「オメーら、明日からの三連休の予定は? ちなみにオレはデート!」
昨日、フォークにパスタを巻きつけていたミスタが前置きもなく言ったあれは、今思えばただの惚気だったのだろう。旅行だとか買い物だとか声が上がる中、オレがなんの気なしに掃除する予定だと答えたら、あいつら揃って大笑いしやがった。
掃除のなにが悪いというのか。ミスタ、お前はむしろはもう少し身の回りを清潔に保つ努力をすべきじゃあないのか。あやうくランチの最中に険悪な空気を漂わせるところだった。
そうしてオレは宣言通りに、今日という休日をすべて掃除に費やしたのだ。
もちろん家中ピカピカになった。洗濯物も洗い物も、塵ひとつ残しちゃあいねぇ。いや、正確には綺麗"だった"。
「おい」
この女が、同居人兼恋人であるなまえが、風呂上りに雫を垂らしながら部屋中を歩きまわるまでは。
「なにしてやがる」
「なにって? どうしたの、顔が怖いよ」
「どうしたもこうもねぇ」
「もしかして……アバッキオ、怒ってる? やっぱり一緒にお風呂入りたかった?」
「違げぇ!!」
「よくわかんないけど、ごめんね〜」
「わかりもしないで謝んじゃあねぇよ」
なまえはへそが見え隠れするキャミソールと、かろうじて下着を身に着けただけのほぼ裸(ケツが半分見えてやがる)だった。しかも、身体をろくに拭いていないのか、濡れてところどころ色が変わっていた。
それだけでオレはもう眩暈がしそうだというのに、こいつときたら、きょとんとした表情のまま冷蔵庫を開けっ放しにしてやがる。なにしろこの女は用もないのに冷蔵庫を眺めて涼むのが趣味なのだ。
オレは一瞬湧き上がった怒りを腹の底に押し戻し、冷気を逃がし続ける冷蔵庫の扉を静かに閉める。無言で濡れた床を指差すと、なまえはその瞳を下方へと移した。頭は悪いが従順な犬なのだ。
「あぁ、これ!」
「……あぁ、これだ」
「わたしが、濡れたまま、歩いたから」
「そう」
「汚しちゃったんだね」
「そうだ」
「せっかくアバッキオが掃除してくれたのに」
「その通りだ」
心底申し訳なさそうになまえは「ごめん」を繰り返す。本当に素直さだけは称賛に値するのだがいかんせん学習能力がない。きっと数分後にはまた冷蔵庫を開けやがるだろう。5ユーロかけてもいい。
案の定、なまえは再び冷蔵庫に手を伸ばした。しかし今度は火照った顔を冷やすのが目的ではないらしい。
脇にあったミルクのボトルをつかみ、その場で飲むと、なまえはまったく悪気のない笑顔を向けた。
「ごめんね、今ちょっと急いでて。あっ、もうこんな時間だ」
唇の上についたミルクをぺろりと舐め取ったなまえの表情はどこか得意げだが、その可愛い鼻の下には、髭のように白い線が残ったままだ。
ミルク色の髭を親指で剃ってやりながら、
「そんなに急いでどこ行く気だ」
と問えば、なまえは極上のスマイルでもって答えた。
「見たいドラマがあるの。ねぇ、一緒に見ようよ。たぶんアバッキオも気に入ると思うんだよねぇ」
床を一瞥したかと思えば、なまえはその水溜りを足でスッと引き伸ばし、何事もなかったかのようにルンルンぴょんぴょん飛び跳ねてリビングへ向いやがるのだった。
あまりの横着な振るまいに、オレは思わず目を見開く。しかし、このずぼら女にいくら共同生活における節度ある振るまいについて説き伏せたところで不毛だとオレは知っている。そりゃあもう、いやってほどに。
心を無にしてキッチンペーパーで床を拭いていると、アジアの修行僧にでもなれそうな気がしてきた。オレに坊主頭は似合うだろうか。頭の形にはさほど自信ないのだが。
「アバッキオー! 何してるの〜? 早く来ないと始まっちゃうよぉ〜」
リビングから届いた声にこめかみをひくつかせながら、使い終わったキッチンペーパーをゴミ箱に投げ入れると、まさに文字通り、紙一重のところで丸まったそれは的を外れ、床に落ちた。
腰をひん曲げてゴミを拾い上げる最中も、なまえは無邪気に「チャックバスがかっこいい」だとか「ブレアは可愛い策士」だとか、おそらくはドラマの登場人物かと思われる特徴を熱弁している。
ブラックバスだかユニットバスだかなんだか知らんが、そんなやつのせいでオレは惨めに後始末をさせられていたらしい。
「そんなに楽しいのか」
「うん。アバッキオ、ゴシップガール見たことない?」
「オレはンな女々しいドラマは見ねぇんだ」
「うっそだぁ。だってセックスアンドザシティのDVDボックス買ったのってアバッキオでしょ? これも見れば絶対ハマるってぇ!」
「……」
「ほらほらぁ〜ここ座ってよ〜」
(セックスアンドザシティは数あるアメリカドラマを代表する名作じゃあねぇか! エミー賞とゴールデングローブ賞も受賞してんだぞ!)
よっぽどそう言い返したかったが、もはや声を発する気力すら失ってしまったオレは、促されるままになまえの横に腰を下ろす。
途端に甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。ボディソープかトリートメント、あるいはそのすべてが混ざりあった香りか。横を見ればなまえの髪は風呂上りそのもので、ただでさえ頼りないキャミソールの肩を濡らしていた。
「髪ぐらい乾かせ」
「うん、後でね」
「後でじゃあ遅せぇだろ……ったく」
ぼやきながらもオレは結局、ソファの背にかろうじて引っかかっていたバスタオルで髪を拭いてしまうのだった。
どうしてこうもあれこれと世話を焼いてしまうんだろう。こいつになまけ癖がついてしまったのは、オレがつい手を貸してしまうせいに違いない。
濡れた髪も散らかった部屋も、なにもかも放置しておけばいいのだ。翌朝風邪をひいたというこいつに「だから言っただろう」としたり顔で説教でもたれてやればいい。家事を怠った結果、家中ゴミ屋敷になって近所の見世物にでもなれば、どれほど自分が不精だったか気づくだろう。
溢れるゴミの真ん中でぽつねんと佇むなまえを想像してみる。おかしなことに気分は晴れるよりも後ろめたさが先にたった。
「チャックってちょっとアバッキオに似てるかも」
「ハァ?」
「不器用で〜、悪人っぽくて〜、捻くれてて〜、でもいざってときは助けてくれるとことか〜」
機嫌のいいときのなまえは歌うように喋る。まるで下手くそなミュージカルを見ているようだ。
正直なところ、この男のいったいどこがオレに似ているのかさっぱりわからなかった。不器用? 悪人っぽい? 捻くれているだって? オレのこと、そんなふうに思っていたのか。
しかしせっかくの上機嫌を損ねるのもなんだか大人げがないので、横やりは入れずに適当な相槌だけは打ってやった。
「でもチャックと違ってアバッキオは誠実だよねぇ。こんなずるい駆け引きしないし……って言うかできないしぃ?」
「うるせぇな。黙って観てろ」
「駆け引きなんてできないくらいわたしにベタ惚れだもんね〜?」
「うぬぼれんじゃあねえ」
「照れちゃって〜」
たしかにオレはなまえにベタ惚れで、腹の探りあいをしかけることも、ドラマティックに揺さぶってやるような余裕もない。だが、それはお前だって同じじゃあねぇのか。
……などという甘ったるい台詞は柄ではないし、口が裂けても言えやしないので、乱暴に肩を抱くことでごまかした。
「アバッキオの耳たぶってほんと柔らかいよね〜」
「……オメーの話はポンポン飛ぶな」
オレをいじることに飽きたなまえは、今度はその標的をオレの耳たぶに移したようだ。視線はテレビ画面にやったまま、ぐにぐにと耳たぶをこねくり回されて、粘土にでもなった気分だ。
ドラマでは男と女が激しい喧嘩を繰り広げているところだった。この男が例のなんちゃらバスとかいう人物なのだろうか。なるほどあまり誠実ではなさそうだ。
「この後ね、チャックがキスするよ」
「なんでわかんだ」
「あぁ、これ、再放送だから」
「一度見たドラマをよくそこまで楽しめるな」
「だって、前見たときはひとりだったし。二度目はアバッキオと一緒に見たかったんだもん」
「そーかよ……」
こんな他愛もない一言で、すんなりと喜んでしまう単純な自分がなさけない。
そう言えばオレも、昨日のランチで注文したピッツァがえらく美味かったから、次はなまえを連れてこようと決めたのだった。
日常のなにげない瞬間に、ふとなまえの間抜け面が思い浮かんで、こんなときそばにいたらなと思う。絶品ピッツァを頬張るなまえを想像してみたりもする。
そうだオレは、好きなドラマを一緒に見たがるなまえと大差ないのだ。
「……オレらって結構似たとこあるよな」
「うん。……えぇえっ?!」
「それ、どーいう意味?! わたしたち正反対じゃん!」ものすごい勢いで質問攻めにされたがすべて無視した。代わりに意味ありげな微笑を浮かべ、なまえの言う"駆け引き"とやらの真似事をしてみせる。
(2013.12/04 UP)(2019.11/12 修正)
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