時計の短針が2を指し示す頃。ネアポリスの路地裏で頭を抱える男がひとり。泥酔し全身ずぶ濡れになった女がひとり。



なまえ、いい加減にしろよ」

「えへへぇ」




 トレヴィの泉を真似たような、だがしかし本物と比べるにはいささか精度の低い噴水の、中央に座りこみ間抜な笑いを漏らすなまえ。その真横でオレは、こうなるに至った経緯をふりかえり、眉間に皺を寄せていた。

 自分のアルコール分解能力をわきまえずワインを1本飲み干したなまえが悪いのか。あるいは、それを許し、あまつさえ千鳥足の酔っ払いからほんの一瞬目を離してしまったオレに落ち度があるのか。



「ひゃあー、つめたーい」



 冷たいと言うわりに、ばしゃばしゃと水面を揺らしている。どう見たってはしゃいでいるようにしか見えない。もともとなまえは幼いところのある女だが、酔うとその幼稚さはより研ぎ澄まされて、まぁようするに面倒だ。
 昨日買ってやったばかりの、背中の開いた白いシフォンワンピースは、水を吸いこんで重そうだった。肌に密着した状態で透けてしまっている。



「アバッキオもやったらいいのに」

「するかよ」

「つめたくてきもちいよ」




 舌っ足らずにうかれるその様子は、よくいえば幻想的、ありていに言ってしまえば狂気的だった。
 もしかするとなまえの瞳は、煌びやかなビー玉か、万華鏡で出来ているのかもしれない。それだけに、なにをしていても楽しげなのかもしれない。
 火照った頬を手で挟みこみこちらを向かせたが、漆黒の目玉がきょろきょろと泳いでいるだけだった。



「なぁに?」

「……なんでもねぇよ」

「へぇんなアバッキオー!」

「おいうるせぇ! でけェ声出すな!」

「自分の方がおおきな声だしてるじゃん」

「…………」



 日中はいくらか人通りもあるが、さすがにこの時間になると野良猫一匹いやしない。
 つまるところ、ここはあまり治安のいい場所ではないのだ。女の声に釣られた愚かな野郎が集まって来ては厄介だし、なによりオレにとっての面倒ごとはこいつ一人だけで充分だった。

 とはいったものの、さてこの濡れ鼠をどうするか。水遊びに付き合うのはごめんだが、この後なまえを背負って歩くことになるのは目に見えていた。ならば、気にしたところで不毛だろう。
 オレはため息ののち、噴水に足を踏み入れてなまえの腕を引きあげた。



「ほら行くぞ」

「待ってアバッキオ! 指輪落としちゃった」

「あぁ?」

「今ね、水の中で、キラって光ったの」

「……おい、アホかお前、その左薬指にはまってんのは一体なんだよ」

「あれー、ほんとだぁー。不思議だねぇ。ふふ、うふふ」



 夢見心地な眼差しで、なまえは左手を空にかざした。夜空には満月が浮かんでいる。
 ネアポリス中のジュエリーショップをめぐった末、なんとか購入まで漕ぎ着けた指輪だ。そうだ、大切にしてくれよ。オレは胸の内でつぶやく。

 この指輪をくれてやったときのなまえの喜びようといったら。はしゃぎすぎて眠れなくなった子どものように、一日中騒ぎ倒していたのは記憶に新しい。そう高価なものでもないというのに、ああまでも全身で喜びを表現されれば、嫌な気はしないものだ。

 以来オレはなまえにあれこれと物を与えてきた。洋服、アクセサリー、バッグに靴。それと、家もだ。「オレの家に来ないか」そう言ったときのなまえの面食らった顔は傑作だった。写真に撮って携帯の待ち受け画面にしてやりたいくらいだ。
 今こいつが履いている、いや、先ほどまで履いていたヒールなんかもそうだ。ショーウィンドウに飾られたそれをひと目見て、なまえの華奢な足にはあつらえ向きだと思った。今はこの調子で、水面にぷかぷかと浮かんでいるけれど。なまえが纏っているだいたいのものには、オレたちの歴史が刻まれている。



「は、っくしゅっ!」



 あれこれと記憶を引っくり返しているうちに、オレはいつの間にか放心していたらしい。なまえの間抜なくしゃみにより現実に引き戻された。感傷に浸っている場合ではなさそうだ。早くなまえをどうにかしなければ。
 家に着いたら、まずは服を脱がせて、こいつを風呂につっこんで、ああでもこの調子じゃバスタブで溺れてしまうだろうか、だったらまずオレが服を脱いで、それから……



「ハァ……」

「アバッキオ、どうしたの? 大丈夫? おなかいたい?」



 心配のしどころは見当違いだったが、酔っ払ってもオレを気遣うことを忘れない優しさだけは褒めてやりたい。

「痛くねぇよ」
 と、そっけない返答をすれば、

「そっかー、ならよかったぁ」
 と、満面の笑みでもって返されてしまったものだから、嫌味のひとつすら浮かばなかった。



「いつまでもんなとこに座ってんなよ」

「ん」

「まったくよぉ……ガキじゃねんだぞ」

「知ってるよぉ、ガキじゃちゅーもえっちもしないもんねぇ」

「…………おら、立て」



 なまえはオレの首に腕を回してきたが、足腰にはあきらかに力が込もっておらず、一向に立ち上がろうとしない。
 しゃがみこみ背中を向けて「おぶってやる」のポーズをとるが、なまえは水をかけるばかりで、背負われる気はなさそうだ。そればかりか、新しい遊びを発見した子どものようなはしゃぎっぷりだった。



「ふざけてんのか」

「ふざけてんの」

「おい」

「ふふ」

「置いてくぞ」

「いやー」

「じゃあ立て」

「それもいやー」

「ったく……この酔っ払いが」

「アバッキオ、髪濡れちゃったねぇ」

「誰のせいだと思ってんだ」

「んー……わたし?」

「お前以外に誰がいんだよ」

「ごめんねぇ、アバッキオの髪、せっかくきれいなのにねぇ」

「お前だって」



 お前だって、綺麗じゃねぇか。
 そう言いかけて思いとどまる。酔っ払い相手に口説いてどうする。この様子じゃきっと、翌日には自分がどのようにしてベッドに納まったのかも記憶にないだろう。

 もしかすると、オレも相当に酔いが回っているのだろうか。なまえを連れて飲むときは万が一のことを考えてセーブしているつもりだったのに。



「べしょべしょだね」



 よろけた身体を抱きとめるようにして支えれば、両頬に手を当てられ、唇に噛みつかれた。痛みがない程度の甘噛だった。
 酩酊したなまえはいつにもまして積極的になる。悪くない。本当に、そこだけは悪くはないのだが。

 唇が離れ「えへへ」と笑った次の瞬間には、またしても酔っ払い特有の千鳥足を披露するものだから、もういっそのこと横抱きに抱えこんでやった。まったくもって危なっかしい一挙一動に目も当てられない。オレがいなかったら今頃どうなっていたか。オレがいなければこいつは、死んでしまうんじゃあないか。いつだってそう思う。なまえにはオレが必要なのだと。それはオレのうぬぼれだろうか。



「おい、危ねぇだろ」

「だって、アバッキオにちゅうしたかったんだもん」

「ババアみてぇな足腰のくせに調子のったことするじゃあねえ」

「えぇ〜」


 わたし、ばばあじゃないよぉ、ねぇアバッキオぉ。そうでしょ。
 夜道になまえの声がこだましている。



「わたしがおばあちゃんになってもずっと一緒にいてくれる?」

「……さぁな」

「えー! なにそれぇ」

「いいから少し黙ってろ」

「ねぇねぇアバッキオぉ」



 ねぇねぇ。ねぇ。アバッキオ。

 オレの腕の中でじたばたと騒いでいたなまえも、しばらく経つと大人しくなったのできっと眠ってしまったのだろう。街灯を反射する石畳の上を、一歩一歩踏みしめながら将来について思いをめぐらせた。一体なまえはどんなシニョーラになるのだろう。……いや、そもそもなれるのだろうか。こいつのことだから、このまま年を重ねていくこともあり得なくはない。妙な不安にとりつかれたまま視線を落とせば、にまにまと無駄に幸福そうな顔で眠りこけるなまえの顔が目に入った。

 明日、二日酔いに苦しむなまえに言ってやろう。たとえおまえが望まなくとも、死ぬまでそばにいてやると。



(2012.01/21 UP)(2019.11/12 修正)



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