ソファに腰かけ、本を読むぼくのそばに来た彼女はなんだかあまりに落ち着きがない。下手な鼻歌を歌ったり、貧乏揺すりをしたり、意味ありげにため息なんてついたりして。

それに、なによりぼくの気を散らせるのはこれだ。


「あの」


穴の開いたデザイン(それを彼女は虫食いと揶揄する)のスーツの、そのくぼみのなかを、ちいさく冷たい指先で突ついたり撫でたりする。
スーツの下は素肌だからくすぐったくてたまらないし、穴が広がってデザインが崩れでもしたらと、さきほどからぼくは気が気じゃあないのだ。なんたってこのスーツはぼくの給料まるまる一か月分はくだらない。


「さっきから君はなにをしているんだい」

「フーゴの穴に指を入れてる」

「……嫌な言い方をしないでくれ」

「うふふ」


ぼくはこの、彼女がいたずらっぽく笑うときの、泣いたみたいに細くなる目を気にいっていた。本人には伝えないけれど、すごく可愛いと思う。

あきらめて分厚い本を閉じると、その瞬間を待ちかねていたかのように彼女の飼い猫がぼくの膝へ飛びのってきた。
つい先日まで子猫だったはずの黒猫はいつのまにか片手じゃ抱ききれないほどに成長していた。平穏に過ぎていく日々のなかで、こんなときにふと、揺るぎない時の流れを感じる。
彼女との思い出はどれもこれも箱にしまって、色あせないよう大切に保管しておきたい、かけがえのないものだが、ときどき日常のせわしなさのなかに、なにかを落とし忘れてきたような焦燥にかられる。
長い付きあいの恋人はみなそのような不安をくすぶらせているものなのだろうか。ぼくは過去に1シーズン以上を共にした相手がいないから、その感覚がわからない。倦怠と安穏の違いすらも。


「あっ、ずっる〜い!」

「なにがずるいんだ」

「ずるいずるい〜とにかくズル〜い!」


ぼくが猫をなでていると、彼女は唇を尖らせて不満を唱え始めた。飼い主を差し置いてぼくになついているのが気に食わないのだ。
膝の上の黒い毛玉と彼女の黒い髪を交互になでていると、やがて怨み言を漏らす唇は閉じられ、両者は、正確にいうと一人と一匹は、満足そうに瞼をおろした。
窓から差しこむ明かりは、淡いオレンジ色に染まり始めている。今夜はなにを作ろうかな。





(2020.10/11 加筆修正し再掲)


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