたっていたのだろう。


「今のなまえの頬はシチリアのトマトよりも赤い。食べたらきっと美味いんでしょうね」


 そう言ってほほ笑んだ彼のまなざしは、わたしを好きだと言わんばかりの慈しみで溢れていたのだから無理もない。少なくとも当時のわたしにはそう見えたのだから。
 彼との思い出が胸をかすめるたび、あらぬ妄想を繰りひろげて落ちこむのが決まりだった。彼にとってわたしは、一度キスをしてやっただけの女で、いや、もしかすると、その事実さえ最初から留められてなく、彼の脳にはわたしの存在自体、刻まれていなかったのかもしれない。
 いくら思いかえせども解決する問題ではないというのに、この二年、幾度となく考えを巡らせては行き場のない思いをくすぶらせていた。何遍繰りかえしたって、わたしの双眼をとおしてみれば彼はそこそこ楽しくやっていたように見えたし、どうして彼がさよならも言わずにいなくなってしまったのかは見当もつかなかった。
 当時、彼がいなくなって面食らったのはわたしだけではなかったようで、周囲には憶測から生まれたであろうさまざまな噂が飛びかっていた。女の子を孕ませてしまったとか、ギャングの金に手をだして殺されたとか、親の都合で日本に引っこしたとか。わたしはその噂の真実や出所などはどうだってよかったし、たかがハイスクールの噂をたどることで彼が見つかるとは思えなかった。
 やがてその噂も下火となって、半年も経てば彼の名前すら耳にすることはなくなった。最後には彼がわたしの前からいなくなったという事実だけが残り、ゆるやかに、そして確実にわたしを悲傷させた。

 つまるところあれ以来彼は今の今まで、姿を現すことはおろかポストカード一枚だって送ってくることはなかったのだ。


「久しぶりですね」

「ジョルノ……?」


 わたしのキャパシティは彼の名前を呼ぶだけで精一杯で、容量オーバーした頭からは煙が立ちのぼっていたかもしれない。
 すこし背が伸びただろうか。目を合わせようとすると、わずかに顎があがる。背丈だけではない。肩幅も、声も、彼をとりまくなにもかも。もともと大人びた顔つきだったけれど、今やわたしを見据えるそのまなざしは大人の男性そのものだ。
 わたしたちティーンにとって二年の歳月は、別人に変えてしまうには十分すぎる長さだったのだろう。


「だいぶ探しましたよ。おかげで騒がしい人たちに見つかって、もみくちゃにされてしまった」


 そうだった。在学中も姿を見れば決まって女の子に囲まれていた。黄色い声が聞こえれば十中八九その周辺には彼がいると言っても過言ではないくらいだ。そんな彼が突然姿を消してしまって、ましてや卒業式に現れたとなれば一大事だ。きっと大騒ぎになったのだろう。襟を正す様子から、彼の困りはてた顔が目に浮かんだ。


「えぇと……ジョルノ?」

「そうですよ。ぼく以外になまえをファーストネームで呼ぶ男がいますか? もしかして、ぼくのいないうちに、大切な男ができてしまったんです?」

「そんな!」

「冗談です。なまえにそんな男はいないし悪い虫は一匹だってふれさせなかった」

「え……?」

「知ってますよ。なまえのことはいつだって見ていた」


 ジョルノはまるで言葉の先を制止するみたいに、すいと手を伸ばすと、そのままわたしの頬にふれた。


「今日という日を待っていました。複雑な事情があって、会うことはかなわなかった……ほんとうは今こうしてふれることも、危険なのだけれど…………でも、どうしても諦めきれなかったんだ」


 彼の言葉選びはらしくなく迷いにみちていたが、節々から意思の強さが伝わる語りぶりだった。
 いったい、なにがどうなっているのか。目の前にいる彼は本物なのか。無数の疑問が交錯して、わたしは相槌すら打てずに、処理し損なった感情がそのまま涙として湧きあがった。


「ぼくのところに来てください。決して日の当たる世界ではないし、安全とは言いきれないけれど……」

「あぁ……まずは涙を拭いてください。ぼくはなによりあなたを泣かせたくないんですよ」


 そう呟きながら彼は懐から白いハンカチを取りだし、わたしの頬にあてがった。いくら拭えども涙が止まる気配はなく、ハンカチの染みは広がるばかりだ。


「ゴールド・エクスペリエンス……」


 聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声で彼が呟くと、それまでただの布だったものがしゅるしゅると渦を巻き、やがて一輪の美しい薔薇に成長した。わたしの涙を吸収し育ったかのようなその様は、手品よりも魔法に近い。
 そうして今度はその薔薇を片手に、お世辞にも綺麗とは言えない床に片膝をつき誓いでもたてる姿勢でもって、真っ直ぐにわたしを見つめるものだから、涙もそれまでの驚きもすべて吹きとんでしまった。


「幸せにします、絶対に」


 金輪際、ぼくは知らせもなくなまえのそばを離れることはしない。きみを泣かせたり傷つけるものを葬ってしまいたい。ぼくがこの世のすべてからなまえを守りたいんです。
 まるでフランス映画のような歯の浮く台詞と、ハトが豆鉄砲を食ったような顔をしたわたし。これではまるであの日の続きをしているようだ。


「さあ言ってください。こんなに美しいシニョリーナを泣かせたのは誰です?」


 その台詞に、ふっと同時に笑いあう。彼がわたしを抱きしめる、そのはずみに薔薇の花びらが宙を舞った。





(2012.01/25 UP)(2019.07/07 修正)


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