「あなた、イギリス人ね」
まわりくどい表現を駆使して口説きにかかる男の語調。どこか聞き覚えがあると思ったら、ブロードウェイ沿いにある靴屋のイギリス人店員とそっくりだ。大変お似合いです、まるでお客様のお美しいおみ足のために誂えたようなものです。彼は誰にでもそうのたまうのだ。誰にでも。
大体、「どこかでお会いしましたか? これほどの美人、ひと目見たら忘れないんだがな」こんな胸焼けしそうな切り出し方、このマンハッタンじゃとうの昔に廃れている。そりゃあどこかでお目に掛かっているでしょうね、これだけ人が密集する土地だもの。わたしにはそんな淡白な返ししかできない。
男はそれきり沈黙し、思わせぶりにほほ笑むばかりだ。
「ねぇ、そうでしょう」
中指でオンザロックの海に浮かぶ氷塊をかき回しながら、男はようやく「ほぅ」と感嘆とも生返事ともとれる溜め息をこぼした。
薄暗い店内のわずかな明かりを集め反照するブロンド。グラスの傾きにあわせてこくこくと主張する喉仏。凛々しい目元には瞬きのたびに気品ある影が落ちる。
嫌味なほどルックスのいい男だ。
「イギリス男の匂いを嗅ぎ別けられるのか? ずいぶんと鼻が利くんだな」
「この国の男はそんな気障な喋り方しないもの。みんな直球勝負を挑んでくるわ、ど真ん中に豪速ストレート」
「カーブ球を投げる英国紳士はお嫌いですか? Ms.……」
「なまえ。みょうじ・なまえ」
「Ms.みょうじ……なまえ。 あぁ、いい名前だ。響きが美しい」
そこだけ切り取ればロマネスク調の額縁にでも飾れそうだが、この男の声ではかえって笑い種にされたとすら思えるから不思議だった。
ふたつ椅子を挟んだところで女が谷間を見せ付けながら男に目配せを寄越している。なかなかの美人だし、このように彼は相当な暇を持て余しているのだから応じてやればいいのに、なぜか男は頑なに視線をやらず、知らぬ存ぜぬといった素振りを続けている。
「悪いけれどあちらへ行ってくださる? Mr.……?」
わたしはイギリスという国を知らない。
ただ漠然とした地理(海を隔てた向こう側、船で何日も海上を漂った先にある)と、そしてこの男のように婉曲表現を好む口調ぐらいだ。
だから、わたしの皮肉を込めたイギリスのイントネーションも、あくまでステレオタイプを逸さないものなのだが――彼はわたしに合わせたつもりなのか、ひどく丁寧に名乗った。
「ディエゴ・ブランドーだ。Dioでいい」
「ディ"エゴ"」
後半二文字に重心を置き発音してみると、想像以上に嫌味っぽい響きになった。
驕傲で自信家な男を前にすると鼻っ柱を圧し折りたくなるのがわたしの悪い癖であり趣味である。
大抵の男はこんなとき、突けば崩れそうな熟れたトマトのように顔を真っ赤にし、ある人は罵詈讒謗を浴びせ、ある人は無言で立ち去るのがお決まりのパターンだった。
しかし残念なことにDioと名乗るこのうぬぼれ屋は、まったく動じず、それどころか彼の図太さはより増したように思う。
「人を待っていたんだがな。どうやら約束は反故にされたようだ」
「金曜の夜にドタキャンされるなんて」
「金曜の夜に一人で飲んでる女もめずらしいだろう」
思わぬ反撃を食らい閉口させられてしまった。改めて周囲を窺う。バーカウンターにはわたしのほかに一人きりの女などいない。執拗に彼に熱を送っていた女の姿もいつの間にか消えてしまった。皆一様に男連れである。
そもそもこの店は女一人でふらりと立ち寄るのに相応しい場ではないのだから、当然といえば当然の光景だ。とはいえ、いまさら自分も待ち人にボトル一本空けさせられたとは言えなかった。
「ハッ……まぁいいさ。お互い、酒でも飲んで忘れようじゃあないか。忘却はよりよき前進を生む、ウイスキーは新しい出会いを生む」
「なにそれ、ニーチェ?」
「まぁそんなところだ」
男はわたしの視線を追うように、くいと顎を持ち上げ店内に目をやった。自分以外のあらゆる存在を見下すような眼差しだった。
「なまえ、と言ったな」
もったいをつけるようにペロリと上唇を舐める。一挙手一投足が鼻につく男だ。
「きみは恐竜の牙を見たことがあるか?」
「――恐竜?」
相手にしないつもりだったのに予想外の単語が飛び出したものだから、つい反応してしまった。
酒が回っているのか、でなければ馬鹿な女を誘う常套句なのか。横顔を見つめてもその微笑からは奇妙な艶美が滲むばかりで、真意は判断できかねた。
「恐竜って、あの、恐竜?」
「あぁ。肉食の、それも獰猛なやつだ」
「なんだか話が読めないのだけど……それって、化石か何かの話?」
「いいや。オレの歯はいい女を見たときだけ鋭利に尖るんだ。それこそ肉食の恐竜さながらにな」
「あなた、白亜紀生まれなわけ?」
「生まれは現代だ……でもやつらの血は流れている」
「証拠を見るか?」とやけに真面目腐って言うものだからわたしは堪らず吹き出してしまった。それでも男は何がおかしいのだとばかりにこちらを見据え、一向に真剣な表情を崩さない。
「……本当に?」
「本当さ。見るかい?」
滑稽さをかき消すほどの異様な熱にあてられて、わたしは首を縦に振るしかなかった。
椅子を軋ませて向き直った男の身体は、思いのほか猛々しい体格だった。
他のパーツに比べて重量のありそうな唇を注視していると、どういうわけか本当に鋭利な牙が顔を出しそうな気がしてくる。
「ん……、暗くってよく見えない…………もっと口を大きく開いて……」
「驚くなよ」謎の前置きの後、男はその品のいい口を顎でも外れたのではと案じてしまうほど大胆に割り開き、わたしの目前にさらしてみせた。
一瞬、口の両端にミシミシと不穏な亀裂が入り、もみあげの手前まで割けてしまったかのように見えたけれど、きっと見間違いだろう。
「上の歯も見てくれよ。ほら、尖っているだろう」
「ほんと……恐竜、みたいね」
そうは言いつつも、わたしは恐竜を見たことがないし、恐竜の牙がどのような形状をしているのか知識もなければ興味もなかった。
だが彼の歯は確かに、一般的に人の歯と呼ばれるものとは程遠い形であることに違いないのだった。
ピンク色の歯茎から伸びる三角形の白い歯。
いや、牙だ。生肉でも噛み切れそうなほどに著しく発達した犬歯は、ふれただけで皮膚を突き破りそうである。
彼の言うとおりそれは恐竜に例えるのが相応しい牙だった。どうやら女の気を引くための小細工でもないらしい。正真正銘、本物の歯だ。
「すごい……こんなに尖っていたらキスするときに怪我してしまうんじゃあない?」
「試してみるか?」
「遠慮するわ。血まみれの口じゃあせっかくのお酒が台無しだもの」
「そうか、残念だよ」
その声はさっぱり残念そうには聞こえなかった。
何世代も前の口説き文句を使ってみたり、無邪気に恐竜の牙を自慢したり。傲慢な男の仮面を剥ぎ取れば、隠れていた素顔は子どものさみしげな表情ではないかと思わされる。おかしな佇まいの男だった。
「……ねぇ、あなたって意外と泣き虫だったりする?」
「さぁ、どうかな」
「それとも、いまだにオネショとかする? 眠るときクマのぬいぐるみ抱いてる?」
「それは一度寝てみればわかるさ」
「言ってなさい」
「好きなだけ言わせてもらうさ。なぁ、きみの家ってどのへんだい? 何番街?」
「そういうところが子どもっぽいのよ」
「ハハ。きみの目をとおすとオレは恐竜のオモチャで遊ぶ子どもに見えるのかい?」
「うん、どうしてかな。……もしかしてマザコン?」
「母親はいない。ガキのころに死んだんだ」
声と言葉のシリアスさに驚き、右隣を見る。長い睫毛を蓄えた瞳が微動だにせず、前方のワインボトルを貫き、時空をも飛び越えたなにかを見据えている。
グラスの氷がカラン、と鳴き声をあげた。背中に冷水を流し込まれたような心地がした。
「オレはキリストよろしく馬小屋で生まれ育ってね。母はマリアのような気高く慈悲深い女だったが、意地の悪い雇い主にいびられた末死んだ。哀れな最期だったよ」
「……あの、わたし……ごめんなさい…………」
「今の話、どこまでが真実だと思う?」
「嘘なの?」
「さぁ」
「あなたって……性格悪いって言われるでしょう?」
「お褒め頂き光栄ですよ、Ms.みょうじ」
のらりくらりとかわして、ちっとも本音を話さない。この男のある種巧みな話術に、自分でも気付かぬうちに魅了されていたのかもしれない。
とにかく楽しくて、よく笑った。彼も笑った。彼が笑うと口の両端にぱくりと亀裂が入り、そこから金魚みたいに空気をぽこぽこ出した。ように見えたのだが、これもまたアルコールが見せるくだらない錯覚なのだろう。
彼がその危険な口でもって新しい遊びを持ちかけてきたのは、そんなふうに心地よく酔いが回ってきた頃だった。
「賭けをしないか」
「賭け?」
「そう。オレが勝ったら、一晩付き合ってくれよ。負けたら酒代はオレが出す。勝っても出すつもりだがな」
「なぁに、それ。わたしにメリットがないでしょう」
「もちろんハンデはつけるさ」
「いやよ。それにもう12時になるわ、帰らなきゃ」
「なんだよ、オレのデート相手はシンデレラだったのか」
「そう。カボチャの馬車が迎えに来るの」
「ハンッ」
まだ賭けに乗ったつもりはないのだが、彼は片手をバーカウンターについて立ち上がると半ば強制的にわたしを立たせた。腕を引き腰に手を回すその振る舞いはエスコートというより拉致に近い。
「これで決めようぜ」
そうしてたどり着いた場所は、店の片隅にひっそりと置かれ、うっすらと埃をかぶったビリヤード台だった。
「嫌よ」
「まぁそう言わず」
「嫌」
手際よく仕度を整えると彼は実に勝手きわまる所作でブレイクショットを放った。
カコン、と球がぶつかり弾け飛ぶ音が響いた。
Noを繰り返す女を無視してさっさと始めてしまったくせに、彼は親切そうな笑みを湛えて「お先にどうぞ、レディ」なんて言ってうやうやしくキューを差し出した。
「待って、わたし、握り方すらわからないの」
「オレが教えてやる。まず右手を出せ」
なんだか上手く乗せられてしまった気がするが、促されるままわたしはキューを受け取った。Dioはわたしの背後に回りこみ耳に息が届くほど身体を密着させ、キューの握り方について熱心に説明している。
「もっと力を抜け。無駄な力を込めると球がブレる」
「わかってるわよ……あ、あんたが近すぎて、耳に息が当ってくすぐったい」
「集中しろ。1、2、3の合図で打て」
身を捩るわたしに構わずカウントを取り始めた。いつしか彼のペースにすっかり飲まれてしまっていた。この現状が腹立たしくもあり、同時に愉快でもあった。
「悪くはないな。だがそんなバアサンみたいなへっぴり腰じゃあオレには勝てないぜ」
当初見られた形だけの礼節はなりをひそめ、まったく英国紳士とやらが聞いてあきれる散々な物言いだ。
「あっ」
「手球を落としたな。オレの番だ」
慎重に照準を合わせたはずのわたしの手球は3番ボールを掠りもせず穴の中へ吸い込まれていった。押しのけるように目の前を通った彼に恨みがましい視線を送ると、わたしは渋々傍にあった椅子に腰掛けた。
それにしてもこの男、キューを構える仕草がいちいち様になる。
前髪がだらりと垂れ下がり、その隙間から鋭い眼が一点を狙い定めて妖しい光をはなっている。さぞ良いショットを打つことだろう。
「ちょ、ちょっと、ハンデはどうしたのよ」
「きみから始めさせてやったじゃあないか」
「それだけ?!」
「十分だろう。それに、オレは利き手を使っていない……」
彼の利き手なんて知らない。だいたい、数時間前に対面したばかりで、利き手どころかお互いに年齢も明かしていないのだ。
しかしよく見ると腕時計は右手につけているので、利き手を使ってないという主張はあながち嘘ではないのだろうか。
そんなふうに彼の全身をつぶさに観察していたわたしの目は、球が打ち鳴らされたのを皮切りに、否応無しに彼の手元へと釘付けになった。目の前で繰り広げられる美技の数々に圧倒されるばかりで、「あぁ」とか「すごい」とかそんな言葉すら出てこない。
どこかに磁石でもしかけられているのではと勘ぐるほど自由自在に球が飛び交い、鮮やかな軌道を残してポケットに吸い込まれていく。テーブルの上にはあっという間に9番ボールだけが残された。
この魔法を披露した張本人は、キューを指先でくるりくるりと転がしながらこちらを見下ろしている。
「さぁ、これをどうするかな」
どうするもなにも、これを決めてしまえば彼の勝ちだ。手球はちょうどよく狙いやすい位置にある。わたしでも容易く思われる簡単なショットで片がつくだろう。
彼の指先がテーブルを叩く音が、わたしの脳へ直接訴えかけてくる。動悸と苛立ちで意識が遠退いてしまいそうだった。
「きみはまずオレに勝てないと思うが――」
彼は余裕の表情で手球に狙いを定めると、そのまま左手を振り抜いた。ところが意外にも、少し強めに放たれた手球は9番のぎりぎりをかすめ穴の中へと落ちていった。
「おっと」
わざとだ。そのいかにも「やってしまった」と言いたげな声色からは当てこすりな意地の悪さが滲んでいる。
「残念だよ。さぁきみの番だ」
「……やなやつ」
「それは褒め言葉だよな?」
軽口を叩く男を無視してキューを滑らせる。先ほど彼が打ち鳴らしていた軽快な音には及ばないが、のろのろと9番ボールはポケットに入っていった。
「やるじゃあないか。オレの負けだよ」
名ばかりの勝利より後味の悪さと苛立ちがまさり、まさに惨敗と称するのが正しい体たらくだ。
そしてなによりも、この勝負の結末に別の意味で落胆している自分自身が哀れだった。たった数時間飲み交わしただけの素性も知れぬ男との別れを名残惜しむなんて。どうかしている。
それでもなお瞼の裏に浮かぶ、キューを構えるときの眼差しの鋭さ。片側だけ口角の上がった危うい唇。前髪の間から覗く飢えた瞳を、もう一度見たかった。
「もう1ゲームお付き合い致しますか、Ms.みょうじ?」
まるで心を見透かされたような発言に驚いて顔をあげると、片眉を上げ底意地の悪そうな笑みを浮かべた彼が待ち構えていた。
「……どうしてもと言うのなら、付き合うわ」
「頼むよシンデレラ」
わたしはキューを乱暴に奪い取りブレイクショットを放った。色とりどりの球が夜空にこぼれるまばゆい星屑みたいに散ばっていく。
王子様には程遠い、恐竜男の瞳に似た球に狙いを定める。今度は外さない。
(20140519 UP)(2020.02/04 修正)
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