ひどく静かな夜だった。呼吸を止めて耳を澄ませても、わずかな物音さえ聞こえない。少しばかり開いた窓の隙間からは、車のクラクションどころか、木々のざわめきすら皆無だ。暗闇をかきわけて、実際には鳴っていないしーんという音が、頭のなかにこだまするばかりである。
わたしが眠りの途中に目覚めてしまうことはめずらしいことだった。
さらにめずらしいことに、目が覚めてしまったというのに気分が悪くなかった。むしろこの静寂が心地いいくらいだった。きっと夢見がよかったせいだろう。
とはいえたった今見ていたはずの夢の記憶はもうすでにおぼろげだ。思い出そうとしても、白く美しい毛並みが、断片的に浮かびあがるのみだった。ペガサスと戯れる夢だったろうか。それとも競走馬だったろうか。どちらでもいいが、今の時刻が知りたい。
目だけ動かして壁時計を見るが、暗がりに慣れてきたとはいえ時計の短針が見えるほどではなかった。窓から差し込むぼんやりとした街灯の様子から察するに、まだ朝日の気配はなさそうだ。
横で眠る彼を起こさないようにゆっくりと寝返りを打つと、暗闇のなかできらりと光る目に捕らえられた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、なまえが目を覚ますもっと前から起きていたんだ」
「……また眠れないの?」
心配のあまり上体を起こすと、返事の代わりに抱きすくめられた。きっとまた悪夢にうなされていたのだろう。
こんなふうに、彼には夢見が悪い日があるのだという。
いつだったかの夜に、うなされる彼を揺り起こしたときには、血の気の引いた顔に玉のような汗を浮かべていて、その様子はとても痛ましいものだった。
「起こしてくれたらいいのに」
わたしの声は彼の胸板に吸収されたみたいに、この静寂のなかには響かなかった。
できることなら、わたしの夢と交換してあげたい。なんといっても今日の夢は、ペガサスと戯れる夢なのだ。いや、競走馬だったか。どちらにせよそれは、馬好きの彼にとってさぞかし素晴らしい夢になったはずだ。
「なまえ」
「……ん?」
「おまえは前世という概念についてどう思う?」
「ぜんせ?」
「あぁ」
「う〜ん……」
わたしは掠れた声で唸りながら考えた。寝起きに輪廻転生について思案するのはちょっとむずかしい。
そもそも彼に、死後や神という概念について理解があるのかすら疑わしかった。今まで彼が十字架に祈りをささげる姿など、もちろん見たことはなかったし、想像すら容易ではない。だいたい彼は、人知を超えたもの以前に、かぎられたごく少数の人間しか信用してはいないのだから。
「あなたっていつから仏教を信じるようになったの?」
「いや、そういうわけじゃあないが……前世というよりも別の世界の――」
べつのせかいの?
まだ覚醒しきっていないのか、彼にしては歯切れの悪い物言いだった。
「別の、世界の……?」
「……いや、なんでもない。気にしないでくれ」
わたしが「そう言われても気になるよ」と食い下がっても「今の話は忘れてくれ」と一方的に話を打ち切られてしまった。
ふっ、と隙間風のような笑いが暗闇を通りぬける。自嘲のような響きだった。
「おかしなディエゴ」
「……たまに思うんだよ、オレの前世は吸血鬼だったんじゃないかって」
「きゅうけつきって……あの吸血鬼? バンパイアのこと?」
「そう、バンパイア」
「ディエゴって意外とファンタジーが好きなのね」
からかわれていると思ったのか、彼は暗がりでもわかるほどあからさまに顔をしかめてしまった。
「それで……あなたはどうしてそう思ったの?」とりなすように頬にキスをする。
ディエゴはぽつりぽつりと話し始めた。
「たまに、夢を見るんだ」
「どこか別の、違う世界に、別のオレが存在していて」
「オレはすさまじい力を持っている」
「それこそ世界を操れるくらい強靭な」
彼はそこまで言い終えると、自嘲気味に笑いを漏らした。その間わたしはというと、らしくなく弱みのような"なにか"を晒している彼に驚き、相槌を打つこともできず、暗闇のなかを這うような声にじっと耳を傾けていた。
そのようにして真剣に話を聞いていたつもりだが、わたしは彼の言わんとすることをうまく理解できなかった。
「……ディエゴは今でも、血が吸いたいと思うときがあるの?」
「いや、そうじゃあないんだが……」
またしても見当違いなことを言ってしまったらしい。ディエゴの声色からして、困ったような呆れ顔が目に浮かんだ。
こうして彼が小難しい話に熱弁をふるう際、わたしが的外れな解釈をしてしまうことはめずらしくなかった。彼はよく哲学や政治についての話をする。ソクラテスだとか、マキャベリだとか。そういうとき、わたしは負けじとコスメや服の話をする。ディオールだとか、ジバンシィだとか。
そのたびに彼は「なまえには見た目の可愛さだけじゃあなく、もうすこし聡明なところがであってもいい」とか、「頷いてばかりいないで、もっと疑り深くならないといつか痛い目にみる」とか、わたしの察しの悪さや能天気さについて指摘した。指摘を通り越して、かなりきつい言い方で。
けれどあるとき、彼は散々わたしをけなした後に言ったのだ。"それ"すら愛しているのだと。
だからわたしは、彼がどんなに難解な話をしようとも、素直に分からないといった反応ができるし、どれほど見当違いな理屈を吐こうとも彼は許してくれたので、わたしは安心して能天気でいられるのだ。
「この感覚を言葉にするのはむずかしいんだ……」
「…………」
たしかにわたしは聡明ではないが、この話題にかぎっていえば、わたしの物分りの悪さが原因ではない気がする。なによりも、話し手である彼自信が、状況を飲みこめていないのだ。だからこそつらいのだろう。
「だが……なまえの血なら美味いかもしれないな」
吸血鬼が食事するときのように首筋に口づけられてチクリと痺れた。わたしはされるがままに、天井を眺めながらぼんやりと考える。彼の犬歯は人よりわずかに尖っているし、ワインは白より赤が好きだ。においの強いものも苦手だし、十字架も持ち歩かない。吸血鬼の素質は十二分にありそうだ。
「やだ怖い。明日から十字架を持ち歩かないと」
「オレはそんなもの恐れないさ。杭で胸を打たれたぐらいじゃあ死にはしないしな」
「ほんと? それってすごい」
「ただし太陽の光には弱いんだ」
「一長一短なのね」
「あぁ」
「朝日で灰になってしまわないように、ちゃんと布団をかけて寝ようね」
「オレもお前を食らってしまわないように気をつけるよ」
彼の表情は見えないが、軽口を叩けるまで気持ちが落ちついたようだった。
先ほど彼が語ったことの大部分は、残念ながら理解することができなかったが、仮に彼の言う輪廻転生のような概念が存在するのだとしても、前世でも来世でも別次元でもなく、今この瞬間のディエゴを愛したいと思う。来世でもこんなふうに抱きあって、冗談を言いあえるともかぎらないし。
「おやすみ」 「おやすみ」
ほとんど同時におやすみを言って、どちらからともなく足を絡ませあった。彼の引き締まった二の腕が好きだ。そこに頬を押し当てれば、わたしは幸せでいっぱいになる。
明日は久々にふたり揃った休日だ。なにをしてすごそうか。天気がよければ散歩に行こう。久しぶりに映画を観るのもいいかもしれない。
目を閉じても楽しげな想像ばかりが浮んで胸が躍った。なにをしたって彼と一緒ならきっと楽しい。眠るよりも先に目覚めたい。
(20120130 UP)(2019.11/15 修正)
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