天気のいい一日の夕暮れとは、なかなかに気分のいいものだ。昼に干した洗濯物はちょうどよく乾いた頃で、橙色に染まった空気はすがすがしくもちょっと切ない。まだ終わらないで、あわよくばなにか特別な力が生じて、一日をあともう少し引き伸ばしてくれればいいのに、そう願わせる力がある。
 特に、恋人との約束がある日なんかは、ひときわ心が躍ってしまう。いつもよりじっくりシャワーを浴び、念入りにメイクをして、普段はおろしたままの髪も今日にかぎっては丁寧に巻きあげる。香水ひとつ選ぶのだって一苦労だ。そうしてほぼ一日、身だしなみを整える時間に費やしたというのに、約束の時がきてもなお、わたしはすべてを完了させられないでいた。
 時間に正確すぎる彼が我が家の呼び鈴を鳴らしたのは、わたしがマニキュアを塗っているときだった。赤色に塗られたばかりの爪が壁やドアにふれてしまわぬよう慎重に鍵を開けて彼を迎えいれる。


「ブチャラティ、今わたし手が離せないのッ」

「どうした、手伝おうか?」

「大丈夫、マニキュア塗ってるだけだから!」

「そうだったか、悪いタイミングで来てしまったな」

「うんん、わたしこそ、いつも待たせちゃってごめんね」


 彼は正面のソファに腰かけ、刷毛で爪を赤く染める緻密な動きを、にこにことほほ笑みながら見守っている。
 いつもだったら隣で腕を回して、これでもかというくらい体を密着させて座るくせに。今みたいにわたしが身支度をしているときにかぎっては、あえて見わたせる位置を陣取ってわたしのことを観察するのだ。
 最初こそ、その視線に居心地の悪さを感じたが、今となってはすっかり慣れてしまっている。付きあい始めの頃なんかは、同じ空間を共有しているだけでも胸の高鳴りを抑えきれなかったというのに。


「ごめんね、もうすぐ終わるから」

「いいんだ、気がすむまで続けてくれ」


 すでに約束した時刻を十五分も過ぎてしまっていた。彼が予約してくれたリストランテの時間は十九時だし、あまり暢気してもいられない。
 それに、いくら彼が仏のような温情を持っているからといって、あんまり待ちぼうけ食わせるのも心苦しい。いつだったか雨で髪型が決まらず約束の時間を二時間も過ぎてしまったとき「俺のために綺麗になろうとしてくれていると思えば何十時間だって待てるさ」なんて彼は言ってくれたけど。
 でも実際のところ、わたしがこうして飾りたてるのは、彼のためというよりは自己満足が大部分を占めている。この事実を、彼は知らない。


「ねぇブチャラティ、どっちがいい? 右と左」


 二種類のブレスレットを彼の目前に掲げて見せる。どちらも彼からの贈り物だ。右が去年のナターレのプレゼントで、左がフランス出張のとき土産と称してくれたものだった。


「そうだな……今日の服なら、右のほうがいいだろう」

「ほんと? じゃあこれにするッ」

「あぁ、それがいい。俺がつけてやろう」

「ありがと」


 彼がわたしにアクセサリーを着けてくれたり、背中のチャックを開閉してくれるときの、優しくて少しいやらしい手つきが好きだった。ふれられたところがくすぐったくて、溶けてしまうような。
 それが終わると今度は、最後の仕上げとばかりにわたしの手首にちゅっと音の鳴るキスを落とす。怪しげな魔術の最後に行う呪文みたいに。どうやらこの流れはお約束らしく、ネックレスなら首筋に、時計やブレスレットなら手首に、なにかの印を落とすように彼は決まってキスをした。
 じつのところわたしは毎度、この宗教じみたキスを期待して、あれこれと自分でできることまで彼の手を借りていた。彼がしてくれる愛を伝える行為のなかでも、特別慈しみが込められている気がするからだ。
 手首に次いで、今度は唇に、いつものキスが降ってくる。


「行こうか」

「うん」


 街は沈みかけの夕日と街灯の両方が混ざりあって幻想的だった。バールでアペリティーボを飲んでから、彼が予約してくれた人気のリストランテに向かった。彼と手をつないで歩くネアポリスの街並みは格別だ。高いヒールを履いていることも忘れて、思わずスキップを繰りだしてしまいそうになる。


「ボナセーラ、ブチャラティ」

「ボナセーラ」

「ブチャラティ、今夜はなまえとデートかい?」

「ああ、そうだ」


 本来なら市民を脅かすギャングの一員でありながら、彼は街の人気者だった。 彼と並んで歩くとき、わたしはさながらスターの付き人だ。いつもは我が物顔で街を練り歩くゴロツキがおずおずと道を開けるし、すりだって彼の財布を狙ったりはしない。Ciao、Buonasera、Buonanotte、四六時中誰もが彼に声をかけ、彼もそれに愛想よく返事をする。
 わたしたちが店に着いたころ、空では西日が眠りについていた。佇まいのいいカメリエーレが案内してくれたのは、二階にある、特別居心地のよいテラス席。夜気が優しく頬を撫でていく。
 コース料理と互いの好物を一通り注文した後は、積もる話を、と言っても大したことではないのだが、それぞれ近況なんかを交しあった。
(ミスタがきみに会いたがっていたぞ。ほんとう? あぁ、以前街ですれ違ったとき、きみの隣にいた友人にもう一度お目にかかりたいらしい。いいけど、あの子は彼がいるの。そうか。残念だね。あぁ。先月買ったハーブの苗はどうなった。ちゃあんと育ってるよ)
 お互いに忙しい時間をいくらやりくりしても、まともなデートができるのは月に一、二度が限界だった。寂しがりやで疑り深いわたしが、そんな状態で関係を維持できるのはかぎりなく奇跡に近い。それは彼の人間性抜きにしては成しえない偉業と言えよう。
 上手く説明できないが、なんというか、わかるのだ。わたしには。たとえ離れていても、彼の愛を感じられた。絶対にわたしを裏切ったりはしないと、確信が持てた。この男は信頼できる、と。決定的ななにかがあったわけではないのだが、しいて言うなら些細なことの積みかさねだ。たとえば、日頃の行いだったり、さりげない所作だったり、ひとつひとつ選びぬかれた言葉使いだったり。彼の佇まいはいつだって美しく、誠実で、わたしを安心させるのだ。


「お仕事は順調?」

「あぁ、問題ない」

「スティッキーフィンガーズは、元気?」

「今もきみの隣にいるさ」

「ほんと?」


 ワイングラスを置いてから、彼の視線の先を追った。わたしにはただ空気が漂う空間にしか見えないのだが、そこにはたしかに存在するのだという。最初はわたしも半信半疑だったのだが、ドアの無いところから出入りしたりわたしの洋服にジッパーを一瞬にして装着したりする神業を披露されては、彼の言うスタンド能力≠ニやらを信用せざるを得なかった。原理はいまだによくわからないが、それについては彼も同じらしい。
 わたしは、そういった人智を超えた不思議な力を目のあたりにするたび、感激する一方で、彼と同じ世界を共有できないことに若干の寂しさを感じていた。わたしにもなにか、どんなにくだらない能力でもいいから、スタンドとやらが見えたらよかったのに。
 徐々に運ばれてくる、すばらしく美味な料理を堪能しながら、考えた。たとえばこんなふうにシェフの腕前を持ったスタンドとか。それがあれば彼においしい手料理をふるまえるだろう。
 時間を操作できる力も捨てがたい。待ちあわせのときも準備に手間取って、彼を待たせずに済むから。 あとは、そうだな――。


「ん……、どうしたんだ?」


 さきほどからまったく同じタイミングでフォークを操り、ワイングラスに口づけるわたしを不審に思ったのだろう。彼は料理を口に運ぶ手をとめて小首を傾げている。それもそのはずだ、わたしが、彼の一挙手一投足を真似ていたのだから。
 待ってましたとばかりにわたしは、高らかに宣言してやった。


「ブチャラティ、気づいてなかった? これ、スタンド攻撃よ」

「?」

「愛しあってる相手と、同時にまったく同じ行動しちゃうっていうスタンドなの」

「……そうか」


 ようやくわたしの子どもじみたいたずらの趣旨を理解した彼は、目を細めてほがらかに笑っていた。彼は優しい。きっと子どもができたなら、こんなふうにいつまでも、くだらない遊びに付きあってやるんだろう。
 そればかりか、今度は彼のほうがわたしの挙動を真似始めた。わたしが片耳のピアスにふれれば、彼もそれに倣ってなにもぶら下がってはいない自身の耳たぶに指を滑らせる。彼に向かって手を伸ばせば、彼も同じように手を伸ばす。
やがて、必然的にふれた指先は、蔦が伸びて絡むように繋ぎあわされた。
 なおもこの戯れを続行するわたしたちは、きっと、表情までもが合わせ鏡なのだろう。頬の緩みがおさまらない。彼も口元が綻び続けている。ほんとうにわたしにもスタンド能力とやらが身についた気分だ。



「どうやら俺たちは、この攻撃から一生逃れられそうにないな」


 そうしてわたしたちは、どちらからともなく口づけた。絡ませた左手もそのままで。





(2012.11/23 UP)(2019.07/07 修正)


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