夜露に濡れた石畳の上に、ふたつの影が並んでいる。今夜は月が明るく、デートにはあつらえ向きの夜だった。とくべつなディナーのあと、ギアッチョとなまえは十秒ごとにキスを交わしながら、彼女の家へと向かう。
色あせた赤い屋根。ペンキの剥がれた壁。そのうえエントランスの階段は十三階段ときている。不吉だ――、ギアッチョは眉をひそめた。
足音の響く廊下を越え、ドアに彼女を押しつけて長いキスをする。一日のしめくくりにふさわしい、甘く情熱的なくちづけであったが、今夜のふたりには物足りなかった。
「ああ? 開かねえぞ」
なまえのかわりに鍵を開けようとしたギアッチョだったが、鍵穴は滑りが悪く、ぎりぎりと不快音をたてるばかりだ。
「コツがあるのよ。すこし下にこう……ぐっと、押しこみつつ回すの。……っほら。開いたでしょう」
「まどろっこしーなァッ! 引っ越せよ、ンなボロ屋」
「いやよ。家賃が安いんだもの。ボロじゃなくて歴史的建築物って言って。古くても改装されて水回りは綺麗なんだから。それに――」
ふたりで一緒に入れる大きさのバスタブがあるのよ、と彼女はあやしげに口角を上げた。鍵と同じく、古びたドアはぎいいと鈍い音をたてて開く。
「今日……楽しかったわ」
「俺もだ」
「またね、おやすみ」
「待てよ。入れてくれないのか」
こういうとき、ギアッチョは自分がおやつをねだる子犬のような表情をしていることに気づいていない。
「なァ……頼むよ」
そして、そんなギアッチョを見たなまえが、愛しくてたまらない、というふうに目を細めることにも。
一度は閉じられたものの、間もなくして「コンコンコン」と急き立てるようなノックとともに、ドアの隙間からギアッチョが顔をのぞかせた。
「ギアッチョ? どうかした?」
「歴史的建築物の見学ツアーに来たんだが……この部屋であってるか?」
「……ふふ。こちらへどうぞ、お客様」
「グラッツェ」
室内は外観ほど築年数を感じさせない作りになっていた。ギアッチョは彼女に手を引かれるままリビングにたどり着くと、さり気なさをよそおって部屋を見まわす。
テレビはないがラジオと新聞がテーブルに置かれている。大学を休学し、新聞社でアルバイトをしている彼女らしい部屋だとギアッチョは納得した。
「いらっしゃいませ。さあ、こちらの椅子におかけください。ポンペイウスがルッカ会談でこしかけていた椅子よ」
「そりゃあスゲエ。紀元前のお宝じゃあねーか」
「ほかにもあるの。これを見て――」
ふたりは冗談を言いあいながら、なまえいわく「クレオパトラの使っていたバスタブ」に入り「カエサルの実家にあったベッド」で眠った。はじめての夜だった。
まだ夜も明けきらないうちに目ざめたギアッチョは、暗闇にぼんやりと浮かぶなまえの寝顔を見つめていた。眠りが浅い体質は、職業柄なのか、生来の神経質が作用しているのか、彼自身にもわからない。
なまえを起こさないようにベッドから出ると、軋む床にいらだちながらバスルームに向かう。洗面台のラックには、女物のファッションに疎いギアッチョでも判別がつくブランドの化粧品が散見された。そんなものに金をかけるくらいなら、もうすこしまともな、せめてオートロックのついた家に住んだらいいじゃあねえか、まったく女って生き物は、不用心だろうが、クソが――。ギアッチョはやり場のない鬱憤を流すように顔を洗った。
ポンペイウスの椅子にこしかけ、携帯の着信履歴を確認する。リゾットからの着信が一件。留守電にメッセージまで入っているのはめずらしい。急ぎの任務だろうか。
『手が空いたら来てくれ』
メッセージはただ一言だった。
なまえに仕事について話したことはない。
「ごみ処理みてーなもんだ」と説明したのでごみ収集のドライバーだと思われている。今はそれでも構わない、が、かと言って、いつか打ち明けるつもりもギアッチョにはなかった。
なまえはかつてギアッチョが付き合ってきた女(ストリッパーや同業者)とはあきらかに違う。一般市民、いや、それどころか彼女は、南スーダンだとかシリアだとかで子どもたちを支援する募金箱に釣り銭を入れてしまう女だ。ごみ処理≠フ事実を知れば拒絶されるという確信がギアッチョにはあった。
彼女との今後を考えると、ギアッチョはらしくなく不安になり、無性になまえの顔が見たくてたまらなくなった。
衝動に駆られて足音も気にせずベッドルームへ戻る。
その気配で目をさましたなまえが、体をよじったあと、眠そうに目をこすって薄闇のなかからギアッチョを見つけだす。
「ギアッチョ……? 早起きね」
「わりィ、起こしたな。仕事が入っちまった」
「今日はお休みだって言ってたじゃない」
「どうやら急用らしくてよォ……」
「すぐに行っちゃうの?」
「いや。昼まではここにいるぜ」
それを聞いたなまえは安心したようにほほ笑むと、布団をまくりあげ、ギアッチョを招きいれた。冷えていたギアッチョの体は、柔らかく温かい彼女の肌によってすこしずつほぐされてゆく。
「出会った日のこと、おぼえてる?」
真っ白いシーツに包まれたなまえは、ギアッチョの肩を撫でながら語りかけた。
「広場でジェラート食べてたら――」
「忘れねえよ。ンなとこでジェラート食うありえねーマヌケは、観光客とお前くらいだからな」
「だって、引っ越してきてすぐだったんだもの。ほぼ観光客よ」
あの日を思いかえすたび、ギアッチョの胸の奥には陽だまりに似た温かさが蘇る。天気のいい春の昼下がりだった。
教会の前の広場を通りがかったとき、アジア人観光客に混ざってジェラートを食べる女の姿が目に入った。陽の光をあびて佇む彼女の周囲は、その一角のみ切りとられた絵画のように高尚で、輝いてさえ見えた。ギアッチョは思わず足を止め、その場に立ちつくす。やがてそこに画家らしき風貌の男が近よってきて、彼女の前にイーゼルを置いた。「あぁ、なんて美しい。まるで天使のようだ。ぜひモデルになってくれよ」などと甘言を弄する。スリの手口だ。
ギアッチョが睨んだとおり、背後からもうひとり男がやってきてなまえの鞄に手を伸ばした。普段であれば男のあとをつけて、盗まれた財布と、そいつ自身の財布まで奪っていたかもしれない。だがその日のギアッチョは違った。美人に貸しをつくるのも悪くない、そんな気まぐれで、彼女の財布を取り返し、ついでに画家をぶん殴ったのだった。
「ギアッチョが、わたしを助けてくれたのよね。ちょっと荒っぽいやり方だったけれど……」
なまえはギアッチョの手をとり、その指先にくちづけ、
「やさしいひと」と囁く。
俺を優しいなんて言う人間は世界中探したってなまえだけだろう、とギアッチョは自嘲ぎみに笑う。こんなとき、ギアッチョはうしろめたさに苦しめられると同時に彼女の前でくらいは善人でありたいと愚かしくも願うのだった。
現に、なまえとのデート中、ギアッチョはまともなふりができた。すくなくとも彼女の前では運転中に赤信号が続いてもダッシュボードを蹴り壊さないし、ささいな言葉の綾にもつっかからない。
「いつも人助けをしているの?」
「なわけあるか。俺は美人しか助けねー、よッ!」
ギアッチョが勢いをつけてなまえの体に覆いかぶさった。そうしてふたりは子犬の兄弟のようにじゃれあうと、夢のなかに落ちてゆく。
ギアッチョが次に目ざめたとき、部屋には朝の気配が漂っていた。コーヒーの香りに導かれリビングへ行く。ポンペイウスの椅子にこしかけ、真剣な面持ちで新聞を読むなまえがいた。数日前にギアッチョが始末したジャーナリストについての記事が一面を飾っている。
「おはよう、ギアッチョ。コーヒー飲むでしょ?」
「あぁ」
「怖いわねぇ、暗殺だって」
「……」
なにも言う必要はない。ギアッチョは内心で自分に言い聞かせた。このままでいい。知らなければ見えているもののみがいずれ真実に変わるはずだ。
「そうだ。これを預かってくれない?」
不意になまえが差しだしたのは鍵だった。
「……いーのかよ」
「いいのよ。開け方はもうわかるでしょう?」
鍵を回す身振りをして、ギアッチョが、
「下に押しこみつつ回す。……だろ?」
と言うと、なまえは満足気にほほ笑んだ。
ギアッチョはそれを受けとると、一旦はポケットにしまいこむも、落ちつかない様子でふたたびポケットに手を突っこみ鍵をさわった。女に合鍵をもらうのは初めての経験だったし、まだ知りあって間もないというのに、よりによって自分のような男を信用してしまうなんて、彼女はどうかしている――そんなふうに、彼女の迂闊さを危ぶみつつも、ギアッチョは喜びを隠しきれなかった。ポケットのなかで眠るちいさな鉄くず。それがほんものかどうか確かめるように、親指で撫でつづける。
「いいお天気ね」
なまえがリビングの窓を開けた瞬間、気持ちのいい風が入りこんで、彼女の髪と花瓶の白い花を揺らした。
▼ ▽ ▼
「へぇ……花を飾るような女と付き合ってるのか」
アジトのソファで居眠りをしていたはずのメローネは、いつの間にかギアッチョの背後に忍びより、その耳元で囁いた。
「――てめッ! なァにしやがるッ!」
「なにもしてないさ。……耳が感じるのか?」
「〜さっわんじゃねえーッ!」
メローネはギアッチョの肩口についた花粉を目ざとく見つけ、指でなぞった。他人の、ことギアッチョのプライベートを詮索するときのメローネの嗅覚は鋭い。
「どんな女だ? なあ、教えろよ。写真はねえのか」
「てめぇに関係ねえだろーが」
「クンクン……香水はディオールのディオリッシモか。お育ちがよさそうだな」
「や! め! ろ!」
ギアッチョが蹴りを連発するも、メローネは奇妙なほどの柔軟さでそれらすべてを避けてみせた。
なまえをこんなやつらの目に晒してはいけない。ましてやメローネになど。彼女に暗殺業を隠しているのと同じように、こちらの世界でも彼女の存在を知られるわけにはいかないと、ギアッチョはあらためて心に誓うのだった。
「おい、リゾットはどこだ?」
「奥で寝てるぜ」
「チッ……オフの日に呼びだしといて昼寝かよ」
「仕方ねえよ、あの人は夜型なんだ。すこしここで待ってなよ。いくらギアッチョでも待つくらいできるだろ? ほら、ピザでも食ってさ」
メローネが差しだした皿には数日前のものと思しき乾燥した切れ端が乗っている。
「それ、三日前のだぜ」
と、意に介さないながらも忠告したのはプロシュートだった。
ソファで新聞のお悔やみ欄を眺めている。始末したやつらの名前を探しているのだろうか、とギアッチョは考えた(プロシュートの殺しは検死が行われても老衰による自然死と診断されることがしばしばあるのだ)。
それは今朝なまえが読んでいた新聞と同じものだった。ジャーナリスト、自宅で変死、という見出しが大きく並んでいる。
「……ったく、おせーぞリゾット」
眠気をまとったリゾットがあらわれたのは、一旦家に帰ろうかとギアッチョが腰を上げかけたときだった。
「悪いな。さっそくだが仕事だ」
リゾットから任務のファイルを受けとるとき、ギアッチョはきまって面接官にでもなった気がした。
名前、住所、年齢、職業、顔写真が何枚か。まるで履歴書のようだがこの書類には本来あるはずのない期限≠ェ記されている。その人物の寿命。殺しのタイムリミット。何月何日何時何分と詳細に指定される場合もあれば夏までに≠ニかだいぶ適当なこともある。
それは医者がする余命宣告よりも遥かに正確だ。どういうわけか自然治癒しました、などという奇跡は起こらない。万が一ギアッチョがしくじっても代役は大勢いるし、たとえ暗殺チームが投げ出したところで、別の人間が手を下すまでだ。一度暗殺リストに乗ってしまったら、この国のどこにも逃げ場はない。死神は影のように忍びより、必ずターゲットを見つけだす。それが組織の恐ろしさだとギアッチョは思う。
「チッ……三件もあんのかよ」
一件目、男、ヘロインの売人、今月中に、殺害方法問わず。近頃品物に手を出すマヌケが多い。無駄な仕事ほど増えていくものだ。
二件目、男、街のチンピラ、年内に。この顔には見おぼえがあった。よく街の酒場でくだを巻いているジジイだ。
せめてターゲットがクソ野郎どもでよかった、とギアッチョは安堵した。始末するのがこんなろくでなしばかりであれば、もしかするとなまえも、わずかながら理解を示すかもしれない。罪のない女子供を嬲り殺すわけではないのだから。ギアッチョは、そんなふうに考え始めた自分にとまどう一方で、諦めていたはずのふたりの未来に光がさしたような心地だった。
三件目の依頼書をめくる。女――
「おい、リゾット……この女をやる理由は」
馬鹿なことを口走った、ギアッチョがそう思ったときにはもう遅かった。
「――理由? おい聞いたか、殺す理由だとよ!」
プロシュートの大笑いを聞きつけたメローネがすぐさま駆けよってくる。
「どれ、見せてみろ。……あーこりゃあ美人だ。なぁプロシュート、アンタならどう殺す?」
後ろから写真を引っ張りとられたが、ギアッチョは微動だにしない。アジトには高笑いと煙草の煙が渦巻いて、禍々しさが充満している。
「まぁたしかにいい女だが……女とガキはやりたくねえってか? お優しいこった」
「おいおいギアッチョ〜、最近らしくねえなと思ったが、いったいどうしちまったんだァ? お前がやりたくねえってんなら俺が喜んで代わってやるぜ。あぁ、この女ならスタンドを使う必要もないな。縛りあげて、つま先から順にナイフで切りつけて――」
ギアッチョはかろうじて「黙ってろ」と掠れた声が出たが、その場にいた誰の耳にも届かなかった。
リゾットはギアッチョの手からファイルごと引き剥がし、資料に目を通す。
「議員の娘だが、今は家を出てずいぶん警備のゆるい家に住んでいる。だからこそ狙いやすい。見せしめにしてやれば家族の身を案じた父親は、組織の息がかかった議員になるかもしれん。ボスの目論見はそんなところだろう」
リゾットは手元の資料に目をやったまま淡々と説明すると、最後に念を押すようなまなざしでギアッチョを見据えた。
「急ぎの仕事だ。お前が行かないなら代わりに――」
「俺の仕事だ。俺がやる」
「……そうか。今夜中に済ませてくれ」
「わかってる」
そうしてリゾットからファイルをひったくると、ギアッチョは足早に立ち去った。メンバーの呵々大笑に見送られながら。
ターゲットの家に向かう途中、ギアッチョは歩きつつ電話をかけた。なまえの声が聞きたい。聞きたくない。どうか許してくれ。許さないでほしい。呼びだし音が鳴っている間、ギアッチョは不毛な自問自答を繰りかえす。
「…………もしもし」
「起きてたか?」
「うん。……嘘。寝てたわ」
「それならいいんだ」
「どういうこと?」
「俺は寝てる女を叩き起こすのが趣味なんだよ。とくに用もねえのさ」
「素晴らしい趣味ね」
「そうだ。俺はひどいクソ野郎なんだ」
「おやすみ。愛してるわ、ひどいひと」
「……愛してる」
愛してる。最後の一言が、苦くいつまでも口に残った。
こうなるとわかっていたら、とギアッチョの胸は惨憺たる後悔とやるせなさでいっぱいだった。
あの日、スリに狙われるなまえを見過ごしていれば。お礼にコーヒーを奢るという彼女の誘いを固辞していれば。出会わなければ。出会わなければ、互いになにも知らないままでいられた。ターゲットが悪人であるとかないとか、そんなくだらない考えには至らなかった。命じられる殺しになんの迷いも疑いも抱かず苦悩の真似事もせずにすんだのに――、ギアッチョは唇を噛む。
夜露に濡れた石畳の上に、ひとつの暗い影が伸びている。今夜も月が明るく、暗殺日和とは言いがたい。
調査資料に記された住所はここで間違いなかった。もう何度も、穴があくほど確認した。
ターゲットの部屋の明かりが消えてから、ギアッチョはたっぷり一時間、路地裏で煙草を吸いつづけた。朝焼けを待つような切実さで窓を見つめるも、ふたたび部屋の明かりが灯されることはなかった。足元の吸い殻の山が崩れ、ニコチンのとりすぎで頭痛がする。これで終わりにしようと心に決めて、最後の一本に火をつけた。煙草はそのほとんどが夜風に揺られ、ギアッチョの体にとりこまれることなく灰になって消えてゆく。
『急ぎの仕事だ。お前が行かないなら代わりに――』
ギアッチョは、リゾットが言いかけた言葉を思い出していた。代わりに俺が、とでも言うつもりだったのか。リゾットの始末した死体はひどいものだ。死に顔がその苦しみを物語っている。あれに比べれば俺のほうがいくらか楽に殺してやれるだろう、ギアッチョはそのように、祈りに似た言い訳を胸に並べた。そうして、とっくにフィルターまで火が到達した煙草を踏み消すと、街灯の下に歩きだす。
色あせた赤い屋根。ペンキの剥がれた壁。エントランスの十三階段。足音の響く廊下。
重苦しい深呼吸のあと、ギアッチョは調子の悪い鍵穴に温かくなった鍵をさしこんだ。下に押しこみつつ回すのよ。暗闇から聞こえるはずのない声が聞こえる。
(2019.03/25 UP)(2019.07/07 修正)
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