なんの仕事をしているのか定かではないけれど、わたしの恋人は三日だとか二日だとか、ときには何週間も家を空け連絡すらよこさない。今夜も「戻らなかったらほかに女ができたとでも思え、じゃあな」だなんて心にもない、きっと心にもない捨て台詞を吐いてネアポリスの闇に消えてしまった。
 置きざりにされたふたり分の夕食が静かに熱を失ってゆくのを、彼のお気に入りの毛布に包まって眺めていた。ベージュの毛布はふかふかで愛しいにおいが染みついている。こんな夜は、不安と寂しさに翻弄されながらまどろみに落ちるのだ。いつも決まって初雪が降る暗い夜の夢を見る。
 冬のひとひらが石畳に涙のような黒い染みを作っていく様子を窓の外から見まもるわたしはどういうわけかひどく悲しんでいる。名もなき雪片の死を嘆いているのかもしれない。人知れず消えた淡雪は、いったいどこへゆくのだろうかと。
 夢のなかのわたしは感傷的で、耽美主義を思わせる佇まいをしているのだった。


「――い……、おい、ンなとこで寝てっと風邪ひくぞ」


 肩を揺さぶられて、耽美主義から楽観主義に早変わりしたわたしの目に飛びこんできたのは、どこか心配そうな影を揺らす彼の双眸だった。
 急な出張から戻った彼は毎度ボロ雑巾のようにくたびれていて、今日もどこでなにをしていたのか自慢のカーリーヘアが乱れ、首筋には汗が乾いた跡がみられる。
 まるでトライアスロンでアドリア海でも横断してきたような雰囲気だが、そういうわけではないのだろう。確実にわたしには知りえない別の顔がある。


「おかえり」

「おう」


 とうに冷えてただの甘い泥水になりはてた飲みかけのコーヒーに口をつける彼の眉間にはしわが刻まれている。まずいという意思表示ではなく、単にこれが彼の飲食をするときの表情なのだ。


「おうゥ?」


 「帰ってきたらなんて言うの?」親が子に言いきかせるような口調で尋く。
 彼の洋服のボタンをいじりながら返事を待った。
 一番下のボタンが取れかかっている。彼がこのシャツを洗濯籠に入れたらそっと取りだして縫いあわせよう。気まぐれな妖精のいたずらみたいに。


「チッ……ただいま」


 ぶっきらぼうに帰宅の挨拶をし、わたしの鼻をつまんだ彼の手はなぜだか妙に温かかった。まだ肌寒さが残る三月の真夜中。薄着で出歩いていた人のものとは思えないそれに、はっと目を開き、緩やかに閉じる。問いつめたところで彼を無闇にイラつかせるだけだし、どうせ答えてはくれないのだろう。彼の体温はときどき、心音をたしかめたくなるほどに冷えていたり、不自然に温かかったりする。


「もぉ〜、遅いよぉ。女とパリは留守にしちゃだめだってシェイクスピアも言ってたじゃん」

「アァン?! シェイクスピアじゃなくてナポレオンだろ〜がッ! アァ!?」

「そんなことよりただいまのキスして」

「なァ〜にがただいまのキスだ」


 悪態をつきながらもちゃんと唇を重ねてくれるあたり、わたしと彼は極めて相性のいい、似合いの恋人同士だと言えよう。それだけにノストラダムスの予言の頃から2001年の今まで小さな喧嘩こそあれ、それなりに仲良くやってこれたのだ。


「馬鹿女が」


 こういう挨拶のキスをするとき、決まって彼の唇は小鳥のように可愛らしい音を残して飛びたっていく。ちゅんちゅんちゅんっ。今日もまた一羽の雛が羽をひとつ落としていった。


「ずぅ〜っと待ってたんだよ、心配しすぎて胸の奥がズキズキしてたし」

「……ずっと居眠りこいてたの間違いだろ、バァカ」

「寝ながらギアッチョを待ってたの、夢のなかでね」

「ア〜、わーった、わーった」

「その言い方ひどくない〜? どうでもいいっつーのよぉ〜ぼけが〜って感じぃ」


 無造作に上着を脱ぐ彼の背中はどこか寛大に見えた。
 なおも夢の話を続けようと、彼の後ろをぴったりついて歩くわたしは、さながらドット絵ゲームの仲間たちだ。彼が勇者ならわたしはつねに一歩後ろを歩む僧侶でありたいと思う。戦いで傷ついた彼の体を癒すべく上級の回復呪文をマスターするのだ。たぶん今はまだホイミくらいしか出せないけれど。


「ギアッチョ、お風呂? 一緒に入る?」

「入らねーっし! オメーはとっとと寝やがれってんだクソアマ〜ッ!」

「声、おっきぃよ。しーだよ、しー」

「ガキに注意するみたいな言い方すんな! 舐めやがってェ〜イラつくぜ〜ッ!」


 お湯の沸騰を知らせるヤカンのようなやかましさだ。しかしバスルームに向かったはずの彼の足は、キッチンを横切るあたりでぴたりと停止した。
 夕飯のシチューがそのままになっていることに気づいたのだろうか。カーリーへアの隙間から覗く片眉はマッターホルンの頂のように屹立し、額にはテヴェレ川ほど立派な青筋が浮きあがっている。彼の怒りは大自然のエネルギーを彷彿させるのだ。


「……てめェ、まだ飯食ってなかったのか」

「だって、ギアッチョが帰ってきてから一緒に食べたかったんだもん」


 わたしが「もん」と言うのに被せるタイミングで、落雷の規模の舌打ちがとどろいた。
 彼は物心ついた頃からこういうしゃべり方の女を前にすると舌打ちせずにはいられない病に犯されている。たとえ相手が愛しい恋人だとしても回復の兆しは見られないのだから、ブラックジャックですら匙を投げる病状だろう。
 できるかぎり彼の癇に障らない言葉遣いを心がけているのだが、彼がその持病を克服できないのと同じように、わたしとて従来の話し方というのは古いカーペットの汚れみたいに一度染みついてしまったらなかなかとれないのだ。


「……一生帰ってこなかったらどうすんだよ」

「じゃあ一生食べないで待ってる」

「死ぬぞ」

「死んでもいいもん」


 がしゃん、と不穏な音が部屋の空気を震わせた。
 音の源を追うより早く、彼の手が素早く伸びてきてわたしの顎を掴んだ。
 カップの破片が床にぶちまけられているのを目の端でとらえる。持ち手の部分だけ彼の指に絡んだまま残っているのがおかしかった。


「いいのか」


 ――いいのか、おれが、ころしても。

 一息ごとに唇の隙間から吐きだされる息は白い。


 全身の血が沸騰してしまったように見える彼の体は、実際のところその逆で、冷えきっているのだろう。彼の憤りとやるせないほどの愛情が、冷気をまとう手のひらから伝わってくる。
 徐々に力も冷気も強まっているようで、わたしの頬をわし掴みにしている片手は冷たいを超え、痛みを与え始めていた。
 爪先立ちになった足はわずかに震えているが恐怖からではない。日頃の運動不足がたたっているのだ。

 互いの鼻先がぶつかりそうなほど間近で凄まれても、わたしの意識は彼の少し尖った犬歯の可愛らしさだとか、赤子のようにヒクヒク痙攣する瞼の動きに向いている。


「いいよ」


 あなたになら。魂を削ってつめこんだ三文字は、頬を掴まれてタコの口みたいになっていたせいか、彼の胸にはさほど響かなかったようだ。いらだちと懐疑を孕んだまなざしが突きささる。この期に及んでわたしの気持ちを疑うなんて彼は相当なおばかさんだ。
 ジミ・ヘンドリックスを口ずさみたくなる気持ちがいい晴れの日にも、呼吸を止めてマスカラを塗っている金曜日も、ニンジンの皮を剥くときも、歯磨きするときだって、いつだって彼のことを思っているのに。
 冷えたシチューの前で餓死するよれよれの自分を想像してみる。自分の死に様と言うのは意外と容易にイメージできるものだった。
 どうか、ピラミッドの奥で眠るいにしえの王族のように変わり果てた亡骸を見て彼が腰を抜かしたりしませんように。わたしのことなんてすっかり忘れて、どこか遠くの美しい海の広がる街で、聡明なブロンド美女と幸せな家庭を築いていますように。


「ギアッチョ……?」


 ふいに、瞳に哀しみの色が射したような気がして、彼の手にそっと自らの手のひらを重ねあわせる。手の甲のコリコリした部分をさすっていると、次第に力が抜けていくのが感じられた。
 彼がなにか言おうかと口を開きかけた瞬間、その尖った唇の先に人差し指を押し当てる。ざわめきだした地獄の釜を封じる、わたし流のおまじないだ。


「シィ、……」

「……アァ?」


 人差し指を押しあてた後はリップを塗るように唇の縁をなぞってゆく。三週目にさしかかったあたりで、我に返った彼が「オメーよぉ、ったくよぉ」とぼやきながらわたしの指をガジガジ甘噛みし始めた。スピルバーグが撮った映画でこんな恐竜を見た覚えがある。


「……馬鹿女」

「でもそんなところが好きなんでしょ〜?」

「悪りぃか」

「も〜ギアッチョったら素直じゃな…………えっ?」

「だからオメーには幸せになってもらわねーと困るんだよ。死ぬとか、軽々しく口にすんじゃあねぇ……クソが」


 クソ、と罵る口とは裏腹に抱きよせかたは完璧なジェントルマンだった。次いで後頭部をとん、と優しく叩かれる。その手のひらには赤ん坊のオムツを取りかえたあとにするみたいな優しさがつまっていた。


「ねぇギアッチョ、わたしの幸せはギアッチョがいないとだめなんだよ」

「あぁ」

「お仕事なんてやめちゃいなよ。わたしがいっぱい働くから。ほら、ギアッチョの好きなバール、カメリエーラを募集してたの、きっと制服も似合うよ、ねぇ」

「あぁ」

「ギアッチョ、約束だよ。わたしを一人にしないで」


 いくら待てども望ましい返事は返ってこなかった。代わりに痛みを覚えるほどの強い力で抱きしめられ、呼吸すら危うい。部屋中を沈黙の虫が這いずりまわり、足の指の隙間でうごめいている気配がした。


 瞼を閉じてふたりの未来を思い描く。
 ある日、帰宅した彼が、いかにも切羽詰った様子で荷物をまとめろと命令する。わたしはスーツケースに必要最小限の洋服と彼からもらった思い出のテディベアだけをつめこんで、愛の巣に別れを告げる。着の身着のまま夜を渡る世捨て人のふたり。行く先々には彼をつけ狙う悪魔の影が忍びより、しぶとくわたしたちの行く手を阻む。だけどなにがあろうとふたりなら怖くない。ことあるごとにわたしはそう呟く。道ならぬ恋の末駆けおちした恋人たちみたいに。
 地の果てまで逃げて逃げて逃げつづけて、いつか落ちつける場所が見つかるならそのためなら人としての一線を越えたっていい。親も友もなにもかも捨て、あるかどうかも疑わしい楽園を探しつづけよう。


「腹、減ったなァ」


 嘘でもいいから言ってほしかった。必ず帰ってくると、ひとつ頷くだけでも。





(2014.11/04 UP)(2019.07/07 修正)


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