記念日やイベントというものは、女性にとってこのうえなく特別であるべき日なのだろう。
そういえば、なまえが愛読している雑誌でも、毎月なにかしらのイベントが特集され、やれプレゼントだデートコースだという見出しが表紙を飾っていたけれど、ナターレに次いで大きくとりあげられていたのはバレンタインだった気がする。
俺は恋人と過ごすことに大義名分など必要ないと思うのだが、……い、いや! もちろん俺にとっても重要な日であることに異論はないし、言うなれば俺たちの生活は毎日が記念日だ。そりゃあもう。
「なまえ、いるんだろう?」
念のためインターフォンを鳴らしてみる。……。返答はない。チェーンの内鍵がかけられたドアの前で悄然としつつ、俺は苦々しい思いで昨夜の記憶をたどっていた。
『明日は早く帰れそうだ』
たしかに俺はそう言ったのだ。夕食までには戻れると。午後は休みだ、明日は二人で過ごそう。「約束ね」と念を押されたから「約束だ」とまでほざいた。すべては彼女をよろこばせたい、よき彼氏としてつとめたい一心だった。
しかし実際の俺と言えば、恋人とのささやかな約束すらも守れないクソ野郎であった。予期せぬトラブル(部下の一人が別のチームの人間と揉めごとを起こした)の対応に追われ、時計を確認する暇すらなかった。ひと息ついた頃にはとっぷりと日も暮れ、何度か連絡をいれたもののその返事がくることはなかった。
昨夜、なまえはなんて言ったっけ。……あぁ、そうだ。『平日の夜にブチャラティと一緒に食事できるなんて夢みたい! しかもバレンタインに!』驚くべき跳躍力で飛びついてきたあのときの笑顔は、今どんなふうに変わってしまっただろう。いち早く彼女を抱きしめて、ありったけの謝罪を並べ、とりつくろわなければならないのに、俺の心の弱さゆえ両足は重く沈みこむばかりだ。
「すまない、遅くなった」
やっとのことで覚悟を決め、スタンドを使って我が家に入る。自分の能力がこれでよかったと、こんなときによろこびたくはなかった。
明かりもつけられていないリビングでは、いつもより一段と小さく見える背中がぽつんと佇んでいた。椅子に座ってうなだれるその姿は、熱戦のすえ燃えつきてしまったボクサーのようにも見える。「すまない」もう一度静かに謝罪を述べるが、なまえはだんまりを決めて暗闇に溶けこもうと躍起になっている。
テーブルに並んだ豪華絢爛なディナーが、いや、ディナーだったものの残骸とでも言うべきか。とうに冷めてしまった料理とは対照的に、悪い意味で彼女の方は熱を持っているようだ。
「……」
おしゃべりが大好きな彼女が長いこと黙っているのはめずらしい。彼女が大人しいのはたいてい、体の具合が悪いときか、ひどく機嫌の悪いときのどちらかだ。そして今回の場合はもちろん後者だろう。言うまでもなく。
「……」
「悪かった……急にトラブルが――」
「ブチャラティは、ほんとうにわたしのことを愛してる?」
「……あッ、ああ! もちろんだ!」
「ちゃんとわたし一人だけを?」
「なまえ以外にいったい誰を好きになれというんだ! なまえ、きみを愛している!」
「具体的に言うとどこが?」
「……うっ…………!」
なにか俺たちの間に問題が生じたとき「ほんとうに愛しているか」と聞くのが彼女の決まりだった。だがこの切りかえしは新しい。俺は思わず狼狽してしまった。
『具体的に言うとどこが?』
たいてい俺が熱っぽく愛していると囁けばなまえの機嫌はよくなるので、ほかの言葉を用意していなかった。しかしここであまり答えを出ししぶっていると、きっと彼女のへそは今よりもさらにあらぬ方向へと捻じ曲がってしまうのだろう。俺は鈍る頭をフル稼動させて彼女の美点を、彼女が望んでいるであろう美点を搾りだす。
「うん、そうだな……その、いつも美しくきらめいた瞳だとか……」
「それと?」
「あ、あとは……濡れた唇もセクシーだ」
「これはグロス」
「あぁ、そうか、そうだったな、うん……」
一昔前に流行った、地雷を踏まないように歩くファミコンゲームみたいな調子で言葉を選ぶ。ちなみにこのゲームで爆発するのは地雷じゃなくなまえだ。爆発範囲は10メートルといったところか。したがって、目下俺はひとつたりとも外せない命がけのデスゲームに挑んでいる。
「手入れの行き届いた髪も艶やかで美しい! きみは綺麗だ!」
「……好きなのは見た目だけなの?」
「いやッ! ち、違う! ……りょ、料理も! きみはとても料理上手だ!」
「もう冷めちゃったけどね」
「……あぁ、ほんとうにすまない」
「あとは?」
「あとは……その、雲の上を進むような歩き方もとても可愛らしい」
「雲の上ぇ?」
「お、おぉ……」
アウト! 俺はついに地雷を踏んでしまった。
雲の上、という表現が悪かっただろうか? 俺としては妖精や天使のように儚げで可憐な印象だと言いあらわしたつもりだったのだが、どうやら彼女のご希望には添えなかったようだ。
とにかくこれ以上なにか口にしても墓穴を掘ってしまうだけの予感がしたので、俺は腹を括って彼女がなにか言いだすのを待つことにした。
「……」
「もういいよ、ごはん食べよう」
「あ、あぁ。……そ、そうだ! なまえ、きみにプレゼントがあるんだ!」
懐から小さな包みをとりだして手わたしても、なまえはそれを色のない瞳で見つめている。いつもならエサをもらった子犬みたいに飛びついてビリビリと包装紙を剥ぎとるのだが、今回はよほどご立腹のようだ。
彼女の膝の上で申し訳なさそうに存在している包みを、彼女にかわって開けてやる。きっとこれを見れば、彼女もいくらか機嫌をよくしてくれるはずだと踏んで。
「……これを買うために遅くなったの?」
彼女の第一声は、俺の想像していたものからひどくかけ離れていた。
この指輪はなまえの好きなブランドだし、あちこち聞きまわり悩んだすえ購入に至ったデザインだから、当然彼女も気に入ってくれると思ったのだが。よろこぶどころか今にも泣きくずれてしまいそうな顔をしている。
「気に入らないか?」
「違う、そうじゃないの」
みるみるうちにゼリーみたいな涙の粒が浮かびあがり、やがて音もなく頬の上を転がりおちた。睫毛の間を、まるでそれ自体意思を持っているかのように涙がすり抜けていく。不謹慎ながらも綺麗だなぁと感じる俺は、やはり恋人として、男として、なにかしらの欠陥があるに違いない。
「プレゼントを買うぐらいだったら、その時間を一緒にすごしてほしかったのに」
がつんと、重みのある鈍器で頭部を殴りつけられたような衝撃だった。
あぁ、俺は、なんて酷いことをしてしまったんだろう。彼女は怒っているんじゃあない。ひどく傷ついているのだ。
湯気のたちこめる完璧なディナーが冷めていくのを眺めながら、いつ現れるかもさだかじゃない恋人を思うのは、さぞや虚しかったことだろう。惨めで、心細かったことだろう。
この真っ暗な部屋のなかで、彼女はただひとり、ほかの誰でもない俺だけを待ちつづけたのだ。こんなちっぽけなプレゼントよりも、もっとちっぽけなこの俺だけを望んだのだ。それなのに、俺は。
今回ばかりじゃあない。俺はなまえに寂しい思いばかりさせているんじゃあないか。ナターレ、誕生日、一年記念日、そしてバレンタイン……。思いかえすほどに後悔と罪悪感が募っていく。
「この指輪は先週買ったんだ。今日は仕事を終えたその足で家に帰ったから、どこにも寄り道しちゃあいないよ」
「……」
「俺は、いつだってきみを思っているんだ。できることならポケットに入れて四六時中持ち歩きたいぐらいさ」
懸命な弁解もむなしく、いまもって彼女の表情は冬の日の曇り空みたいな沈鬱さで俺の心を責めたてていた。
――どうして伝わらないんだろう。こんなにも大切に思っているのに。愛しているのに。
記憶を司る脳の部位を切りとったら、きっとそこには彼女の名前ばかり刻まれているはずだから、いつなんどき、どこにいようとも、俺のなかには彼女が存在しているのだと、その愛情の一片くらいは伝わるだろうか。あるいは、メスで心臓を切りひらけば、俺がいったいどれほどまでなまえに心を奪われ鼓動を早めているのか、わかってもらえるだろうか。
それでなまえの気持ちが晴れるなら、たとえ死んでしまっても構わない。距離が離れることで生じる彼女の不安や寂しさをすべてまとめて消しさってしまえるんだったら、俺はすすんでこの身を捧げるだろう。
「ブチャラティ、なにしてるの」
「誓いをたてるんだ」
「……もう約束破りませんっていう誓い?」
「いや、まぁ、そうなんだが、少し違うかな……」
片膝を床につけて、跪く。彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐに見据え、その華奢な手を包みこむ。
この後どんな反応をみせるだろうか。泣くかな。驚くかな。よろこんでくれるといいが。
なまえはムードやシチュエーションを大切にする人だから、こんなときに言わないで、なんて怒るかもしれない。なんたって彼女の理想と言えば、夕暮れの浜辺とか夜景が綺麗に見える高台で、だもんなぁ。あぁ、ほんとうに可愛い。可愛いひとなんだ。
「ブチャラ、ティ……?」
なまえの瞳は涙と戸惑いに揺れている。俺はどうだろうか。真摯なまなざしで彼女を見つめているだろうか。そうだったら、いいのだけれど。
今このタイミングで言うべき台詞はほかにいくらでもあるのかもしれない。すまない、許してくれ、もう二度とこんなことはしないよ、愛しているんだ。
けれど俺には、これ以上ふさわしい愛の言葉が見つからなかった。
「結婚してくれ」
(2013.02/17 UP)(2019.07/07 修正)
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