結婚すんだ、俺たち。
 そう報告したときのブチャラティの顔を、俺は一生涯忘れないだろう。
 ハトが豆鉄砲を食ったような顔とはまさにあれだった。俺たちを交互に見て、目を瞬かせてから、ようやっとぎこちなく「そうか、おめでとう。お前たち二人ならいい夫婦になるだろう」と取ってつけたような祝言をくれたのだった。内心では気でも狂ったのかと疑っていたに違いない。
 たしかになまえは妻にするにしては少々、だいぶ、かなり、いやものすごく、問題のある女だ。
 家事全般を任せるなんてとんでもない。あいつがキッチンに立った朝のことなんて、思い出すのもつらいほどだ。危うくベーコンと一緒に家まで燃やされるところだったし、故意なのかと勘ぐる確立で高級な食器を選りすぐって割った。洗濯をさせれば白いシャツをピンクに染めてしまうし、とにかく要領が悪くて、なにをするでも危なっかしい。不器用もここまでくると、よくもまぁ今まで無事に生きてこられたなと逆に褒めてやりたくなる。
 しかしだからこそ目が離せないし、俺がそばにいてやらなければと妙な使命感に駆られるのだ。そもそもこのずぼら女は、てめぇの世話だってろくにできやしないのだから。
 そんなわけで、今日も今日とて昼過ぎまでダラダラと惰眠を貪るなまえをベッドから叩きだすのは俺の役目だった。


なまえ

「ん……?」

「いい加減起きて準備しろ」

「……じゅんびぃ?」


 なまえはニヤケ顔を必死でとりつくろったような表情でもって、俺の目をわざとらしく見つめていた。間違いない。このマヌケ面は、白を切ろうとするときのそれだ。
 今日はコーディネーターと打ちあわせの予定がある。式のこまごまとした決めごとのためだ。衣装とか、引出物とか、テーブルに飾る花について。


「四時の約束だぞ」

「わたしはなぁんだっていいから。アバッキオ、センスいいんだしテキトーに決めちゃってよ」


 女とは、みな総じて金持ちの男とクリスピークリームドーナツとウエディングに目がないのだと信じて疑わなかった俺だが、なまえと出会ってからその考えは改めざるを得なくなった。
 この女は結婚式に夢や憧れどころか、面倒な準備を要するパーティーぐらいにしか捉えていないようで、前回の打ちあわせのときなんかは話し始めてまもなく居眠りこいてコーディネーターを引かせていた。
 式の予算にすくみあがる新郎を「愛する花嫁の夢を叶えてあげましょう」だとかいかにもな巧言を弄して丸めこみ、向こう見ずな行動を起こさせることが仕事の彼女にとって、とんでもなく手ごわい花嫁だろう。なにしろこの女はつねに夢のなかで生きているようなものだから。


「ナマ言ってんじゃねぇ。だいたいドレスはどうすんだ。早めに予約しねぇといいのなくなるだろーが」

「べっつにいいじゃん、ドレスなんて」

「裸でバージンロード歩くつもりか」

「そのときはカーテンで作るもん。ほら、スカーレットみたいにさ」

「アァ?!」

「そんなに怒んないでよぉ」


 急になにを言いだすのかと思ったら古い映画の話だったらしい。なまえは緩慢にベッドから這いでて、裸足のままフローリングをぺたぺた歩く。窓辺にたどりつくとカーテンを強引に引きよせて体に巻きつけ始めた。さらにはこちらに向ってポーズをとり「どう、似合う?」なんてほざいている。
 たしかに我が家のカーテンはなまえの肌にあう色味だが、そんな戦時中の貴族みてぇな真似させてたまるか。
 お前はこの世で最も美しいドレスを着て、独身女たちの羨望のまなざしを一身に浴びながら赤いカーペットを踏み歩くのだ。ギャングの男なんぞに大事な娘をくれることを承知してくれた、寛容ななまえの両親のためにも。なにもかも完璧な式にしたい。
 俺の趣味ど真ん中のデザインのウエディングドレスとティアラのためなら、入籍早々に借金を抱えたっていい。俺はそんな並々ならぬ覚悟を持って式に挑んでいると言うのに、この暢気なアホ女ときたら。


「ねぇ、カーテンドレスもなかなかいいでしょ?」

「……テメーはなんもわかっちゃあいねぇよ」

「なにをわかってなくちゃだめなの?」

「なにもかもだ」

「な〜にそれ」


 自分にぴったり似あうドレスの色形。フライパンの焦げつきの取り方について。色移りしない洗濯の方法。いかに俺がなまえを愛しているか。そのどれひとつとったって、こいつはまったくわかっちゃあいないのだ。


「……化粧してやる。早く顔洗ってこい」

 俺がそう切りだすのを待っていたかのように、なまえは目にも留まらぬ速さでバスルームに駆けこんでいった。カールルイスも青ざめるいいスタートダッシュだった。


「ここ座れ」

「はぁい」


 顔をろくすっぽ拭かずに戻ってきたのか、顎のあたりに雫がついていた。そんな水を飲んだ直後の猫みたいななまえを足の間に座らせて、髪にヘアオイルを塗ってやる。たいして手入れもしていないくせに枝毛一本見あたらないのは、ひとえにこの俺の努力の賜物だ。正確にいえば俺と優秀なヘアケア商品の功労だが。
 髪を整え終えたら、今度は顔中にまんべんなく化粧水と下地を塗って、軽くファンデーションを当てる。チークは目立たない色をわずかにのせるだけにした。


「オイ、こら、動くな」

「あはは、だってアバッキオの手、くすぐったくて」


 なまえが顔を歪めたり動いたりするせいで、マスカラの黒い繊維が親指についてしまった。
 ティッシュペーパーで汚れをふき取りながらリップグロスの色を選ぶ。ピンクもいいが、あまり目立つとドレスを選ぶのに支障をきたすかもしれない。かといってベージュ系だとしっくりこないし。
 俺はたっぷりと逡巡した末、控えめなオレンジのリップグロスを手にとった。


「顔あげろ」

「こう?」

「あげすぎだ」


 おどけた調子で天を仰ぐなまえの顎をつまんで、丁度いい位置に持っていく。俺と比べればだいぶ小さくて薄い唇。その頼りない粘膜の上に筆を滑らせていると、なぜだか急激に愛しさが募ってきてたまらなくなった。
 気がついたときにはもう、塗り終えたばかりの唇に自分のそれを激しく押しつけてしまっていた。さきほどまで細心の注意を払ってふれていた部分を荒らすのは、不思議な感慨がある。
 丹精こめて完成させた陶器の焼き具合が気に食わず、自らの手でぶち壊す陶芸家や、書き終えた油絵を黒い絵の具で塗りつぶしてしまうスランプの画家なんかは、このような気分を味わうのだろうか。


「ん……っ」

「……」

「アバッキオ……?」

「……なんだよ」

「グロス、とれちゃうよ」

「……何度でも塗りなおしてやるさ」


 リップグロスとは見た目こそ艶やかで魅惑的だが、ふれてみるとベトベトした感触を伝えるのみで、さほど気持ちのいいものではない。人工的な味もイマイチだ。
 俺はそれらを拭うつもりで塗ったときよりも丹念に舐めとっていく。なまえはいつまでもされるがままになっていた。


「……ねぇ、ドレス選ぶのは明日でいいんじゃない?」

「……」

「アバッキオ……」

「……あぁ」


 この場合の「あぁ」は、ただの相槌ではない。俺は白旗を上げたのだった。
 結局のところ俺はいつだって振りまわされてばかりで、最後はなまえの希望どおりにことが進んでしまうのだ。毎度見事に懐柔されてしまう俺も俺だが、もうこの際だ、男らしく腹を括ってやる。コーディネーターにはのちほど謝罪の連絡を入れればいい。
 着々と彼女の部屋着を脱がしにかかりながら、頭では誓いの言葉を練りあげていた。「幸せにする」だなんて、ありふれた愛の台詞、俺たちには必要ないだろう。
 なんたってこいつはもう十分、幸せそうな面をしてやがるじゃあないか。さっきからなまえの瞳に映りこんでいる、俺の顔と同じように。





(20130804.「オウム返しの会話編」企画提出)(2019.07/07 修正)


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