恋人の夢を見た。
彼女は俺の腕のなかでめそめそしくしく泣いていた。わけを聞いても答えないし頭を撫でつまらない冗談を吐いても、泣きやむ気配はなかった。どうしたものかとなかば途方に暮れていると、どこからか携帯電話の着信音が鳴り響き、しかしおかしなことに部屋中ひっくり返す勢いで捜索しても一向に発信源は見つからない。
間もなくしてその眠りからは目覚めたのだが、さきほどと同じ着信音が聞こえているせいで、いまだ夢の続きのような感覚だった。震える枕の下に手を伸ばし、眠気にあらがいつつ確認すると、待ち受け画面には7時14分、日曜日と表示されている。通話ボタンを押したと同時に、か細く、それでいてやたらと鼻にかかった女の声が聞こえた。
『ホルマジオ、もう、だめ。わたし、死んじゃうかも』
「……ん、なまえか?」
『クシャミが止まらなくって、鼻水も……ちょっと熱もあるし、っくしゅっ!』
「……」
彼女は花粉症とやらがどれほど深刻で生命にかかわるのかを懸命に訴え、自身をこうも追いつめ不幸に至らしめた体質をなげき、春という季節の無粋さを唱えた。俺はそれに対して、寝起き特有の声で相槌を打つ。
当然、クシャミや鼻水が数日続いたくらいでほんとうに「死んじゃう」わけないことぐらい俺だってわかっている。けれど「死んじゃうかも」なんて、好いた女に弱弱しく言われたら無視するわけにいかない。男として。人としても。それがいついかなるときであろうと。
そんなこんなで俺はめずらしく日曜の朝に二度寝することなく、眠い目をこすりバスルームに向かうのだった。
▼ ▽ ▼
花粉症ってやつはまったく難儀な体質だ。風邪に似た症状がワンシーズンも続くなんて、俺ならきっと耐えられない。まるで地獄だ。
本来なら冬が厳しく長いほどに春の美しさと穏やかさが身にしみるものだが、彼女は一生この清々しさを味わうことができないのだから、春を憎み、朝っぱらから他人の都合を顧みず泣き言をぶちまけたくなるのも頷ける。
皮肉なことに今日は一段と晴れやかな陽気で、小鳥がさえずり、暖かい風が花びらを舞いあげて青空に美しい彩飾をもたらしていた。俺は彼女のぶんまで季節の移ろいを享受しようと、目を細め、肺いっぱいに空気を吸いこむ。
「なまえ〜来たぞ〜、入るからな〜」
チャイムを鳴らしても返答はなく、仕方がなしに合鍵で部屋に入った。
ここ数日はろくに換気もしていなかったのだろう、室内にたまった空気は淀んでいて埃っぽかった。せっかく素晴らしい天気だというのに、射しこむ日差しが忌々しいとばかりに窓もカーテンも閉めきられ、部屋は薄暗い。
一瞬、いたずら心から窓を全開にしてやろうかとも思ったのだが、十中八九罵詈雑言が飛ぶだろうと予感し、かわりに部屋の照明をつけた。
リビングには脱ぎすてられた服や、雑誌、食べちらかしたスナック菓子のゴミ、いつ淹れたか定かじゃないようなコーヒーなどが散乱しており、明かりをつけたことを後悔させる有様だった。スタイリッシュなデザインだったはずのダストボックスには丸められた鼻紙がうずたかく積まれ、症状の悲惨さを物語っている。
ゴミの発生源はいったいどこになりをひそめているのかと、あたりを見まわすと寝室の方から毛布のカタマリがずるずると不気味に這いでてきた。
「ホルマジオ〜」
鼻声で俺の名前を呼びながら腰に抱きついてくるなまえは、さきほど電話をよこしたときよりも衰弱しているように見えた。あの「死んじゃうかも」発言はそれほど誇張されたものでもなかったらしい。こんなことならもう少し急いで駆けつけてやればよかったと罪悪感を抱きつつ、若干細くなった体をそっと抱きしめてやる。
「よォ〜。オメー大丈夫かァ?」
「だいじょぶじゃないよぉ〜。もう最低」
「よしよし、かわいそうになァ〜」
「ホルマジオ、会いたかったぁ〜」
「俺も会いたかったぞ〜、オメーの夢見るぐらいなァ〜」
「夢〜? 嘘だぁ」
「マジだって。おぉ、それよりちょっと痩せたんじゃねぇか? 飯は食ったか?」
「食ってない」
「食欲もないのか?」
「お腹はすくよ。でも、なにもやる気がしないんだもん、買い物にも行けないし」
「オイオイ、それじゃあ死んじまうだろォ〜」
「そうだよぉ〜だからホルマジオに助けてもらおうと思ったんだもん」
ホルマジオのほかに頼りになる人なんていないし。なぁんていかにも甘ったれた台詞を、潤んだ瞳を上目遣いにして囁かれたら、それが空世辞だとわかっていても頬が緩んでしまう。
俺の胸でぐずぐずと鼻をすする姿を見ていると、彼女に対する愛しさが急激に高まって、あぁ、キスしてぇな、と思った。思ったときにはすでにその小さな唇に自らのそれを重ねあわせていた。深く、長く、舌を絡めながら。
ややあって、なまえが両手をめちゃくちゃに振りまわして暴れ始めたので、はっとして体を離すと、ただでさえガードの薄い頭を一切の手加減なしにぶん殴られた。
「痛てぇ!」
「っぷはぁ、……なにすんのよ! 口呼吸しかできない状態の人間に、キスするなんて馬鹿じゃないの?!」
あぁ、なるほど。それはごもっともだ。
「危うく死ぬところだった」と青ざめているところをみると、今度はほんとうに死を覚悟したのかもしれない。悪いことをしてしまったなぁと素直に反省し、誠意をこめて謝ったのだが、なまえはその充血した目で俺を睨みつけ、おまけに大きなクシャミを吹きかけられた。
体調がすぐれないときの彼女はいつにもまして気性が荒い。油断すると、めためたに痛めつけられる危険がある。したがって「発情期の猫みてぇに凶暴だなぁ」という感想は心のなかだけに留めておく。
「まじで悪かったよ」
「……」
「オメーが可愛いもんだから、つい、したくなっちまったんだ」
なぁ、機嫌直してくれよ。
包みこむように抱きしめて、乱れた髪だとか、化粧気のない普段よりかさついた頬なんかを優しく撫でてやる。そうするうちに少しずつ、その可愛い眉間のしわは薄れていき、やがてそこは普段どおりのつるりとした状態になった。
「鼻がつまって、頭がぼーっとするの」
「あぁ、わかるわかる」
「目もかゆいし、ごろごろする〜」
「つれぇなァ〜」
「つらいよぉ。鼻かみすぎて、ここ、ひりひりするし」
「少し赤くなってるぜ」
「ぶさいくでしょ」
「いや、可愛いぜ。ほら、リスみてぇだ」
「リスぅ? リスっていうか、これじゃあわたしトナカイみたいじゃない?」
「そりゃあ歌の話だろォ」
「そうだっけ。あ、ねぇ、ゆりかごして〜」
「へいへい」
華奢な体を抱きかかえたまま立ちあがり、ゆらゆらと穏やかに揺らしてやる。赤子をあやすように、優しく丁重に。彼女はこれを「ホルマジオのゆりかご」と呼んでいて、ひどく絶望したときや、疲労困憊の際などにせがむのだった。こうすることで心が落ち着くのだという。
なまえはその揺れに身をゆだね、ひどく安心しきった様子で瞳を閉じている。ふと肩を見ると、さきほどまで彼女が顔をうずめていた部分が鼻水か涙か、もしくは両方か、とにかくなんらかの液体により濡れ、布の色を変えていた。
もうそのシミすらも愛しく思えてしまうのだから、俺はこの女にすっかり骨抜きにされてしまっている。
「そうだ、頼まれた薬とか色々買ってきたぜ」
「えっ、ほんと?! ありがと〜ホルマジオ大好き〜!」
「調子いいやつだなァ〜」
なまえはぱっと俺のゆりかごから飛びおりると、無造作に置かれた薬局の紙袋に駆けよった。
もしかして、薬を飲んでいないから症状がひどかったのだろうか。普通病院では数週間分くらい、まとまった量の薬を処方するはずなのだが。ましてや今週は花粉が飛びまわる時期としてはピークなのだから、医者も配慮するのではないか。
あれこれと考えを巡らせるうちに、俺のなかにはおのずと一つの仮説が浮かびあがった。
「オメー、……ほんとに病院行ったのか?」
「……」
「おい……」
「だって、保険証どっか行っちゃったんだもん」
「なくしたのかぁ?」
「うんん、なくしたんじゃなくって、どっか行ったの」
「しょ〜がねぇなぁ〜」
「しょ〜がないよぉ〜」
俺の口真似をしながら袋をごそごそと漁っていたなまえは、「あっ!」と大声をあげ、直後神妙な顔を貼りつけてこちらにつめよってきた。彼女が手にしているのは俺が購入したばかりの花粉症の薬だ。粉末ではなく錠剤。きちんと店員に尋ねたので問題はないはずだが、なんだか嫌な予感がする。
「わたしがいつも飲んでる薬、これじゃないんだけど」
「花粉症の薬だろ? ソレといつものは、なにが違うんだ?」
「全然違うの、この薬じゃだめ」
「けどよォ、近所の薬局に置いてんのはコレだけだって言ってたぜ?」
なまえの常用薬は、なんだかっていう成分の入った抗ヒスタミン薬で、それを飲めば眠気を催すことなく、クシャミ鼻水鼻づまりといった諸症状がたちどころに治まるのだという。彼女の必死な説明を聞くかぎり、たしかにそれはいい薬だ。
しかし、ほかの薬局となるとここから歩いて三十分はかかる場所にあり、さらにその店にない場合、次の薬局は―。さしあたりはこの薬でしのいでくれないかと願いをこめて、おそるおそる提案を持ちかける。
「な、なァ、明日また買ってきてやっから、今日はこれで我慢しとけよ」
「……」
無言のまま粘りつくような目で見つめられては、これ以上説き伏せるような真似できなかった。
視線を逸らし、窓の外に目を向ける。来たときよりも風が強まっているのか、街路樹は枝葉をしならせ、新聞紙や花びらなんかが宙を舞っていた。冬の身を刺す寒さに比べたら、こんなふうにゴミを舞いあげる強風が吹きすさんでいようとも、やはり春はいい季節だ。そういった季節の風趣を素直に喜べない体質というのは非常に気の毒であり、その事実は俺に「多少のワガママくらい許してやろう」という気にさせた。
正直なところ、彼女にせがまれればなんだってしてやるのが俺の信条だった。走る電車のまん前に飛びこめと命じられれば「しょうがねぇなぁ」とぼやきつつも従ってしまうだろう。まぁ、命じられることはないと思うが。たぶん。
「……わかった、わかった」
「わぁ〜ありがとうホルマジオ! 大好きよ! できたら目薬もこれじゃないやつがいい!」
「お〜お〜、姫様、仰せのままに」
「早く戻ってね! 帰ってきたら、一緒にお風呂に入ろっ!」
「そりゃあ最高のご褒美だな。覚悟しとけよ」
「きゃーこわい」
そう言いつつもまったく怖がった様子はなく、なまえはけらけらと楽しそうに笑う。
あぁ。やっぱり笑った顔がいいな。ぐずぐず泣いてんのもたまにはいいが、彼女には春の桜みてぇな奥ゆかしさより、夏の向日葵を思わせる眩しい笑顔がよく似合う。その笑顔を往復一時間強の散歩で生みだせるのなら安いものだ。
「ついでにここら一帯のポプラの木をぜーんぶなぎ倒してきて」
「お〜、任せとけ〜」
「頑張って〜木こり名人〜」
「ワハハ、なんだァその称号は」
「いいでしょ、かっこいいでしょ」
「アー、まぁそ〜だなァ〜」
「この世にポプラなんてなかったら、今日はホルマジオとデートできたのにねぇ」
「まぁいいじゃあねぇか、お家デートだぞ、お家デェト」
「お家デート!」
俺がお家デート≠ニほざいたことがよほどお気に召したのか、
「お家デートだって、お家デート!」
と繰りかえしながら、なまえは爆笑し続けていた。
部屋を出てからも壊れたおもちゃみたいな彼女の笑い声は廊下に響いてきて、それを聞いているうちになんだか俺までおかしくなって、階段を下りながら肩を震わせ、くつくつと笑った。
よく見ると、なまえの家の通りに植えられたすべての街路樹がポプラの木だった。これではたしかに、窓なんて開けたらひとたまりもないだろう。
どうして彼女はよりによって、こんな場所を選んだのかと一瞬疑問が浮かんだがすぐに当時のやりとりが記憶のクローゼットから引きだされた。
『ホルマジオの家が近いから、ここにする』
たしか彼女はこの部屋を決めたときそう言っていた。街路樹のことも知っていたはずなのに、なんて愛しい馬鹿だろうか。
そうだ、折を見て家に越してこないかと持ちかけてみよう。俺の家の近辺には、こんなに沢山のポプラの木はないし、それに――。こっから先は直接本人に言ったほうがいいな。
世界中のポプラの木を根こそぎ伐採することはできねぇが、スタンドで小さくすりゃあここら一帯くらいは簡単に片づくかもしれねぇな――、なんて、とんでもない思考に至った頭を左右に振りながら、春風が吹き荒れる並木道を駆けぬけた。
(2013.03/15 UP)(2019.07/07 修正)
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