飛んでいっちゃいたいなぁ。どこか遠く、うんと遠くに。
 それがこの女の口癖だった。


「疲れたぁ。ねぇ、早く帰ろうよ。車出して」

「一服ぐらいさせやがれ。つーかテメェなんもしてねぇだろ。なに疲れてんだよ、ボケが」

「ちゃあんとしたじゃん、情報収集」

「よく言うぜ」

「あ〜あ、こんな仕事ほっぽってどっか遠くに行きたい」

「うるせぇな……クソッ」

「ぶ〜んって、風に乗ってさぁ。飛んでいっちゃいたいよ」

「……そーかよ」

「わたしのことを知ってる人が誰一人いない世界で、静かに余生を送るんだぁ」

「余生って年じゃあねぇだろ」


 なぁ。その世界とやらは、俺も含めて『自分を知る者が誰一人いない世界』なのか? お前にとって俺は、そんなちっぽけな存在なのか? 忘れちまいてぇ記憶の一部なのか?

 初めてペアを組んだあの夜のことも。ふたりでひとつのジェラートを分けあった真夏の夕暮れも。気まぐれな猫みてぇにキスしてきた去年の冬も。すべて。

 質問攻めにしたい気持ちをぐっと押しこめて、俺は今夜何度目になるかもわからない舌打ちをする。拍子にタバコの灰が落ち、爪先を焦がした。


「だったらさっさと消えちまえよ」

「冷たいなぁ、ギアッチョは」

「どうせ引きとめたって行くんだろ」

「うん、行くよ。いつか絶対に」


 逃げんじゃあねぇよ。俺がそばにいるだろ。愛してるんだ。頼むからどこにも行かないでくれ。

 らしくない気障ったらしい台詞が胸の内を飛び交い、しかしどれひとつ口をついて出ることはなく喉の奥でつっかえて、やがて腹の底に沈殿していく。その繰りかえしだ。


「地球は丸いんだぞ」

「うん? 知ってるよ?」

「丸くて、そんで、海を挟んで繋がってんだから。きっとなんだかんだ、知りあいに遭遇すんだぜ、どこに逃げたってな」

「そうかなぁ。きっとあると思うけど。アジアのちいさな村とか」

「地球の裏側にいたって縁ありゃ巡り会うんだよ」

「なぁんかそれって運命的だねぇ。ギアッチョったらロマンちっく〜」

「うっせぇな。……クソッ」


 胸を打つ愛の言葉も、でまかせすらも吐きだせない臆病者には、地球球体説を語るくらいしか惚れた女を繋ぎとめるだけの言い訳が見つからなかった。





(2020.10/11 加筆修正し再掲)


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